東大寺の造営は、聖武天皇が国家プロジェクトとして打ち上げたものですが、それがなかなかプラン通りには進まなかったようです。豪族たちの中には「お手並み拝見」と傍観者的対応をとる人たちも多かったようです。そのような中で秦氏が果たした役割は大きかったようです。今回は大仏造営の銅を秦氏がどのように集めたのかを見てみようと思います。
最初に、大仏造営前後の銅生産がどのように行われていたのかを押さえておきます。
山尾幸久は「古代豪族秦氏の足跡」で、次のように述べています。
「『延喜式』主計式には、国家の銭貨鋳造機関に納付する原料銅は、「備中・長門・豊前』三国の負担と定められている。几慶二(878)年には『豊前日規矩郡の鋼を採る』ことについての指示が出されていて、仁和几(885)年には「豊前国の採銅使」のもとに長門から技術指導者が派遣されている。(『一代実録』)
ここには9世紀の段階では、国家管理下の原料銅は「備中・長門・豊前』の三国の負担で、一括管理されていたことを指摘します。そして、ヤマト政権による銅管理は、和銅三(701)年1月、『太宰府、鋼銭を献る』頃に始まったとします。つまり、銅の「国家的採銅」は「六世紀末より古い」と山尾氏は考えているようです。
加藤謙吉は『秦氏とその民』で、次のように述べています。
「六・七世紀の時点では自然銅採取にかかわる竪穴掘法や、それにともなう本格的な製錬工程も開発されていたと考えてよい。このようなすすんだ生産形態は、渡来系技術の導入によって初めて実現し得るものであるが、香春岳の採鋼に渡来人の専業者集団の存在が想定できる以上、既にそうした段階に達していたと理解するのが適当とみられる。しかも豊前国においてかかる生産形態に質的・量的に対応できる渡来系集団は秦系をおいて他にない。勝姓者の管轄のもと、六~七世紀に、秦人を中心とする秦系集団が豊前の銅生産に従事したと想定して、まず間違いないと思われる」
長門で採掘された銅が大仏造営に大きな役割を果たしたことは考古学的にも裏付けられます。
1972年9月美東町の山中にある銅鉱山から数片の古代の須恵器が採集されました。これによって長登銅山跡は、日本最古の銅山であることが明らかになりました。また、1988年には、奈良東大寺大仏殿西隣の発掘調査が実施され、この時出土した青銅塊の化学分析の結果、奈良の大仏創建時の銅は長登銅山産であったことが実証されました。
東大寺正倉院に残る古文書には、長門国司から26474斤もの大量の銅が東大寺に送られた記録があります。これが大仏鋳造用で長登銅山産出のものと考えられています。26474斤は今の約18tに相当します。これは1回分の船積みの量であり、長登からは数回送付されたと推察できます。
長登銅山跡出土した木簡
出土した木簡や墨書土器から、長登銅山跡が国直轄の採鉱・製錬官衙であったことが明らかとなりました。
その木簡のうち船舶の通行証をチェックする豊前門司関(海関)に宛てた銅付礼には、次のように記されています。
宇佐恵勝里万呂 九月功上束秦部酒手 三月功上束
これを研究者は次のように解読します
①木簡の書かれた年代は710年代前半から730年代前半まで②宇佐恵勝里万呂は『宇佐恵』がウジ、『勝』がカバネ、『里万呂』が名
長門の長登銅山には、大仏造営という国家的プロジェクトのために、官人を初め多数の雑工・役夫が各地から移住してきたと推定できます。それ以前に豊前と長門の鉱山では技術者交流が行われていたようです。ここに名前が出てくる宇佐恵勝里万呂や秦部酒手もそのような鋳工の一人のようです。『宇佐恵』の氏名は豊前国宇佐郡の郡名と関連する氏名かもしれません。
