大仏造営 知識寺模型
知識寺復元模型 河内国大県郡
大仏造営という国家プロジェクトを進める上で、聖武天皇が参考にした寺があるとされます。そこには「知識」によって盧舎那仏の大仏が造営され、そして運営されていたので知識寺と呼ばれていました。その姿に感銘した聖武天皇が国家的な規模に拡大しての大仏造営を決意するきっかけとなったと云うのです。今回は大仏発願に、秦氏がどのように関わっていたのかを見ていきます。テキストは 大和岩雄 続秦氏の研究203Pです。
大仏造立の発端になったのが河内の知識寺です。    
聖武天皇が大仏造立を発願したのは、河内国大県郡の知識寺の盧舎那大仏を拝した後のことです。それを『続日本紀』天平勝宝元年(七四九)十二月二十七日条の左大臣橘諸兄の宣命には、次のように記します。
去にし辰年河内国大県郡の知識寺に坐す盧舎那仏を礼み奉りて、則ち朕も造り奉らむと思へども、え為さざりし間に、豊前国宇佐郡に坐す広幡の八幡大神に申し賜へ、勅りたまはく。「神我天神。地祗を率ゐいざなひて必ず成し奉らむ。事立つに有らず、鋼の湯を水と成し、我が身を草木土に交へて障る事無くなさむ」と勅り賜ひながら成りぬれば、歓しみ貴みなも念ひたまふる。

   意訳変換しておくと
去る年に河内の大県郡の知識寺に安置された盧舎那仏を参拝して、朕も大仏を造ろうと思ったが適わなかった。そうする内に豊前国宇佐郡の八幡大神が次のように申し出てきた。「神我天神。地祗を率いて必ず成し遂げる。鋼の湯を水として、我が身を草木土に交へてもどんな障害も越えて成就させると念じた。

「去にし辰年」は天平12年(740)年のことで、この年二月に難波に行幸しているので、その時に立寄ったようです。ここにはその時に、河内国大県郡の知識寺の虜舎那仏を見て「朕も造り奉らむ」と聖武天皇は発願したと記されています。

大仏造営 知識寺石神社の境内にある心柱礎石
石神社の境内にある知識寺の心柱礎石
盧舎那仏があった知識寺とは、どんな寺だったのでしょうか。
まず名前の「知識」のことを見ておきましょう。私たちが今使っている知識とは、別の概念になるようです。ここでは「善知識」の略で、僧尼の勧化に応じて仏事に結縁のため財力や労力を提供し、その功徳にあずかろうとする人たちことを指します。五来重氏は次のように指摘します。
「東大寺大仏のモデルとなった河内知識寺は、その名のごとく勧進によって造立されたもので、『扶桑略記』(応徳三年六月)には『長六丈観音立像』とあって、五丈三尺五寸の東大寺大仏より大きい。もっとも平安末の『日遊』には『和太、河二、江三』とあって、東大寺大仏より小さいが近江世喜寺(関寺)のより大きくて、日本第二の大仏であった」

 ここで「和大・河二・江三」と出てくるのは、次の通りです。
「和」は大和の東大寺
「河」は河内の知識寺
「江」は近江の関寺
この記述からも平安末には、知識寺の盧舎那仏も「日本第二の大仏」だったことが分かります。つまり、ドラゴンボールに登場する「元気玉」のように生きとし生けるもののエネルギーを少しずつ分けて貰って、大きなパワーを作り出し「作善」を行うと云う宗教空間が知識寺にはあったようです。そのコミューン的な空間と、安置された大仏に聖武天皇は共感し、国家的なレベルでの建設を決意したということでしょうか。
 「造法華寺金堂所解」(天平宝字五年(761)には、知識寺から法華寺に銅を十二両運んだことが記されています。
天平勝宝四年(752)4月9日に東大寺の大仏開眼供養を行っているので大仏造立の十年後のことになります。東大寺でなく法華寺の寺仏製作のために、知識寺から銅を運んでいます。ここからは知識寺は、金知識衆に依って銅や鋼や水銀などが多量にストックされていたことがうかがえます。

