以前に備中新見荘から高梁川を下って、舟で京都に帰る荘園管理人(僧侶)の帰路ルートを追いかけました。今回は中世の山陽道を旅した僧侶の記録を見てみましょう。 テキストは「 日本の中世12 178P 旅の視点から」です。
播磨国斑鳩荘(兵庫県太子町・龍野市)は、法隆寺のもっとも重要な荘園でした。
延徳二年(1490)、法隆寺の僧快訓(かいくん)がこの斑鳩荘に向かう旅をはじめます。快訓は政所として赴任することになったのです。その旅路を「当時在荘日記」には次のように記されています。
僧快は、大和の斑鳩を発って、大和川沿いに河内に入り、山本(八尾市)で、持参した昼の弁当を食べています。その日の夜は、天王寺宿(に宿泊。宿泊料は700文、庭敷銭(にわしきせん)は100文とあります。庭敷銭とは、庭の占有料という意味で、荷の保管料のようです。翌朝、宿で朝食が用意され、快訓には30文、雑用のために従っている下僕たちには25文の食事が出されています。


太子町の斑鳩寺
二日目は、天王寺から舟で大阪湾を横切り、西宮宿で昼休み。休憩料は500文、庭敷銭は50文です。宿泊料に比べると休息料が高いような気もします。宿で昼飯をとっていますが、やはり身分に応じて30文と25文のランク分けされた食事が出されています。その日は、兵庫宿(神戸市兵庫区)まで行き、宿をとります。ここの宿泊料は、前回利用したときには700文だったが、値上がりして800文になっていた、ただし庭敷銭、翌朝の朝食代などは値上がりしていなかったことまで記します。以下の旅程を見てみると次のように記します。
3日目は、大蔵谷宿(明石市)で昼休みし、加古川宿で宿泊、
4日目は国府(姫路市)で昼休みし、その日の夕方に竜野に到着しています。細かな経費は下表のとおりです。
これを見ると、宿泊料、食事代などは、全行程ほぼ同額なことが分かります。快訓の旅行記録から、この時代の山陽道では、どこの宿に泊まっても、同じような経費で同じようなサービスが受けられる、というシステムができていたことが分かります。
中世後期の陸上交通をささえるインフラやシステムについては、まだ分からないことの方が多いようです。「関所が乱立してスムーズな交通が妨げられていた」ように思いがちですが、この記録を見る限りは、案外に快適な旅ができたようです。
中世山陽道の宿は、どんな人が経営していたのでしょうか?。

播磨西部の現在の相生市に矢野荘がありました。
ここは東寺の荘園で、その史料が「東寺百合文書」の中に残されているので、研究が進んでいるようです。この荘園を山陽道が通っていて、隣の荘園に二木宿がありました。この宿を拠点とした小川氏という一族を追いかけて見ようと思います。小川氏は、南禅寺領矢野別名の荘官を務める武士で、同時に金融活動も行っていたようです。
小川氏の活動とは、どんなものだったのでしょうか?
守護赤松氏がとなりの東寺領矢野荘に、いろいろな目的で人夫役を賦課してきたときには、同荘の荘官に代わって守護の使者と減免の折衝をしています。ときには命じられた数の人夫を雇って差し出したりもしています。矢野荘自身が必要とする人夫を集めることもしています。(「東寺百合文書」)。いわゆる人足のとりまとめ的な役割を果たしていたことが分かります。
そんなことができたのは、小川氏か宿を拠点に持ち、「宿周辺の非農民の流動性のたかい労働力を掌握」していたからできることだと研究者は考えているようです。つまり、一声かけると何十人もの人夫を集めることの出来る顔役であったということなのでしょう。即座に多くの人夫を集めることができる力は、交通・運輸業者としての武器になります。それが小川氏の蓄財の源だったとしておきましょう。
小川氏と交通のかかわりは、それだけではないようです。
二木宿には時宗の道場がありました。時宗の道場は、安濃津や、東海道の萱津(愛知県海部郡甚目寺町)、下津(同稲沢市)などの例が示すように、旅行者の宿泊所として使われていました。ただの宿泊所ではなく将軍の宿所として利用されることも多く、宿泊所としてはランクの高いものだったようです。二木宿の道場も、格の高い宿泊所だったと推測できます。
