空海は20年という期限を勅命で決められた留学僧でした。しかし、それを破って1年半あまりで帰国してしまいます。『請来目録』のなかで、空海は次のように記します。
「欠期ノ罪、死シテ余リアリト雖モ」
欠期は、朝廷に対する罪で、身勝手に欠期することは「死シテ余リアリ」と認識していたことが分かります。そのためにも、自分の業績や持ち帰った招来品を報告することで、1年半でこれだけの実績を挙げた、これは20年分にも匹敵する価値があると朝廷に納得させる必要がありました。そこで遣唐使の高階遠成に託したのが「招来目録」です。ここには、空海が中国から持ち帰ったものがひとつひとつについて挙げられ、その重要性や招来意図の説明まで記されています。
同時に、空海と恵果との出会いや密教伝授などについても記されています。実際に朝廷に提出した「帰国報告書」にもあたる根本史料でもあります。今回は、この招来目録の冒頭部分の原文と、読み下し文、現代語訳を並べて読んでいきたいと思います。テキストは「弘法大師 空海全集第2巻 新請来の経等の目録を上る表 真保龍餃訳」です。
現代語訳新請来の経等の目録を上る表入唐学法の沙門空海言す。空海去んじ延暦十二年をもつて、命を留学の末に街んで、津を万里の外に問ふ。その年の臓月長安に到ることを得たり。十四年二月十日、勅に准じて西明寺に配住す。ここにすなはち諸寺に周遊して師依を訪ひ択ぶに、幸に青龍寺の灌頂阿閣梨、法の号恵果和尚に遇ふてもつて師主となす。その大徳はすなはち大興善寺大広智不空三蔵の付法の弟子なり。経律を式釣し、密蔵に該通す。法の綱紀、国の師とするところなり。大師仏法の流布を尚び、生民の抜くべきを歎ず。我に授くるに発菩提心戒をもつてし、我に許すに灌頂道場に入ることをもつてす。 民の抜くべきを歎ず。我に授くるに発菩提心戒をもつてし、我に許すに灌頂道場に入ることをもつてす。
新請来の経などの目録をたてまつる表
入唐学法の沙門空海が申し上げます。
空海は去る延暦二十三年に留)の命令を受けて、海路万里を渡り唐土を訪れました。その年の十二月.都長安に到ることができました。翌二十四年二月十日、勅に従い西明寺を定められ住むことになりました。ここで早速諸寺を巡り、依りどろとなる師を尋ね選んでいくうちに、幸いに青龍寺の灌頂阿閣梨法号恵果和尚にめぐりあうことができましたので、この方を師と定めました。和尚は大興善寺大広智不空三蔵の付法の弟子であります。和尚は経典戒律を究め、真言密教に通達している仏法の統理であり、国の師とする方であります。
この大いなる師は、仏法のひろまることをねがい、人びとを救うべきことに心をくだいていました。私に発菩提心戒(はつぼさつしんかい)を授け、私に潅頂道場に入ることを許し、寿命潅頂を受け位を受けたのは一度でした。
読み下し文現代語訳受明灌頂に沐すること再三なり。阿閣梨位を受くること一度なり。肘行膝歩して未だ学ばざるを学び、稽首接足して聞かざるを聞く。幸に国家の大造、大師の慈悲に頼つて、両部の大法を学び、諸尊の喩伽を習ふ。この法はすなはち諸仏の肝心、成仏の径路なり。国に於ては城郭たり。人に於ては膏映たり。この故に薄命は名をも聞かず、重垢は入ること能はず。印度にはすなはち輸婆(ゆば)三蔵負展(ふい)を脱冊し、振旦にはすなはち玄宗皇帝景仰(けいごう)して味を忘る。爾しより己還、 一人三公武を接へて耽翫し、四衆万民首を稽して鼓筐す。密蔵の宗これより帝と称せられ、半珠の顕教は旗を靡かして面縛す。それおもんみれば鳳凰干飛するときは必ず尭・舜を窺る。仏法の行蔵は時を逐ふて巻舒す。今すなはち一百余部の金剛乗教、
ひじでにじり進み、ひざで歩くようにして、謹み深く近づき従って、まだ学んでいなかったことを学び、頭を地につけ礼拝し、両手で師の足に触れて礼拝しながら、まだ聞かなかった教えを聞きました。幸いに国家の大恩と大いなる師の慈悲によって、両部の大法を学び諸尊の喩伽を習いました。この法はすなわちもろもろの仏の肝心にして成仏の筋みちです。国においては城の如く迷いの賊におかされることなく、人にとっては安楽に豊かな暮らしができるものです。
