大久保諶之丞の関係資料が香川県立ミュージアムに寄託されたようです。木箱何箱にもなる膨大なものです。この中には、四国新道建設に尽力し、瀬戸大橋構想を唱えた先駆者としても知られる大久保諶之丞に関する資料が多く残されています。諶之丞のことを知る根本史料になります。この資料に関わった研究者の調査報告書を見て行きたいと思います。テキストは「松村 祥志 四国新道構想具体化までの道のリ ~大久保諶之丞関係資料の調査報告 ミュージアム調査研究報告第11号(2020年3月)」です。
大久保諶之丞以前の大久保家について
大久保家は、三野郡財田①上ノ村(現三豊市財田町)の豪農だったと伝えられます。生家は、財田町の道の駅をさらに国道32号沿い登っていった左側にありました。今は、小さな公園となっていて碑文が立っています。
大久保家の系譜としては、墓碑や位牌から寛政五年(1793)没の権左衛門、甚平、与三治、森治、諶之丞と継承されていった所までは辿れるようです。これに対して、大久保家資料で年号が分かるものを古い順に並べると、次のようになります。
大久保諶之丞生家に立つ記念碑
大久保家の系譜としては、墓碑や位牌から寛政五年(1793)没の権左衛門、甚平、与三治、森治、諶之丞と継承されていった所までは辿れるようです。これに対して、大久保家資料で年号が分かるものを古い順に並べると、次のようになります。
①享保2年(1717)の「永代売渡シ申田地書物之事」で、宛名は市右衛門②享保14年(1729)の「覚」で、宛名は権助③延享四年(1747)の「永代売渡シ申田地書物之事」で、宛名は「大久保 権左衛門殿」
③の権左衛門が寛政五(1793)年の墓石に名前のある権左衛門と同一人物のようです。そして、①②の市右衛門や権助は権左衛門の先代に当るようです。彼らが大久保諶之丞の祖先ということになるとしておきましょう。
以後の大久保家資料には、田畑の売買証文などが多く残っています。ここからは、江戸時代中期以降に大久保家が、土地集積を進めていった様子がうかがえます。
以後の大久保家資料には、田畑の売買証文などが多く残っています。ここからは、江戸時代中期以降に大久保家が、土地集積を進めていった様子がうかがえます。

大久保諶之丞の墓
大久保家が江戸時代に村役人を務めていたかどうかは分かりません。
しかし、明治初年には大久保森治が「調子役」を務めているので、それ以前から村内の有力者の一人であったことはうかがえます。また大久保家は、安政6年(1859)に多度津藩から財田上ノ村にあった御用水車請負を命じられています。明治になってからも、諶之丞の兄の菊治が分家として水車を利用して油店を経営し、御用地と呼ばれています。
以上から私の気になる点を見ておきます。
①上ノ村が多度津藩に所属していたこと。
以前にお話したように、幕末の多度津藩は小藩ながら四国では珍しく藩を挙げての「富国強兵」策に取り組んだ藩です。「陣屋建設 + 多度津湛甫(港)」=軍事力近代化へと、藩内の富裕層を巻き込んだ体制改革が行われ、新規事業なども起こされていきます。そんな中で、新たな産業として注目されたのが水車です。財田川から水を引き入れた水車が有力者によって作られ、投資先となっていたようです。その権利を大久保家は入手していたことが分かります。
大久保家を庄屋としている文献もありますが、私はそうは思いません。江戸後期になって水車請負などの新規事業に参入することにして、台頭してきた家ではないかと考えています。父の森冶が「調子役」を務めていたので「庄屋」出身とする本もあります。しかし、明治初頭の村の役人には、なり手がいなかったともいわれます。江戸時代の村役人のように、権威で村衆を押さえ込むことができなくなった地域では、村役人は新政府と村人の板挟みになり、苦労したようです。そのため旧庄屋層は役人になるのを避けるようになります。例えば、榎井村の庄屋であった長谷川佐太郎も戸長に任命されていますが、これをすぐに辞退しています。
庄屋層にかわって村の指導者となったのが、その次の有力者層でした。大久保森治もこのような新興勢力の有力者で面倒見のいい人物だったことが想像できます。村のために活動する父を太助ながら諶之丞は、若き日をおくったのではないでしょうか。
江戸時代の大久保家で研究者が注目するのは、諶之丞の曾祖父・大久保長松(直信)と祖父大久保与三治です。
ふたりはともに、二十四輩巡拝の旅をしています。二十四輩巡拝とは、浄土真宗の開祖親鸞の高弟二十四人の旧跡を巡拝することです。大久保長松の巡拝について、明治22年(1889)12月、東京滞在中の大久保諶之丞へ宛てて兄菊治が送った手紙の別紙に、次のように記します。
