
威徳院(三豊市高瀬町下勝間)
前回は、威徳院の歴史について次のような仮説を立てて見ました。
威徳院には史料的に中世に遡るものはない。戦国時代になってから道隆寺の末寺として建立されたのをスタートにする。それが生駒時代に藩の保護を受け、周囲の新田台地
の開発を進め伽藍を整備し西讃の教学センターとして大きな地位を占めるようになった
ある意味、象頭山の松尾寺金光院と似ています。松尾寺も近世初頭に創建された新興寺院でした。それが、金毘羅神という流行神を祀り、天狗信仰の聖地となることで多くの修験者を集めるようになります。そして、金比羅で修行した修験者が各地に分散し、金比羅講を開き信者を組織し、彼らが先達として金比羅詣でを進めるようになります。金比羅の出発は「海の神様」ではなく、「天狗信仰の聖地」であったのです。同じような動きが高瀬の新田台地でも起こっていたと私は考えています。
「威徳院に近世以前の歴史はない」云いましたが、この寺には中世の絵図がいくつも伝わっています。これらをどう考えるかが次の問題になってきます。
威徳院調査報告書の中世絵画を見ていくことにします。
威徳院調査報告書の中世絵画を見ていくことにします。
威徳院には、絵画や書跡の掛幅、屏風、扁額など135点が保存されているようです。その中には、奈良国立博物館に保管されている威徳院所蔵の中世仏画四件を含みます。その内訳を見ると、絵画90件、書跡45五件と、絵画が全体の約2/3を占めます。その伝来は、高野山や、住職の兼帯などが行われた本山寺(三豊市豊中町)からもたらされたものが多いのが特徴のようです。
この中で中世に遡るのは次の九件です。
①南北朝時代に描かれた「不動明王二童子像」②室町時代の作として、「十三仏図」③「十一面観音像」④「愛染明王像」⑤「三千仏図」⑥「仏涅槃図」⑦「弘法大師像」⑧「荒神像」
大正元年にまとめられた「宝物什物記載帳簿」(威徳院蔵)には①「不動明王二童子像」と②「十三仏図」を「宝物」として冒頭に記しています。ここからは、この2つが威徳院にとって特に重要な仏画と位置付けられていたことが分かります。
右手に剣、左手に頴索を持って語々座に結珈践坐する不動明王です。頭頂に蓮華を載せ、髪を総髪にして左前に弁髪を垂らし、両眼を見開いて上歯で下唇を噛みしめています。いわゆる弘法大師様と呼ばれる図像です。背後の迦楼羅炎は、朱と金泥で全身を覆うように表され、激しい火焔が台座の下に写っているのが見えます。不動明王の肉身は群青で、頭髪や眉は金泥で線描されています。
脇侍の二童子は、床に置かれた方形の台座上に立ちます。向かって右が衿掲羅童子で、右手に蓮華、左手に独鈷杵を持ち、肉身を白色に近い明るい色の顔料で塗り、頭髪は墨の細線で描かれていて黒髪の雰囲気がよく出ています。
左が制吐迦童子で、右手に宝棒、左手に三鈷杵を握ります。躰は全身が朱色で、頭部の巻毛は金髪です。おおらかさも感じられ、制作時期は南北朝時代、十四世紀頃と研究者は考えているようです。
県内にある不動明王画像の中でも古作の一つになるようです。大正元年にまとめられた「宝物什物記載帳簿」(威徳院蔵)では弘法大師筆と伝えられ「宝物第一号」とさています。大正時代には、この「不動明王二童子像」が最重要宝物として扱われていたようです。
不動明王は修験者の守護神です。
修験者は笈の中に小さな不動さまを入れて各地を修行しました。そして、適地を見つけると小屋掛けし庵を結びます。その行場に人気が集まると訪れる行者も多くなり、寺へと発展していきます。
修験者は笈の中に小さな不動さまを入れて各地を修行しました。そして、適地を見つけると小屋掛けし庵を結びます。その行場に人気が集まると訪れる行者も多くなり、寺へと発展していきます。
現在の四国霊場の多くは、このように行者たちの行場から生まれたお寺が数多くあります。行場には不動さまが祀られていました。山の上にの行場近くにあったお寺は、近世になると麓に下りてきます。本山寺などはその典型であることは以前にお話ししました。行場は奥の院として残り、そこには不動さまが今でも祀られていることが多いようです。