門司関に宛てた船舶の通行証としての木簡ですから、宇佐恵勝も秦部も九州からやってきた人物なのでしょう。「宇佐」「秦」の氏名は、豊前の「秦王国」の人々で、八幡信仰圏の銅採掘・加工の技術者であったかもしれません。豊前の香春神社の香春山の三の岳の元八幡宮の地は、「製鋼所」という。このような事実や、前述した加藤謙吉の見解からみても、 大仏鋳造に用いた「熟銅 七十三萬九千五百六十斤」の供給には、秦氏・秦の民が関与していたことがうかがえます。
聖武天皇は秦氏の官人を長門守に任命派遣しています。
それが「大秦公」の姓を授けた嶋麻呂です。嶋麻昌については、天平十七年(745)五月三日条に、次のように記されています。
地震ふる。造官輔従四位下秦公嶋麻呂を遣して恭仁宮を掃除めしむ。
「秦公」は「大秦公」の略ですが、嶋麻呂は造宮録から造宮輔に昇進し、地震後の復旧業務にあたらせています。恭仁官の管理をまかされているので、天皇の信頼が厚かったことがうかがえます。その2年後の天平十九年二月に、彼は長門守に任命されます。この年の九月から大仏の鋳造が初まっています。鋳造には銅が必要なことは、前回お話ししたとおりです。
長門国美祢郡の長登銅山(山口県美祢市美東町長登)は文武二年(698)から和銅四年(711)に開山されています。この銅山の周辺の秋吉台一帯は、7世紀代の住居跡から銅鉱石・からみ(銅滓)などが検出されています。他にも長門国には銅山がありました。最大の銅産出国である長門に嶋麻呂が長門守として任命されます。長門国や中国の銅山は、秦氏・宇佐八幡宮とかかわりがあります。それを知った上での秦氏の嶋麻呂の長門守任命と研究者は考えているようです。
このように大仏造立において、泰氏集団(泰の民)の技術力・生産力・財力・団結力は充分に発揮されたようです。
以上から次のようなことが推測できます
①豊前の「秦王国」の秦氏集団が、朝鮮伽耶で行っていた採鉄・採銅の新技術を用いて香春岳などでの鋼・金の採掘・鋳造を盛んに行っていたこと②そのバックに、中央政権の意向があったこと③その意向は長門だけでなく備中の採銅にも秦氏を関与させていたこと④大仏造営のために銅生産の増産が求められると、先端技術を持った秦氏・秦の民が技術者・管理者として送り込まれたこと
大仏造営のための銅の確保は、豊前で実績を積んでいた秦氏が担当したと研究者は考えているようです。
それを裏付けるように、東大寺の大仏開眼の日の詔には、宇佐八幡神が「銅の湯を水となし」と提供したとあります。宇佐八幡神が水のように銅を供給したというのです。これは宇佐八幡信仰圏の銅を貢納したのでしょう。「東大寺要録」に載る銅銘文にも、「西海の銅」を用いて大仏を鋳造し完成したとあります。この「西海の銅」は、豊前や長門など秦人・秦の民が関与した銅と研究者は考えているようです。
大仏造営を支援した秦氏と宇佐八幡は、聖武天皇の信頼を受けるようになります。
大仏造営に宇佐八幡官が直接関係するのは大平十六年(744)九月十六日に、東大寺建立のために字佐八幡宮が建立費を送ったことから始まるようです。そして、東大寺造営を通じて、朝廷より位階や給田・封戸を何度にも分けて贈与され、伊勢神宮をしのぐまでになります。
上田正昭氏は『大仏開眼』で、次のように述べています。
上田正昭氏は『大仏開眼』で、次のように述べています。
「伊勢神宮をしのぐものだった。こうして八幡神は中央第一位の神とあがめるれるにいたった。僧の悔過をうけ、大仏に奉仕するたてまえをとって中央神化した八幡神の上昇は、仏法のための神というコースを端的にたどったものである」
「神仏習合」「仏法のための神」は、仏教が一番早く入った豊前「秦王国」で生まれた新羅系仏教と八幡信仰の習合で、秦王国の信仰でした。それが神仏混淆という形で全国化する先触れでもありました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
大和岩雄 続秦氏の研究 大仏造立に貢献した行基と秦氏と秦の民
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