「文化十三子年六月十八日卒帰真釈西流信士霊 此人仏法深重思、高祖聖人二十四輩巡拝出立メ、哀哉何国ノ土ヤ我ヲ待ラン、奥州先台田尻村ニテ死去ス、俗名大久保長松 直信コト明治廿二年迄七拾四年ニナル」
意訳変換しておくと
「文化十三(1816)子年六月十八日死亡帰真釈西流信士霊 この人は仏法に深く帰依し、高祖聖人二十四輩の巡拝の旅に出立したが、哀しきかな奥州の仙台田尻村で亡くなった。俗名大久保長松(直信) 明治廿二年の74年前のことである。
ここからは大久保長松が文化13年(1816)に、二十四輩巡拝の旅の途中、奥州仙台田尻村で死亡したことが分かります。その4年後の文政三年(1820)に、与三治が二十四輩巡拝を行っていることが残された寺院の宝印や縁起の摺物などを綴った冊子から分かります。与三治は、この時に仙台田尻村も訪れているので、長松を弔う旅であったのでしょう。
ここからは大久保家には、親鸞を祖とする浄土真宗に対する厚い信仰心が根付いていたことがうかがえます。尽誠学園創業者である諶之丞の弟の彦三郎が、若い頃に浄土真宗の信心を持ち教宣活動を行うのも、この辺りに源がありそうです。この旅からもうひとつうかがえるとすれば、大久保家が19世紀初頭には長期旅行を行えるだけの経済力のある家であったことです。
大久保護之丞の経歴 について、見ておきましょう。
大久保諶之丞は嘉永二年(1849)、大久保森治とソノの三男として生まれています。明治維新を19歳で迎えたことになります。彼は、山脇の塾に通い陽明学を学び「学問・思想と行動の結合」という行動主義を身につけたようです。
明治5年(1872)に父親が里長を退いた後に、村吏を拝命していますが、それ以前の諶之丞については、詳しいことは分かりません。資料からは、父・森治の下で、使いや名代として仕事を手伝っていたらしいことうかがえます。
明治三年には、長谷川佐太郎の満濃池再築に参加し、最新の土木建築技術に接したようです。この時に、身近に長谷川佐太郎が姿をみて、土木工事の差配ぶりや、その姿に影響を受けたと私は考えています。
その後、明治5年5月に、香川県第七十区(財田上ノ村。財田中ノ村。神田村)の村役人に任命されます。明治6年の職務分課では「学校・土木・費用」を担当していたことが分かります。新政府のもとで、文明開化のために働いていると思っていた矢先に、民衆が彼の家を焼き討ちする事件が起きます。この年、新政府の方針に不満を抱く民衆たちが学校や役場・指導者の家などを打ち壊した讃州竹槍騒動です。村役人を務めていた諶之丞宅も焼き討ちに遭い、焼失しています。焼かれた家跡を見て諶之丞は、何を考えたのでしょうか。彼は八月ごろに辞職を願い出て、受理されています。民衆の怒りが新政府や自分に向けられた経験を、彼はこの時にしたのです。
その後の役職を一覧にしておきましよう。
その後の役職を一覧にしておきましよう。
明治8年4月、名東県第二十三大区六図 小区二等副戸長同年 11月 香川県第十一大区六小区戸長を拝命明治10年五月戸長解職を願い出てるが、村民から慰留され、翌年の11月まで戸長留任明治12年7月学区世話掛同年8月三野豊田郡勧業掛明治13年6月学務委員明治15年9月勧業世話係明治17年 愛媛県農談会員に選出。四国新道構想実現へ向けて活動開始明治19年 四国新道起工 12月には、財田上ノ村外一ヶ村戸長を命ぜられ、辞退したものの、結局戸長を引き受ける明治20年3月 三橋政之率いる移民団が北海道へ向けて出発。以後、北海道移住奨励に取り組む6月 讃岐鉄道会社にヨる鉄道建設着工のために東京へ請願上京明治20年8月、四国新道讃岐分の工事悉皆請負を知事より命じられ、同時に戸長を辞職以後、諶之丞は私財をなげうち、借財までして四国新道開通に尽力。明治21年3月 愛媛県会議員に当選明治22年1月 分県を果たした香川県会議員に選ばれ、明治24四年12月に高松の議場で死去
諶之丞の家族についても、報告書は触れています。
大久保家の家族写真明治10年
後列左から諶之丞・父森冶・母リセ
前列左から妻タメ・娘キクエ・サダ(妹)
諶之丞の兄弟には、長男菊治、次男実之助、長女コトミ、四男与三七、二女キヌ、三女サダ、五男彦三郎がいます。母ソノは五男彦三郎出生の翌年に亡くなって、森治は後妻リセを迎えています。
諶之丞の兄弟たちを簡単に見ておきましょう。
①長男菊治は分家して財田上ノ村戸川に油店を営み、明治15年には戸川郵便局も開設します。②次男実之助は元治元年(1864)に20歳で死去。③四男与三七は、仁尾の吉田家へ養子となっています。④五男彦三郎は、東京の三島中洲の二松学舎に学び、明治20年京都で尽誠舎を開塾します。