ここからは不動さまを祀っている寺院はかつては行場を持つ山岳(海洋)寺院であったことが推察できます。
この不動さまを「宝物第一号」としていた威徳院にも、そのような側面があったことが考えられます。それは、前回もお話ししたように山号が「七宝山」であることからもうかがえます。七宝山は「辺路修行」の聖地でした。そこにかつては寺院があったり、七宝山を霊山とするお寺は、この山号を用いています。それは本山寺も延命院もおなじです。 この不動さまが中世の時代から威徳院にあったかどうかは、不明です。
この不動さまを「宝物第一号」としていた威徳院にも、そのような側面があったことが考えられます。それは、前回もお話ししたように山号が「七宝山」であることからもうかがえます。七宝山は「辺路修行」の聖地でした。そこにかつては寺院があったり、七宝山を霊山とするお寺は、この山号を用いています。それは本山寺も延命院もおなじです。 この不動さまが中世の時代から威徳院にあったかどうかは、不明です。

②「十三仏図」(室町時代(十四世紀)は三豊市の有形文化財に指定されています。
中世には、死者追善のために十三回の忌日ごとに供養を行う十三仏信仰が広がっていました。そのために描かれたのがこの仏画のようです。十三仏信仰は、鎌倉時代に中国から伝来した十王信仰をもとに、各王に本地仏を定め、忌日も増えるなどして南北朝時代頃に成立します。それぞれの忌日と本地仏は、次の通りです。
初七日忌-不動明王、二七日忌-釈迦如来、三七日忌-文殊菩薩、四七日忌-普賢菩薩、五七日忌-地蔵菩薩、六七日忌-弥勒菩薩、七七日忌-薬師如来、百ヶ日忌―観音菩薩、一周忌-勢至菩薩、三回忌-阿弥陀如来、七回忌-阿問如来、十三回忌-大日如来、三十三回忌-虚空蔵菩薩

威徳院の「十三仏図」は、各仏を上のように配置して、それぞれに仏の名称のほか、十王の名と忌日を二行で墨書しています。
室町時代以降の十三仏図では、忌日順に本尊が並ぶのが多いのですが、この図は各尊像の順番が交錯する複雑な配置になっています。これは、「画面中央に位置する阿弥陀三尊や釈迦三尊などのまとまりを意識した構図とも考えられ、類例の少ない図像」と報告書は指摘します。
それ以外の特徴としては、通常は虚空に浮かぶ蓮華座上に仏たちをを描くことが多いのですが、この図は文殊・普賢菩薩が獅子と象に騎座します。また各仏の下には、岩座や水波などの自然景が描かれます。この絵図の制作時期は、室町時代前半、十四世紀と推定されているようです。
しかし威徳院への伝来は、18世紀以後になるようです。
なぜなら巻留の墨書に、十八世紀前半にはこの絵図は高野山雨宝院の真辨が所蔵していたこと記されているからです。それが後年、何らかの形で威徳院に伝えられたようです。この絵図が伝えられる人脈ネットワークが威徳院と高野山雨宝院の間にはあったことになります。
しかし威徳院への伝来は、18世紀以後になるようです。
なぜなら巻留の墨書に、十八世紀前半にはこの絵図は高野山雨宝院の真辨が所蔵していたこと記されているからです。それが後年、何らかの形で威徳院に伝えられたようです。この絵図が伝えられる人脈ネットワークが威徳院と高野山雨宝院の間にはあったことになります。
③十一面観音像 縦100,5㎝ 横39㎝ 室町時代(十五世紀)
「十一面観音像」は、錫杖を持って立つ十一面観音の両脇に、難陀龍王と雨宝童子が配されるスタイルです。頭上に十一面を戴せて、右手首に念珠を巻いて錫杖を持ち、左手に水瓶を持って立ちます。その下側に両手で宝珠を捧げ持つ難陀龍王、宝珠と宝棒を持つ雨宝童子の二脇侍が描かれます。このような十一面観音三尊像スタイルは、奈良・長谷寺の本尊と同じで、長谷式十一面観音と呼ばれます。県内では、長谷式の十一面観音画像は非情にめずらしいようです。秘仏とされる威徳院の本尊も長谷式十一面観音像で、難陀龍王、雨宝童子の脇侍が附属する三尊像です。この図も本尊との関連性が考えられます。報告書の記述を見てみましょう