だから不幸で寿命の短い人は、密蔵(教)の名前を聞くこともなく、迷いの深い人はこの教えに入ることもできません。インドでは善無畏三蔵が王位を捨て、中国では玄宗皇帝がその善無長三蔵を信仰して寝食を忘れたのです。これより以後、皇帝と最高位の高官たちがあとに続いて密蔵(教)を深く信仰し、出家の比丘、比丘尼はもとより、在家の善き男子、善き女子も万民ことごとく密蔵(教)に帰依し、密蔵(教)を説き論じています。このことより真言の教えは、諸宗の帝と呼ばれ、半分欠けた珠のような顕教は旗をなびかせてうしろ手にしばられ、顔を前につき出すようなかたちになってしまいました。
さて考えますと、鳳凰が飛ぶときはかならず古の聖皇帝尭・舜の仁徳をかえりみるといいます。御仏の教えの行われたり隠れたりするのは、時代をおって経典を巻いたりひろげたりするのと同じです。今ここに百余部の金剛乗教と

現代語訳両部の大曼茶羅海会、請来して見到せり。波濤漢に波ぎ、風雨舶を漂はすといふといへども、彼の鯨海を越えて平かに聖境に達す。これすなはち聖力のよくするところなり。伏して惟れば、皇帝陛下、至徳天の如く、仏日高く転ず。人の父、仏の化なり。蒼生を悲しみて足を濡はし、仏嘱に鍾つて衣を垂る。陛下新たに旋磯を御するをもつて、新訳の経遠くより新たに戻れり。陛下海内を慈育するをもつて、海会の像、海を過ぎて来れり。恰も符契に似たり。聖にあらずんば誰か測らん。空海、闊期の罪死して余ありといへども、病に喜ぶ、難得の法生きて請来せることを。 一燿一喜の至りに任(た)ヘず。謹んで判官正六位上行大宰の大監高階真人遠成に附して奉表もつて聞しめす。ならびに請来新訳の経等の日録一巻を且もつて奉進す。軽しく威厳を顆して、伏して戦越を増す。沙門空海誠恐誠性謹言。大同元年十月十二月入唐学法沙門空海上表
両部の大曼茶雑海会を請来して、まのあたりに見ることができました。海の荒波は唐土にしぶきをそそぎ、暴風雨は私の乗った船を漂流させましたけれど、さしもの大海を渡りきることができ、無事陛下のもと、この国に帰ってきました。これはひとえに陛下のお徳の力のしからしむるところです。
伏して思いますに、皇帝陛下のお徳は天のようにきわまりないので、み仏の日光も高く法を転じ照らすことができます。人の父でありみ仏の化身です。国民を哀れんで生死の海に足をぬらし、み仏の嘱望にこたえて国土を護り天下をよく治められています。陛下が新しく善政をしかれたので、新訳の経典が遠くから新しく来ました。陛下が海内の人びとを慈育されるので、両部曼茶経の仏像が海を渡ってきました。あたかもこれは符節を合わせ契りを結んだのに似ています。聖人でなければ誰がどうして予測することができたでしょうか。
空海、二十ケ年を期した予定を欠く罪は、死しても余りあります。が、ひそかに喜んでおりますのは、得がたき法を生きて請来したことであります。一たびはおそれ、 一たびは喜び、その至りにたえません。謹んで判官正六位上行大宰の大監高階真人遠成に付けてこの表を奉ります。ならびに請来した新訳の経等の目録一巻をここに添えて進め奉ります。軽がるしく陛下のご威厳をけがしました。伏しておそれおののきを増すばかりです。沙門空海誠恐誠性謹んで申し上げます。
大同元年十月二十二日
入唐学法沙門空海上表
以下には〔請来経等の目録〕が次のように記されます
(1)新訳旧訳の経典を計142部247巻、(2)梵字真言讃など計42部44巻、(3)論疏章など計32部170巻、(4)仏菩薩金剛天等の像、曼荼羅、伝法阿闍梨等の影など計10舗、(5)恵果から付嘱された道具9種(6)恵果からの阿闍梨伝法の印信13種
これらが1点1点具体的に列挙され、説明まで付けられています。
「かつて日本に渡っていないものが、ほぼこの中にある」
と空海は云います。密教経典でもすでに日本に渡っているものは、省かれています。「日本に渡っていないものを持ち帰った」という言葉からは、目録中の経典類は唐に行くまでは空海も見たことがなかったものということになります。そうすると金剛頂瑜伽真実摂大経王経、金剛頂瑜伽略出念誦経、般若理趣経、菩提心論、般若理趣釈、などのほとんどの密教の経典類は、唐で初めて空海が触れたものだったことになります。目録にないのは大日経と虚空蔵求聞持法ぐらいです。