大仏造営 知識寺
南河内の知識寺(太平寺廃寺跡)
知識寺(太平寺廃寺跡)について、もう少し詳しく見ておきます。

  この寺は7世紀後半に茨田宿禰を中心とした「知識衆」によって創建されたと伝えられます。河内国大県郡(柏原市)の太平寺廃寺跡からは白鳳期の瓦や薬師寺式伽藍配置の痕跡などが発掘され、ここが知識寺跡とされています。知識寺の東塔の塔心礎(礎石)と見られる石は、石神社に残されています。この礎石から推定される塔の高さは50mの大塔だったとする説もあります。知識寺は今はありませんが、その跡は柏原市大県の高尾山麓にあり、後に大平寺が建立されました。

知識寺のある高尾山麓は古墳時代以後に渡来系秦氏の定住したエリアで、秦忌寸・高尾忌寸・大里史・常世(赤染)連・茨旧連などの秦氏系氏族の居住地域です。「大里史」の「大里郷」は大県郡の郡家の所在地で、高尾山の西麓にあたります。
続日本紀』天平勝宝八年(756)1月25日条に、考謙天阜が大仏造立のお礼に知識・山下・人里・三宅・家原・鳥坂等の七寺に参拝したとあります。
『和名抄』の大里郷は「大県の里」の意で、志幾大県主の居住地です。『柏原市史』『大阪府の地名』(『日本歴史地名人系28、平凡社』は、大県主・大里史・赤染氏らを、この郷の出身者と記します。大里史は『姓氏録』は秦氏とします。三宅氏や三宅氏の祖新羅王子天之日矛と、秦氏・秦の民の間には深い関係があります。ここに三宅寺があるのも秦氏との関係なのでしょう。
 知識寺の南にある家原寺は観心寺の廃寺跡とされ、秦忌寸の私寺と推測されます。
家原寺の近くにはには五世紀後半から六世紀後半にかけて築造された「太平寺古墳群」があります。六世紀後半に築造された第二号墳の石室奥壁中央の二体の人物像が、赤色顔料で描かれています。この赤色顔料はこの地に居た赤染氏との関係を研究者は推測します。丹生などの水銀製錬技術者集団であったことがうかがえます。

大仏造営 知識寺地図2
 河内六寺 左北北 すぐ南に大和川が流れていた
このように河内六寺はすべて知識寺(柏原市太平寺)の周辺にあります。
五寺は秦氏系氏族か秦氏と関係の深い氏寺です。彼らは知識衆でも金知識衆であり、彼らの財力と技術が知識寺の盧舎那大仏造立の背景にはあったようです。この大仏を参拝して聖武天皇は大仏造立を決意したのです。そのため孝謙女帝も知識寺と知識寺を含む七寺に、大仏造立完成の御礼参りをしています。この知識寺のある地は、河内国へ移住してきた秦集団が本拠地にした大県の地になります。彼らが鉄工から銅工になって知識寺の盧舎那大仏を造り、その大仏を拝した聖武天皇が、さらに大きな慮舎那大仏造立の発願に至るというプロセスになります。
 朝鮮半島から渡来した秦氏の日本での本貫は、豊前の香春山や宇佐神宮の周辺でした。そこは銅を産出し、鋳造技術者も多く抱えていました。彼らが高尾山に拠点を構え、そこに当時の最先端技術で今までに見たことのないような大仏を8世紀初頭には造立していたようです。
渡来集団秦氏の特徴

ここまでをまとめておきましょう
①大和川が河内に流れ出す髙尾山山麓には、古墳時代から秦氏のコロニーが置かれた。
②彼らは様々は面で最先端技術を持つハイテク集団で、大規模古墳の造営や治水灌漑にも力を発揮してきた
③彼らは豊前の「秦王国」で融合された「新羅仏教 + 八幡神」の信者であり、一族毎に氏神を建立していた。
④その中には豊前での銅製法の技術を活かし「金知識衆」の力で造立された盧舎那仏大仏を安置する寺院もあった。
⑤その仏像と「知識」のコミューン力に感銘を受けたのが聖武天皇である
東大寺大仏建立の理由ー聖武天皇のいう「菩薩の精神」とは | 北河原公敬 | テンミニッツTV

聖武天皇がこの地までやってきたのは、どうしてなのでしょうか。

それは、信頼するだれかのアドバイスを受けてのことだったと思われます。研究者は、そこまで踏み込んで推察しています。
聖武天皇に知識寺参拝をすすめたのは、どんな人物なのでしょうか
秦忌寸朝元と秦下嶋麻呂の二人を研究者は考えているようです。