後に彦三郎は病気ために京都から引き上げ、讃岐で尽誠学園を開きます。大久保家の兄弟たちは筆まめで、互いに音信のやりとりを頻繁に行っています。特に末の弟彦三郎と諶之丞は、離れた生活を送っていたこともあってか音信のやりとりが多く、そこには兄弟愛が感じられます。
諶之丞は慶応二(1866)年に17歳で、大久保利吉の娘タメと結婚し、同年に長女キクヱが生まれています。
その後の明治16年には、同村の伊藤家から柚太郎(後に柚太郎、衡平と改名)を婿養子に迎え、キクヱと結婚させ、翌年には孫の豪が生まれます。大久保家資料には、孫の豪の代までの資料が含まれているようです。
その後の明治16年には、同村の伊藤家から柚太郎(後に柚太郎、衡平と改名)を婿養子に迎え、キクヱと結婚させ、翌年には孫の豪が生まれます。大久保家資料には、孫の豪の代までの資料が含まれているようです。

真ん中が諶之丞 右が弟彦三郎 左が養子柚太郎
諶之丞の名前の表記については、明治12年以前の資料には、自筆も含めて、いずれも「甚之丞(丈)」と記されています。明治13年4月頃から、「諶之丞」の表記が使われ始めます。この頃に「甚」の字を「諶」に改めたヨうです。また諶之丞は「直男」という別称も使っています。「直」は大久保家の通字で、父森治は「直次」、兄菊治は「直道」、弟彦三郎は「直之」を称していました。
諶之丞没後の大久保家について
大久保諶之丞は明治24年(1891)県庁議会場で討議中、倒れ込み高松病院へ運び込まれ、2月14日に尿毒症を併発し死亡します。それを追うかのように、2年後には養子の衡平も亡くなります。兄菊治の援助を受けながら、キクヱが大久保家を切り盛りしてしたようです。大久保家には、諶之丞の多額の負債が残されていました。大久保家の資産高を記した資料を見ると、明治25年4月には15町9畝2歩あった小作地が、明治26年には、6町1反4畝19歩の半分以下に激減しています。ここからは、土地を売って借金の返済に充てたことがうかがえます。また、借金返済のために頼母子講も実施していたと伝えられます。
また、大久保菊治の経営する油店も多額の負債をかかえていました。
そのため明治32年には親族会議を開き、負債の返済計画を立てるとともに、親族の共同経営とすることにします。最終的には油店の経営を大久保本家が引き取っています。そのため、大久保菊治や油店、戸川郵便局に関する資料も一部、大久保家資料に含まれているようです。
そのため明治32年には親族会議を開き、負債の返済計画を立てるとともに、親族の共同経営とすることにします。最終的には油店の経営を大久保本家が引き取っています。そのため、大久保菊治や油店、戸川郵便局に関する資料も一部、大久保家資料に含まれているようです。
大久保諶之丞の残した金銭出納帳
このほか、諶之丞亡き後の妻キクヱは、財田村処女会長などを務め、日露戦争時には、救性のための募金活動を行うなど、社会事業に取り組んでいます。また、孫の大久保豪は、財田村会議員を務め、大久保彦三郎が創設した尽誠舎の経営にも携わました。そのため尽誠舎の経営に関する書簡類も残されています。
大久保家に残された資料は、点数934件、 13190点で、県立ミュージアムに寄託された時には14の木箱に分けて収められていたようです。この中には、大久保諶之丞が取り組んだ四国新道関係の資料がまとまっているほか、諶之丞宛の書簡類も残されています。特に明治19年以降、数が多くなっているようです。この背景には四国新道事業に取り組む中で人間関係が広がり、手紙のやりとりが多くなったことが考えられます。手紙の中には、三野豊田郡長豊田元良や多度津戸長大久保正史、多度津の豪商であった景山甚右衛門からの手紙も多く残されていて、諶之丞と親しく交際し、協力し合っていた様子がうかがえます。
また香川県土木課の監督官や諶之丞のもとで工事を担当していた人物、愛媛・高知・徳島の新道工事関係者などからの手紙も多く含まれており、四国新道工事の具体的な状況がうかがえます。また、以前にお話しした北海道移民関係の資料なども数多く含まれています。
次回は、この史料を見ながら大久保諶之丞が四国新道の建設に向けて動き出す様子を見ていきたいと思います。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
テキストは「松村 祥志 四国新道構想具体化までの道のリ ~大久保諶之丞関係資料の調査報告 ミュージアム調査研究報告第11号(2020年3月)」です。
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