あるとき二木宿の遊行上人(時宗の僧)が勧進活動をはじめます。道場を維持するための勧進だったのかもしれません。このとき小川氏は、周辺の荘園をまわって勧進への協力を求めています。ここからは、二木宿の道場(宿泊所)は、小川氏の保護を受けて維持されていたと研究者は考えいます。小川氏が時宗の保護者であると同時に、宿泊所のオーナーであった可能性も出てきます。
斑鳩宿と呼ばれていたこの宿の長者は、円山氏でした。
円山氏は、宿の守護神である戎社の裏手に屋敷を構え、宿村を中心に土地を集積する有力者でもあったようです。円山真久は、永正十三年(1516)に行われた斑鳩寺の築地修理のときには、守護や守護代の五倍もの奉加銭を出しています。もともと円山氏は、荘内の人間ではなく、十六世紀になるまでは斑鳩荘の名主職ももってはいなかったようです。それが円山真久は斑鳩寺や、聖霊権現社や斑鳩荘の鎮守稗田神社の修理にも多額の寄進を行い、その功績によって太子講という斑鳩荘の侍衆たちによって構成される講への参加資格を認められます。鎮守の祭礼や造営にお金を出すことは、地域での身分序列を形成・確認するための格好の機会でした。円山氏は、このセオリー通りを利用して「上昇」していきます。円山氏の財力も二木宿の小川氏と同じように山陽道の交通・運輸にかかわることによって獲得されたものと研究者は考えいます。
円山氏の姻戚関係を知る史料が残されています。
永禄十年(1567)に作成された円山真久(河内守・二徳)の譲状(「安田文書」)によれば、彼には、「妙林・揖保殿・香山殿・神吉殿・平位殿・小入」の六人の娘がいました。揖保と平位は斑鳩の西方、神吉はずっと東方の加古川あたりの、いずれも山陽道に沿った土地の地名です。円山真久は山陽道の交易によって交流を深めたそれぞれの土地の土豪たちに、娘たちを嫁がせていたことがうかがえます。神古郷の近くには加古川宿があるので、神古氏も宿支配関係者だった可能性があると研究者は考えています。


竜野醤油の祖 安政2(1855)年制作の「円尾家当主肖像画」
研究者が注目するのは、近世脇坂藩の城下町龍野(兵庫県龍野市)の竜野醤油の祖で豪商円尾氏の先祖についてです。
円尾家文書には、円尾氏の初代孫右衛門は、林田川をはさんで斑鳩宿と向かいあう弘山宿の出身であり、二代目孫右衛門(弘治二年〈1556〉生)の母は、「円山河内守」の娘だったと記します。記載された年代からすれば、この円山河内守は、斑鳩宿の円山真久のことのようです。二代目の母が真久の6人のうちのどの娘であるかは分かりませんが、斑鳩宿と弘山宿の有力者同士が縁戚関係にあったことが分かります。さらに真久は東寺領矢野荘の又代官職も手に入れ、矢野荘に土地も所有するようになります。
法隆寺の快訓の播磨への赴任旅程では、どこの宿でもほぼ同額で同じようなサービスを受けられたことを見ました。
こんなシステムができあがっていた背景には、宿の長者同士が婚姻関係などで結ばれた情報交換のネットワークがあったことがうかがえます。そのネットワークが、山陽道沿いの広いエリアを円滑に結ぶ陸上交通を実現していたと研究者は考えいます。
こんなシステムができあがっていた背景には、宿の長者同士が婚姻関係などで結ばれた情報交換のネットワークがあったことがうかがえます。そのネットワークが、山陽道沿いの広いエリアを円滑に結ぶ陸上交通を実現していたと研究者は考えいます。
小川氏や円山氏のような宿の長者たちが旅館も経営していたことを見てきました。旅館の経営もただ寐る場所を提供するだけでなく、多角的サービスを提供していたようです。
興福寺大乗院門跡尋尊の日記『大乗院寺事記』の延徳二年(1490)十一月四日条には次のように記されています。
先年、興福寺の衆徒超昇寺の被官で奈良西御門の住人宇治次郎は、運搬中の高荷を京都・奈良間の宇治で奪われた。近日になってこの高荷を引いていた馬が宇治の旅館扇屋の所有する馬であったことを知った超昇寺は、次郎と扇屋が結託して荷をかすめ取ったのではないかと疑ったのであろう、扇屋を捕らえ、次郎とともに拘禁してしまったという。
以上を整理しておくと次のようになります。
①宇治次郎は、京都と奈良の間の運輸に従事していた馬借である。
②宇治次郎の馬は個人持ちでなく、宇治の旅館扇屋所有の馬で、それを借りて営業していた。
③宇治次郎と宇治の旅館扇屋は結託して、荷主の荷物を奪われたと称してくすねた。
④これを疑った超昇寺被官の奈良西御門が扇屋と次郎を拘禁した