十一面観音は、肉身を金泥で塗り、肉身線を朱の鉄線描で描き起こす。顔貌は、正面向きでやや平板化した印象もあるが、衣や光背の文様はのびやかな墨線で破綻なく描かれる。脇侍の二尊はごく細い線で眉や頭髪を描き、顔は墨や朱などを使って表情豊かに描かれており、室町時代十五世紀に、優れた技量を持つ画家によって描かれたものと考えられる。巻留および箱の銘文から、十九世紀の前半と文久三年(1862)に、遍空と密道の二人の住職の手でそれぞれ修復されたことがわかる。
④愛染明王像 縦104、2㎝横41、3㎝ 室町時代(十五世紀)
愛染明王は、人々が愛欲、煩悩に向かう心を浄化して悟りへと導く明王です。息災、調伏、敬愛などを祈願する愛染法の本尊として信仰を集めたようで、香川県内にも数多く残されています。。
この図は、中央に、宝瓶の上の蓮華座に結珈鉄坐する一面三目六腎の愛染明王が描かれます。その上には環路の下がった天蓋、床上には宝瓶から湧き出した宝玉や貝殻を描かれます。明王の六腎は、第一手の左手に五鈷鈴、右手に五鈷杵、第二手の左手に弓、右手に矢、第三手の左手に蓮華が握られ、右手は金剛拳です。髪は怒りの怒髪で、獅子冠を戴せています。教典通りの絵柄です。
報告書を見てみましょう
粗めの画絹の上に、愛染明王は肉身を朱で塗り、肉身線を細い墨線で描くが、描写は全体にやや硬く形式化がみられる。台座等も含めて截金の使用は見られず、衣の文様も金泥と彩色によって截金文様風に描いており、画風から、室町時代、十五世紀の制作と考えられる。巻留には、智証大師筆とする墨書があり、威徳院でも重要な仏画の一つとして伝来したものと考えられる。
⑤ 三千仏図 三幅 南北朝~室町時代(十四世紀)
三千仏図は、過去・現在・未来に現れる諸尊の仏名を唱えることで、罪を傲悔し、功徳を得ようとする仏名会(仏名懺悔会)の本尊です。これも巻留に、宝暦五年(1755)に住職の周峯が高野山で求めたことが記されています。18世紀半ばまでは高野山に伝来していたものが、その後威徳院に伝来したことが分かります。
⑥ 仏涅槃図幅 縦140、9㎝ 横108,8㎝ (十五世紀)
釈迦は、その生涯を沙羅双樹の下で終えます。釈迦入滅の情景を描いたのが仏涅槃図です。この図は、中央に右腕を枕にして宝床に横臥する釈迦を描かれます。その周りに釈迦の死を聞いて集まり、嘆き悲しむ諸菩薩や仏弟子、様々な動物たち会衆の姿があります。画面向かって左上には、知らせを聞いて天上界から飛来する釈迦の母摩耶夫人の姿も見えます。この構図が鎌倉時代以降に主流となった定形版のようです。
仏涅槃図は、涅槃会の本尊として用いられるので、大きな寺院には必ず備えられていました。
この図とほぼ同じものが、覚城院(三豊市仁尾町)、地福寺(丸亀市広島)などのいくつかの真言宗寺院に伝来しています。ここからは同一の絵師、または工房で制作された可能性があります。 室町時代以降、地方寺院では宗教行事のために「仏画需要」が高まります。それを受けて、絵所などで粉本を用いた仏画を数多く制作し、供給していたことがうかがえます。
地福寺本の紙背には、次のように記されています。
文明三/辛/卯/十月十五日/絵所/加賀守主計/彩圓終焉屹
ここからは文明三年(1472)に絵所の絵師、加賀守主計が描いたことが分かります。威徳院のものも同じ工房で作られたとすると、十五世紀後半に加賀守主計の絵所か、またはそれに近い位置にいた絵師によって描かれたことが推測できます。加賀守主計については、史料では室町時代に、京都で活動した加賀守(加賀)を名乗る絵師がいたことが分かっているようです。
高野山の寺院を兼帯する威徳院住職が高野山で求めて持ち帰ったのを周辺の僧侶が見て、「うちにもあれと同じものを求めてきてくらんやろか」と依頼する姿が浮かんできます。
⑦ 弘法大師像 室町時代(16世紀)
画面向かって左斜めを向き、右手に五鈷杵、左手に念珠を持って背のある椅子に坐す弘法大師の姿が描かれます。その背後に、山間から姿を現した釈迦如来が描かれています。「善通寺御影」とよばれる弘法大師像です。高野山で描かれた弘法大師像には釈迦如来は描かれていません。ところが讃岐で描かれたものには、釈迦如来が描かれるようになります。
どうしてなのでしょうか?