と空海は云います。密教経典でもすでに日本に渡っているものは、省かれています。「日本に渡っていないものを持ち帰った」という言葉からは、目録中の経典類は唐に行くまでは空海も見たことがなかったものということになります。そうすると金剛頂瑜伽真実摂大経王経、金剛頂瑜伽略出念誦経、般若理趣経、菩提心論、般若理趣釈、などのほとんどの密教の経典類は、唐で初めて空海が触れたものだったことになります。目録にないのは大日経と虚空蔵求聞持法ぐらいです。
以前にお話したように、空海の入唐については、次のような見解があります。
「一年半という短期間でありながら実に効率よく摂取されたもので、目的が明確に定まっていたことの表れではなかろうか。日本にいたときにすでに、密教体系の大筋を理解し、残すところは対面伝授の秘儀と潅頂だけになっていた」
しかし、招来目録を見る限り空海は、ほとんどの密教経典に初めて長安で接したことが分かります。ここからは、入唐以前の空海が密教体系の大筋を理解していたとは云えないことが裏付けられます。
空海の生きた奈良時代末に、密教についての情報がどのくらいわが国に入っていたのでしょうか。
最澄の請来目録では、密教を念誦法門と呼んでいます。ここからは最澄も密教について「呪法に特色のある宗派」くらいに思っていたことがうかがえます。彼も密教の具体的な行法に目を奪われて、その本質にまでは分かっていなかったようです。最澄にしてこれでは、あとは押して図るべしです。当時のわが国では、密教は新式の呪法程度にしか認識されていなかったことになります。空海が持ち帰ってきた経典類の価値が分かる人はいなかったでしょう。空海自身も「密臓」という言葉を使っています。「密教」という言葉を使い始めるのは、もっと後であることは以前にお話ししました。当時は、大日経も金剛頂瑜伽略出念誦経も伝来し、写経されていたことは正倉院の写経所文書から分かっています。しかし、その意味を理解する者は、入唐以前の空海を含めていなかったと云えそうです。
最澄にしても、自分の伝えた念誦法門の一々の行法に理由付けのあることぐらいは察していたかもしれません。それが空海に「今までの教学では解けない秘密の教法である」と言われて、あわてて勉強しますが、手持ちの貧弱な文献では見当もつかない。頬被りして済ます訳にもいかないので、弱った最澄が、空海に頭を下げて教えを乞うたというのが実態のようです。
空海が密教を求めて入唐したという見方は、誤ってはいないとしても、正確ではないようです。
以前にもお話ししたように、渡唐前の空海に「密教」という概念があったかどうかも分かりません。金剛頂経の存在も知らなかった可能性の方が高いようです。「空海にあったのは、大日経を体得するという志なのだ。」と云う研究者もいます。
長安の絵師たち(弘法大師行状絵詞)以前にもお話ししたように、渡唐前の空海に「密教」という概念があったかどうかも分かりません。金剛頂経の存在も知らなかった可能性の方が高いようです。「空海にあったのは、大日経を体得するという志なのだ。」と云う研究者もいます。
空海が持ち帰った品々は、どのようにして整えられたのでしょうか。
仏典などは新たに写経しなければなりません。
仏典などは新たに写経しなければなりません。
空海が持ち帰った経論は142部247巻にもなります。しかも、すべて日本にはまだ招来されていない新訳のものばかりです。この中の118部150巻は不空が翻訳したばかりの最新のものです。これらは恵果が青竜寺東塔で管理しているものですが、これを空海に渡すわけにはいきません。写経しなければなりません。そのために、恵果は二十余人の写経生に筆写を依頼したと招来目録には記されています。
恵果がさずけたもののうち、曼陀羅は5種類23幅あります。
それに密教各祖の絵像が5種類15幅を加え、これらをあらたに絵師に描かせます。恵果は、それを長安の一流どころの絵師を用いたようです。帝室供奉の画工である李真など、十余人が青竜寺に招かれて筆をふるったと招来目録は記します。
持ち帰る曼荼羅などを描く絵詞と見守る空海(弘法大師行状絵詞)
それに密教各祖の絵像が5種類15幅を加え、これらをあらたに絵師に描かせます。恵果は、それを長安の一流どころの絵師を用いたようです。帝室供奉の画工である李真など、十余人が青竜寺に招かれて筆をふるったと招来目録は記します。
持ち帰る曼荼羅などを描く絵詞と見守る空海(弘法大師行状絵詞)