まず秦朝元について見てみましょう。
朝元は父の弁正が大宝二年(702)の遣唐船で入唐し、現地女性と結婚して中国で生まれたハーフです。父の弁正と兄の朝慶は唐で亡くなり、二男の朝元のみ養老二年(718)の遣唐船で帰国します。『続日本紀』養老三年四月九日条に、秦朝元に「忌寸の姓を賜ふ。」とあります。
 
『続日本紀 二』(岩波書店版)は補注で、次のように記します。
「(前略)朝元のみ、養老二年に帰国した遣唐使に伴われ、十数歳の時日本へ戻ったらしい。医術の専門家であるが、その修得は在唐中に行われたらしい。また中国生まれで漢語に堪能だったので、語学の専門家としても評価されていた」

父と兄を失ない、母国語も充分話せない15歳の少年が、帰国して1年の養老3年4月に「忌寸」の賜姓を受けています。これは異例です。3年6月に皇太子(後に聖武天皇)は、「初めて朝政を聴く」とあります。元正女帝から皇太子執政に移る3カ月前に、朝元が「忌寸」賜姓を受けていることと、その後の朝元の出世ぶりを見ると、聖武天皇の意向で、中国生まれの孤児の少年のすぐれた才能を見抜いての忌寸賜姓なのかもしれません。若き英才発掘を行ったとしておきましょう。
その後の秦朝元の栄達ぶりを追っておきましょう。
『続日本紀』の養老五年(721)正月二十七日条は、秦朝元が17歳で、すでに従六位下で、医術において「学業に優遊し、師範とあるに堪ふる者」と正史に書かれて、賞賜を得ています。
天平二年(730)2月には、中国語に堪能であったから、通訳養成の任を命じられ、中国語の教授になっており、翌年(731)には外従五位下に昇叙し、唐に赴き、玄宗皇帝から父の縁故から厚遇され、天平七年に帰国し、外従五位上に昇進しています。生まれ故郷の唐は朝元が少年時代をすごした地であり、二年間の滞在期間には皇帝にも会っています。天皇勅命での唐滞在が公務であったことは、帰田後に昇進していることが証しています。
 聖武天皇の寵臣であったことは『続日本紀』天平十八年(746)2月5日条に、次のようにあることからもうかがえます。

正四位上藤原朝臣仲麻呂を式部卿とす。従四位下紀朝臣麻路を民部卿。外従五位上秦忌寸朝元を主計頭

ここからは746年に朝元が図書頭から主計頭へ移動しているのが分かります。今で云えば部省から財務省の移動ということになります。この背景を加藤謙吉は、次のように推測します。

「秦氏が朝廷のクラ(蔵)と密接にかかわる立場にあつたことは間違いない。ただそれは秦氏が渡来系氏族に共通するクラの管理に不可欠の高度な計数処理能力を有することとあわせて、この氏がクラに収蔵されるミツキの貢納担当者であったことに起因するとみられる。すなわち朝廷のクラの管掌は、ミツキの貢納というこの氏の基本的な職務から派生した発展的形態として理解すべきであろう」

 非農民の秦の民(秦人)の貢納物は、秦氏を通して朝廷のクラヘ入れられます。
大仏造立にあたっては、大量の銅・水銀。金などの資材と、購入のための資金を必要としました。そのような重要な役職を任せられる能力を、秦氏出自の朝元がもっていたから任命されたのであろう。信頼する人物を抜擢して主計頭に就けたのでしょう。

聖武天皇が知識寺に行幸した740(天平12)年は、朝元が図書頭に任命された天平9年から3年後です。以上の状況証拠から秦氏らによる度合那大仏を本尊にした河内の大県にある知識寺を、聖武天皇に知らせたのは秦朝元と推測します。         

聖武天皇に知識寺行幸をすすめたと推測できる人物がもう一人います。秦下嶋麻呂です。
  聖武天皇は740年2月に河内の大県郡の知識寺を参拝し、その年12月に恭仁宮への新都造営を開始しています。『続日本紀』天平十四年(742)8月5日条に、次のように記されています。

