日根野荘1 

和泉国日根荘(大阪府泉佐野市)は、研究者に取り上げられることの多いフィールドです。ここは公家九条家の所領でした。16世紀初頭、前関白九条政基が後柏原天皇の怒りをこうむり、4年あまりここで蟄居生活をおくります。
日根野荘2
日根野荘 大入地区の絵図(上の写真部分) 

彼が日野荘で体験したことは、初めて見聞きすることばかりで、興味をひかれることが多かったようです。ここに滞在中に村で起きたもめごと、農村の年中行事、紀伊の根来寺と和泉守護細川氏の二つの勢力のはざまで安泰を求めて苦悩する村の指導者たちの姿などを、政基は筆まめに書き残しています。これが『政基公旅引付(まさもとこうたびひきつけ』です。

日野荘3

『政基公旅引付」は『新修泉佐野市史 史料編』に注釈とともに現代語訳も載っているので私にも読むことが出来ます。日野荘の雨乞いや神社について、焦点を絞って見ていくことにしましょう。テキストは   日本の中世12   村の戦争と平和  141P 鎮守の森で」です。

日根野荘 風流踊り
洛中洛画図    風流踊り
日野荘の孟蘭盆行事を見てみましょう。
政基が入山田に下った最初の年、文亀元年の7月11日の宵、槌丸村の百姓たちが政基の滞在している大木村の長福寺にやってきて、堂の前で風流(ふりゅう)念仏を披露します。風流念仏とは、きらびやかな衣装を着け、歌い踊りながら念仏を唱えるものです。派手な飾り付けをした笠をかぶったり笠鉾をともなうこともありました。要するに盆踊りの原型です。
 13日の夜には船淵村の百姓がやってきて風流念仏を披露し、さらにいろいろな芸能も演じて見せます。どうせ田舎者のやぼったいものだろう、とたかをくくっていた政基は、思いがけず水準の高い腕前に、次のようにうなっています。

「しぐさといいせりふといい、都の名人にも恥じないものだ」

まんのう町諏訪神社の念仏踊り
まんのう町諏訪神社の念仏踊り(江戸時代後半)

翌14日には大木村、15日には菖蒲村がやってきて、風流念仏を披露します。注目されるのは、その翌日のことです。月が山の頂にのぼるころ、日野荘内の四ヵ村衆が荘鎮守の滝宮に集まり、そこで全員で風流念仏を踊っています。つまり惣踊りになるのでしょう。さらにそのあと、船淵の村人によって能の式三番と「鵜羽」が演じられてお開きとなります。ここからは次のようなことが分かります。
①戦国初期の日野荘では、盆行事として、四つの集落がそれぞれに風流念仏を演じるような「組織」を持っていたこと
②四つの集落は一堂に会して、披露するような共同性もあったあわせもっていたこと
③そのレベルが非常に高かったこと
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犬鳴山七宝滝寺と七宝の瀧
天変地異の生じたときも、四つの村は揃って鎮守で祈祷を行っています。
 政基が日野荘に下った文亀元年は日照りでした。政基の日記には、梅雨のただ中であるはずの旧暦五月でさえ、雨が降ったのは七日だけで、六月のはじめには「百姓たちは甘雨を願っている」と日照りが続いたことを記します。それは七月に入っても変わりません。そこで、7月20日、滝宮で犬鳴山七宝滝寺の山伏たちか雨乞祈祷をはじます。
犬鳴山七宝瀧寺 | かもいちの行ってきました!
七宝滝寺の行場
七宝滝寺は役行者が修行したとされる修験の行場で、山伏の活動の拠点です。
三日のうちに必ず雨を降らせてみせよう、それでだめなら七宝の滝で、それで,だめなら不動明王のお堂で祈祷しよう、なおだめなら滝壺に鹿の骨か頭を投げ入れ、神を怒らせることによって雨を降らせてみせよう。山伏たちはそんな啖呵ををきったと記します。
犬鳴山 七宝瀧寺/イヌナキサンシチホウリュウジ(大木/寺) by LINE PLACE
      七宝滝寺の祈祷場 後には不動明王

 村の雨乞いの主導権を握っていたのは、山伏だったようです。
山伏の祈祷に四ヵ村の村人たちも参加します。祈祷を始めて三日目の7月23日の昼下がり、にわかに滝宮の上に黒雲が湧き、雷鳴がとどろいました。滝宮の霊験あらたかに雨が降るかと思われましたが、雲は消え、さらに五日間、晴れつづけます。それでも村人が祈蒔をつづけていたところ、28日の夕方近くになって、今度は犬鳴山の上空に黒雲が湧き、入山田中に待望の大雨が降ります。雨は入山田にだけ降り、隣の日根野村や熊取村には一滴も降らなかったと記します。翌日からは数日間雨が続き、なんとか滝宮の神も面目を保つことができました。
平成芭蕉の旅語録〜泉佐野日本遺産シンポジウム 中世荘園「日根荘遺跡」 | 【黒田尚嗣】平成芭蕉の旅物語
火走神社

 雨を降らせてくれた神様へのお礼をすることになります。
8月13日、四ヵ村の村人たちは滝宮(火走神社)に感謝の風流踊りを捧げることになります。船淵と菖蒲は絹の旗、大木と土丸の集落は紺の旗を押し立てて滝宮に参り、いろいろな芸能や相撲を奉納しています。村人たちが扮装して物真似芸や猿楽などを演じたようです。猿楽は政基の滞在している長福寺の庭先でも再演されました。その達者ぶりに政基は、「都の能者に恥じず」と、その達者ぶりに驚いています。ここからは雨乞祈願や祭礼も、荘園鎮守を核として4つの村が共同で行っていたことが分かります。
日野荘 火走神社
火走神社(和泉名所図絵)