空海が四国の山中で修行をしていた時に、釈迦如来が雲に乗じて現れたという説話を絵画化したものとされます。鎌倉時代に讃岐に留配された僧道範が著した「南海流浪記」に、善通寺で釈迦如来の姿が描かれた空海自筆の大師像を見たという記述があります。ここからこのスタイルは「善通寺御影」と呼ばれるようになったようです。
この様式は香川県内には、多くの作例があります。その背後には、与田寺の増吽の布教活動と重なることが指摘されています。つまり、この善通寺御影があるところは、増吽の組織していたネットワークに組み込まれていたと研究者は考えているようです。増吽の性格は「熊野信仰 + 勧進僧 + 書写ネットワークの元締め + 高野聖 + 弘法大師信仰」といくつもの要素が絡み合ってることは以前にお話ししました。そのようなネットワークの中に威徳院も組み込まれていたことがうかがえます。
今に伝わる「善通寺御影」の作例は、どれもほぼ同じ図様です。そこからは原本となるものを、写し継いで、増吽の工房などで多数の画像を描いたことが想像できます。報告書の記述を見てみましょう。
本図は釈迦如来の描写も含めて、明快な墨線と彩色で描かれるのが特徴である。釈迦如来や岩山などの描写にやや形式化した硬さも認められることから、制作時期は十六世紀、室町時代後期と推定される。紙背の墨書から、仏涅槃図と同じ時期に修復が行われていることがわかる。
⑧ 荒神像 縦70,2㎝ 横38、8㎝ 室町時代(十五世紀)
荒神は、仏教経典の中に出てきません。神仏習合思想や俗信的信仰の中から生まれたものです。荒神には、次の3つタイプがいます
A 相好柔和な如来荒神、B 八面八(六)腎の夜叉羅刹形である三宝荒神C 宝珠と宝輪を持つ俗体形で子島寺の真興が感得したという子島荒神
この荒神は、B三宝荒神を描いたもののようです。報告書を見てみましょう。
本面の左右に脇面、頭上に五面を戴いた八面で、いずれも怒髪の忿怒形で怒る姿が描かれている。第一手は胸前で合掌し、第二手は左手に宝輪、右手に羂索、第三手は左手に弓、右手に矢、第四手は左手に三叉戟、右手に三鈷戟を持ち、火焔を背にして荷葉座に坐す。荒神の肉身は朱で塗り、輪郭は肥痩のある墨線で描く。持物の一部や座具の縁には截金を施し、頭髪や眉を金泥で筋描きするほか、装身具や衣の文様なども金泥で描く。粗い目の画絹に素朴だが伸びのある描線で描かれており、火焔などの彩色には細やかな輦しも見られる。制作時期は、室町時代、十五世紀前半と考えられ、県内でも類例がほとんど見られない中世の荒神画像として貴重である。
威徳院に伝わる中世仏画を見てきました。ここから推測できることを挙げておきます
①江戸時代の威徳院の住職は、高野山のお寺と兼帯する者が増え。その関係からか高野山からの伝来を伝えるものがいくつかある。
②「十三仏図」「仏涅槃図」「弘法大師像」「荒神像」「十一面観音像」などは、年間の宗教行事の「開帳」のために必要なもので、後世に必要に応じて購入伝来した可能性が高い
③「不動明王二童子像」「愛染明王像」などは、密教系修験道に関係するもので、威徳院の本源的な姿を伝えている。
以上から威徳院に残された中世仏画類が威徳院の中世の歴史を伝えるものとは、必ずしもいえないことがうかがえます。「威徳院近世出現説」を葬り去ることはできません。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 威徳院調査報告書 松岡明子 威徳院の書画
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