「造官録正八位下秦下嶋麻呂に従四位下を授け、大秦公の姓、丼せて銭一百貫、 絶一百疋、布二百端、綿二百亀を賜ふ。大宮の垣を築けるを以てなり。

「大宮」とは恭仁官のことです。
 これを見ると秦下嶋麻呂は「大宮の垣」を作っただけで「正八位下の造宮録」から十四階級も特進して「従四位下」に異例の特進を果たしています。さら大秦公の姓も与えられています。垣を作ったということ以外に隠された理由があったと勘ぐりたくなります。他の秦氏にはない嶋麻呂の家のみに「大秦公」なのも特別扱いです。
嶋麻昌については、特進後の天平十七年(745)五月三日条に、次のように記されています。
地震ふる。造官輔従四位下秦公嶋麻呂を遣して恭仁宮を掃除めしむ。

「秦公」は「大秦公」の略ですが、嶋麻呂は造宮録から造宮輔に昇進しています。地震の際の恭仁宮の復旧にあたっていることが分かります。恭仁官の管理をまかされているので、天皇の信頼が厚かったのでしょう。造宮にかかわる仕事が本職の嶋麻呂は、二年後の天平十九年二月に長門守に任命されます。この九月から大仏の鋳造が始まります。鋳造には銅が必要なことは、前回お話ししたとおりです。
大仏造営長登銅山跡

 長門国美祢郡の長登銅山(山口県美祢市美東町長登)は文武二年(698)から和銅四年(711)に開山されています。この銅山の周辺の秋吉台一帯は、7世紀代の住居跡から銅鉱石・からみ(銅滓)などが検出されています。他にも長門国には銅山がありました。銅の産出国である長門に秦氏一族の嶋麻呂が長門守として任命されているのです。長門国や中国の銅山は、秦氏・宇佐八幡宮とかかわりがあります。それを知った上での秦氏の嶋麻呂が長門守任命と研究者は考えているようです。
ここからは、天平十四年正月の「十四階級特進」という嶋麻呂の栄進も彼が秦氏で、大仏造立にかかわっていたことが背景にあることがうかがえます。以上のような状況証拠を重ねて研究者は次のように推測します。
 朝元は、中国で生まれ中国育ちだった。そのため、河内国人県郡の秦氏・秦の民らが「金知識」になって、盧舎那大仏を本尊にした寺(知識寺)があることは知っていても、天皇を案内するほど河内の秦氏系知識衆と親しくなく、地理も知らなかった。そのために河内国出身で友人であった造官録の秦下嶋麻呂に、天皇の案内と天皇の宿泊場所、また知識寺にかかわった地元の知識衆に対する交渉などを、朝元は嶋麻呂に依頼した。聖武天皇に大仏造立を決意させた知識寺行幸の功労者が嶋麻呂だったから、官の垣を作らせて、そのことを理由に異例の栄進と褒賞になった。
以上が知識寺の盧舎那大仏のことを天皇に知らせたのは朝元で、行幸の実行の功労者は嶋麻呂という説です。

朝元と嶋麻呂が聖武天皇の寵臣だったことは、次の事実から裏付けられます。
藤原不比等の次男の北家と三男の式家が、なぜか朝元と嶋麻呂の娘を嫁にしています。当時最大の実力家で皇后も出す藤原本宗家の嫁に、秦氏の朝元と嶋麻呂の娘がなっているのは、2人が聖武天皇の寵臣であったことが最大の理由だと云うのです。
 喜田貞吉や林屋辰二郎は、藤原氏が朝元と嶋麻呂の娘を嫁にしたのは、二人が巨富をもつ財産家だったからと推論しています。藤原氏が彼らの娘を嫁にした理由として、とりあえず次のふたつをあげておきましょう。
第一に二人が聖武天皇の信任の厚い人物(特に朝元)であったこと、
第二に朝元は資産がなくても主計頭として財務を握っており、嶋麻呂は秦氏集団のボスになっていたこと
朝元、嶋麻呂の朝廷に置ける位置と、秦氏の財力を見ると、縁を結ぶことは将来の藤原氏にとっては利益があると思ったからでしょう。それは大仏造立のプロセスで、秦氏と秦氏が統率する泰氏集団(泰の民)の技術力・生産力・財力・団結力を見せつけられたことも要因のひとつであったかもしれません。「この集団は有能で使える! 損はない」ということでしょう。

技能集団としての秦氏

  以上から聖武天皇の大仏造営については、その動機や実行段階においても秦氏の思惑や協力が強く働いていることを見てきました

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 大和岩雄 続秦氏の研究203P
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