 荘園鎮守(荘園に建立された神社)とは、どんな役割を担っていたのでしょうか。 
 荘園鎮守は、荘園が成立したときに荘園領主がみずからの支配を正当化するために勧請したものです。そのため勧進された仏神は、荘園領主を目に見える形で体現する仏神であることが多かったようです。例えば
①摂関家や藤原氏の氏寺興福寺を荘園領主とする荘園であれば、藤原氏神の春日権現、
②比叡山領であれば山王権現(日吉社)
③賀茂社領であれば賀茂社
が鎮守として勧進されるという具合です。
これらの神は外からやって来た外来神になります。いわばよそ者の神様です。この外来神だけを勧請したのでは、荘民たちは、そっぽを向いたでしょうし、反発したかも知れません。これは大東亜帝国の建設を叫ぶ戦前の日本が、占領下のアジア諸国に神道を強制し、神社をソウルや台北に勧進し、それまでの在地信仰を圧迫したのと同じような発想で、巧みな支配とは云えません。
 荘園に勧進された神々は、荘園領守の氏神とともに、その土地在来の神(地主神)があわせて祀られることが多かったようです。例えば比叡山の修行道場である近江国葛川(大津市)では、比叡山が勧請した地主神社の境内に、葛川の地元神である思古淵明神を祀っています。ここからは、地元民が信仰していた神々を荘園領主の支配イデオロギーの中にたくみに組み込んでいったことがうかがえます。

大木火走神社秋祭りの担いダンジリ行事 | 構成文化財の魅力 | 日本遺産 日根荘

日野荘の鎮守滝宮は、大木にある現在の火走(ひばしり)神社です。
滝宮という名前からも、七宝の滝のかたわらにある七宝滝寺と神仏混淆して一体的な関係にあったようです。七宝滝寺は、九条家の氏寺で、九条家の繁栄を祈願する寺です。七宝の滝は日根野をうるおす樫井川の上流にあり日根荘の水源にあたります。九条家は水源に、みずからの保護する寺院を建立すことによって、日根荘の開発者であり支配者としての正当性を目に見える形で示そうとしたようです。「水を制する者が、天下を制する」の言葉が、ここでも生きてきます。そして、その宗教的なシンボルモニュメントとして七宝滝寺であり、火走(ひばしり)神社を建立したということになります。
 水源にあることが人々の篤い信仰の裏付けとなっていきます。このように荘園鎮守と荘園の水源は、セットになっていることが多いようです。

日根神社
 
水源に建つのが火走神社であるとすれば、樫井川から引かれた用水の分岐点に立つのが鎮守大井関明神(日根神社:泉佐野市日根野)です。
日野荘 日野神社 井川
 井川(ゆかわ) 日根神社から慈眼院本坊前の境内を流れる。

 井川と呼ばれ、土丸の取水口から日野神社の境内に引き込まれ、そこからあちこちに分水されていきます。この用水が日根荘の中世開発に重要な役割を果たしたと考えられています。そして、水の取り入れ口であり、分水点に鎮守が建立されているのが日根神社になるようです。
由緒 | 日根神社公式
『和泉国五社第五日根大明神社図』江戸時代後期

このような用水路網と宗教施設の立地関係は、讃岐三野平野の高瀬川の用水路網にも見られます。

東国からやってきた西遷御家人の秋山氏は、高瀬川沿いの用水路整備を進める上で、その分岐点毎にに本門寺の分院を建立していきます。そして、その水回りのエリアの農民を檀家に組織しています。こうして「皆法華衆」という法華神と集団を作り上げて行きます。農業油水の供給を受けるためには、法華宗になることが手っ取り早い環境が作られていたとも云えます。
 また丸亀平野の満濃池用水路の主要な分岐点にも、庵やお堂などの宗教施設がかつてはあったことが分かります。そこでは、「お座」や「講」などの庶民信仰の場となっていたようです。水利権と信仰が織り交ぜられて日常化されていたのです。
田植え 田楽踊り
中世の田植え踊り
鎮守における祭礼は、農事暦と深い関係にあることは民俗学が明らかにしてきたことです。
農事暦で中世農村の年中行事を見てみると、 
①一年の農作業の開始と小正月(正月)
②田植えの開始と水口祭(四月)
③畠作物の収穫と孟蘭盆(七月)
④米の収穫と秋祭り(八月末もしくは九月はじめ)
⑤一年の農作業の終了とホタキ(十一月)
などは密接に関わっていることがうかがえます。
 入山田の滝宮で孟蘭盆に風流念仏が行われていたことは見ました。収穫の済んだ稲藁を積み上げて燃やし、来年の豊穣を祈るホタキも滝宮に七宝滝寺の僧を集めて行われていました。また日根野村の大井関明神では四月の水口祭が行われていました。山城国伏見荘(都市伏見区)でも、荘鎮守の御香官(現御香宮神社)で小正月の風流笠や九月初旬の秋祭りが行われていました。荘園鎮守で繰り返される年中行事は、 一年の農事暦と深くかかわっていました。このような立地状況や年中行事からも荘園鎮守は農業神としての性格を併せ持っていたことが分かります。それが住人の信仰に深く関わる源になります。
もともとは荘園鎮守は荘園領主の支配装置として設けられたものです。
それが時代が移り荘園領主がいなくなっても、荘園鎮守が存続し、祭礼がその後の引き継いで現在に至るものがあります。その背景には、鎮守社の二面性のひとつである農業神としての性格があったと研究者は考えているようです。
    荘園に勧進されて建立された「荘園鎮守」を見るときの参考にさせていただきます。感謝
    
    最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献
    日本の中世12   村の戦争と平和  141P 鎮守の森で
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