ここからは、宇治の旅館扇屋が旅行者に宿泊場所や食事を提供するだけはなく、馬を持ち馬借を雇い運輸システムの中に組み込まれた存在であったことが分かります。
平城京の転害大路は東大寺から西に伸びていた
奈良の転害大路は京都方面から奈良に入ってきたときの入口にあたり、鎌倉時代の終わりにはすでに多くの旅館が営業していました。
室町時代の中ごろには鯛屋、烏帽子屋、泉屋などの旅館が営業していました。戦国時代になると、旅館業以外の商売にも手を広げていたようです。たとえば、天文十一年(1542)十一月、伊勢貞孝が将軍足利義晴の名代として春日社に代参したときには、転害大路の旅館腹巻屋に、300~400人もの随行者を連れて宿泊しています。この腹巻屋は金融業や酒造業を営む富商でもあったようです(『多聞院日記』天文11年11月15日条ほか)。
転害門
旅館の活動は商売だけではありません。
京都と奈良のちょうど中間に位置する奈島宿(京都府城陽市)には魚屋という屋号の旅館がありました。この魚屋の亭主孫三郎はについて、
「康富記」は次のように記します。
「康富記」は次のように記します。
「奈島や木津あたりにある大炊寮惣持院領の年貢米を請け取って、大膳職に渡している人物」
![探訪 [再録] 京都・城陽市南部を歩く -3 道標「梨間の宿」・梨間賀茂神社・深廣寺 | 遊心六中記 - 楽天ブログ](https://image.space.rakuten.co.jp/d/strg/ctrl/9/cf974ea77170fc4ad2ba3b23420216649f52f14b.77.2.9.2.jpeg)
京都の近郊には、一つの所領といっても一ヵ所にまとまって存在しているのではなく、耕地があちこちに点在している型の所領が多く、年貢を集めるのも容易ではなかったようです。南山城各地に散らばっている大炊寮領の年貢のとりまとめを、魚屋が請け負っていたというのです。これも多数の馬や人夫、近隣の同業者との連絡網などがあって、はじめて可能なことです。
旅館のこうした機能に、地域的の権力者が目をつけないはずがありません。
播磨の二木宿の長者小川氏は、室町時代にすでに守護赤松氏の被官となっています。そして、みずから赤松氏の人夫催促使を勤めてもいます。人夫の元締めのような存在である小川氏を催促使とし取り込んでおいたほうが領国経営には有益だったのでしょう。
十六世紀のはじめごろ、摂津の西宮宿には橘屋という旅館がありました。
天文十二年(1543)、西官の近傍の久代村(兵庫県川西市)に池田氏から段銭が課されます。池田氏とは池田城に拠って北摂津を支配していた国人です。段銭賦課の名目は分かりませんが、おそらく毎年賦課されていた定例の段銭だと研究者は考えいます。暮れになって、段銭奉行の使者田舟五郎兵衛が徴収にまわり、久代村は段銭のほか奉行や奏者への礼銭など合わせて12貫余を納入しています。納入の場所は「西宮橘屋」です。翌年の記録にも、屋号は記されていませんが「西官へ納めた」と記されています(「久代村旧記」)。
ここからは、池田氏の使節は段銭徴収のために領内の村々を巡っていったのではないことが分かります。旅館にやってきて、近くの村々から段銭を持参させていたのです。領内に自前の在地支配の拠点をもたない池田氏は、保護する旅館を利用して、そこで納税業務を処理していたのです。旅館が「納税臨時出張サービス」的な役割を果たしています。旅館にはこのような準公的な顔もあったようです。
以上をまとめておきます
①中世後半のの山陽道には「宿の長者」が経営する旅館が姿を見せるようになった
②「宿の長者」は旅館経営以外にも、人夫の募集や馬借など多角経営を行い金融業者に成長して行く者もいた。
③彼らは街道沿いの同業者と婚姻関係などを通じて人的ネットワークを形成し、広いエリアを円滑に結ぶ陸上交通を実現していった。
④「宿の長者」の持つ力に着目した戦国大名達は彼らを取り込み、支配拠点として利用するようになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
テキストは「 日本の中世12 178P 旅の視点から」です。
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