法具類を作成する官営工場から招かれたの職人たち(弘法大師行状絵詞)
恵果はこれら法具類についても、宮廷の技芸員である鋳博士の楊忠信などに、たのんでつくらせています。ほかに、あらたに密教正嫡の阿閣梨の位についた空海が、正嫡の阿閣梨として持たねばならぬ付属物があります。日本の天皇家の例でいえば皇位継承のしるしである三種の神器のようなものでしょうか。これが「恵果からの阿闍梨伝法の印信」八種で、以下のものです。
(5)恵果から付嘱された道具8種
(6)恵果からの阿闍梨伝法の印信13種
仏舎利八十粒刻白檀仏菩薩金剛像等一寵曲線大受茶羅尊四百四十七尊白諜金剛界三摩耶曼茶羅百二十尊五宝三摩耶金剛金剛鉢子一具牙床子白螺只。
この八種はインド僧金剛智が南インドから唐へ渡ってくるとき招来品で、相続の証として金剛智から不空に伝えられ、不空から恵果に伝えられ、恵果から空海に伝えられたものです。コピーして複製品を作るわけにいきません。空海が持ち帰れば、唐には密教正嫡を証明する八種のシンボルがなくなることになります。これを立場を変えるとどうでしょうか。日本のある宗派の宗主が外国人によって継承され、帰国時に持ち帰られる・・・。これを本当に恵果は行ったのかと、改めて疑問がわいてきます。玉堂寺の珍賀らの僧侶たちが空海の潅頂に対して不穏な空気をみせたというのも当然のような気がしてきます。さらに恵果は、かれ自身が持っていた五点の品々を、自分の形代(かたしろ)として、空海にあたえています。
最後に、空海と最澄の立場を比べてみましょう。
最澄は請益僧で還学生の資格でやって来ています。目的は唐から日本に必要な文物をもらってくることで、乗っていた船で還ってくる短期間留学です。このため請益の還学生には、身分の高い僧がえらばれることが多かったようです。最澄の場合、すでに内供奉十禅師という天皇の侍僧でした。最澄は入唐の際にも、自分専用の通訳僧を供にし、十分な経費も支給されていました。いわば、日本国代表として唐の文物なり思想なりを買い受けに行く役目です。ある意味、国の文化・宗教バイヤーで、国家を後ろ盾にして経費に糸目をつけずに買い入れることができる立場でした。ある意味、「天台宗を体系」を丸ごと仕入れに行ったとも云えます。そのため最澄は、資金も潤沢で、要人への贈り物もふんだんに用意していたようです。
例えば天台山へ行ったときには州の長官・陸淳は、最澄を丁寧にもてなしています。そこには贈答作戦があったようです。また天台山では写経生を動員し、紙数にして8532枚という経典や注釈書を書写させて持ち返っています。これらについても、膨大な経費が必要とされたはずですが、その経費を心配する必要はなかったはずです。
最澄の立場と空海を比べて見ると、置かれた位置が初めから違うことが分かります。
空海に課せられた義務は、20年間かかって密教を学ぶことです。最澄のように密教をシステムごと「移植」する義務はありません。そのための経費も持たされていません。司馬遼太郎はこれを「空海は、恵果から、 一個人としてゆずりうけた」と記します。その経費は、20年間の留学費をそれにあてたとします。しかし、見てきたようにそれだけでも賄いきれない経典や法具類の種類と量です。この「資金源」については、別に触れましたのでここでは省略します。
空海は、日本国から義務を負わせられず、経費をあたえられずして、密教を個人で「移植導入」してしまったことになります。国の仕事として天台宗導入を行った最澄に対し、空海の天台体系への視線は、つまらぬ存在をみるようなものであったとも司馬遼太郎は記します。それは、空海の帰国後の態度の痛烈さは、このあたりに根があると司馬遼太郎は指摘します。
空海は「私費で、そして自力で、真言密をこの国に導入したのです。
支離滅裂になってまとめきれません。悪しからず。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 司馬遼太郎 空海の風景(下)
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参考文献 司馬遼太郎 空海の風景(下)
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