蔭凉軒日録 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

これは「蔭涼軒日録」(いんりょうけんにちろく・おんりょうけん)と読むようです。
蔭涼軒というのは、京都御所の北側にある相国寺の子院の子院に当たるお寺です。かつての相国寺にはたくさん子院や搭頭があり、現在の同志社大学の敷地もかつては、このお寺の敷地だったようです。その中の塔頭のひとつが鹿苑院で、さらに鹿苑院の中に属したのが蔭涼軒のようです。ここの歴代の住職が残した日記が「蔭涼軒日録」になります。これはある意味では、お寺の公用日記なのですが、私的なこともたくさん書いてあって当時のことがうかがえる史料になっているようです。その中の明応二年(1402)の記事に、当時の讃岐のことが書かれています。今回は「蔭涼軒日録」に出てくる15世紀初頭の讃岐の姿を追いかけて見ようと思います。テキストは 「田中健二 中世の讃岐-郡の変遷-    香川県文書館紀要創刊号 1997年」です
 蔭涼軒に出入りしている人の中に、羽田(花田)さんがいます。
この人は「はねだ」さんで、漆器作りの塗師です。この人があるとき団扇を持ってきます。この羽田という人は、よく讃岐のうわさ話を伝えます。どこから聞いてくるのかは分からないんですが、この人が話すことは、讃岐関係のことが多いようです。それを聞いた蔭涼軒主が日記に書きのこしています。こんな風に京都の人たちは、地方の情報収集を行っていたのかとおもわせるものが多々あります。
塗師の羽田さんの語る室町時代の讃岐の情勢を見てみましょう。
①『蔭凛軒日録』明応二年六月十八日条        
羽田源左衛門尉 団扇一柄持ちて来たり。年々の嘉例なり。約するに来たれる日の斎を以てす。羽田の話に云く、讃岐国は十三郡なり。六郡 香川これを領す。寄子衆亦皆小分限なり。しかりと雖も香川に与し能く相従う者なり。七郡は安富これを領す。国衆大分限の者惟多し。しかりと雖も香西党首として皆各々三昧。安富に相従わざる者惟多きなり。
 小豆島亦安富これを管すと云々。備中国衡は一万六千貫の在所なり。安富・秋庭両人これを管す。各々八千貫充つこれを取る。上分綸に一方より五万疋ばかりこれを進納すと云々。
意訳変換しておくと
 羽田の話によると、讃岐国は十三郡という。西の六郡は香川氏がこれを領する。寄子衆(従っている武士団)は、小分限(領地が少ない)ものが多いが、そうは云っても香川氏に与してよく従う者たちである。
 一方、東部七郡は安富が支配するエリアである。こちらは、大分限の武士団が多いが、しかし、香西氏のように独立性が高く、皆各々三昧(勝手次第)で、安富氏に従わない者も多い。
  小豆島は安富が支配する。備中は16000貫の所領であるが、これを安富と秋庭で管理し、折半してそれぞれ8000貫を取る

 団扇職人がもたらした讃岐についての情報を分析してみましょう。
最初に「讃岐国は十三郡」という情報が語られます。これについては、先日見たように古代の「和名抄」に11郡であったのが、平安後期に2つ増えていますから戦国時代の初めには13郡になっていたはずです。この情報は正しいことになります。
古代讃岐の郡と郷 大内・寒川郡の古代郷は、中世にはほとんどが荘園化された : 瀬戸の島から
和名抄の郡は11、阿野郡と香川郡が分割されて13へ

 そのうちの六郡は香川氏が統治し、残りの七郡は安富氏が統治しているということが分かります。安富氏が統治している方に香西氏がいると記されています。香西氏は管領細川氏の四天王として京都でも有名でした。香西氏は古代綾氏の流れを引く武士団で、その本拠は、綾南町から香東、香西付近に伸びていました。特に香西、勝賀が主要拠点で、高松西高校付近のに勝賀山が香西氏の本拠でした。知る人が聞くと、安富氏は讃岐の東半分であろう、そして香川氏が西半分であろうと見当が付きます。
香川県の戦国時代特集!戦国大名十河存保を産み出した歴史を解説【ご当地戦国特集】 | ほのぼの日本史
 小豆島も安富が管轄すると記され、小豆島だけが特別扱いになっています。当時は小豆島は、備前国に所属していて、それを安富氏が管轄していたようです。ここから安富氏と香川氏が、讃岐国を東西の二つに分けて支配しているというのは分かります。一方、讃岐守護は管領を勤めていた細川政元が守護です。香川氏も安富氏もこの細川氏の家臣になります。主人の守護に代わって、預かっているので守護代と呼ばれます。
戦国と火の魔王 | 螢源氏の言霊
讃岐の守護と守護代の関係を見ておきましょう。
A「石清水文書」
 石清水八幡宮領 讃岐国本山庄公文職事。戸島三郎左衛門入道、本知行と号しながら、鐙文を出さず。旧冬軍陣に於て、安堵を申し賜ると雖も、召し返さるる所なり。厳重の神領たるの上は、社家雑掌に沙汰し付け、請取を執り進むべきの状くだんのごとし。
応永七(1400)年四月廿八日  (花押)
  細河右京大夫殿
  (折封ウハ書)
  「香川帯刀左衛門尉殿   右京大夫満元」
  意訳変換しておくと
 石清水八幡宮領である讃岐国本山庄の公文職について。戸島三郎左衛門入道は、本山荘について自分の知行であるといいながら契約口銭を支払わず、旧冬軍陣において、安堵されたが返還を命じられた次第である。本山荘は石清水八幡宮の神領であるので、社家雑掌と連絡を取りながら、戸島三郎左衛門入道から返還させ受け取りを進めること。
ここには「石清水八幡宮領 讃岐国本山庄公文職事」と見えます。
ここに出てくる本山荘は、三豊の本山寺周辺にあった荘園のことです。本山荘の公文職として管理に当たっていたのが地元の武士である戸島三郎左衛門入道のようです。しかし、決められた口銭を支払わないので岩清水八幡から幕府に訴えられたのでしょう。その判決文(命令書)がこの文書に当たるようです。戸島三郎は、都人から云うと「悪党」にあたる人物になります。
 ここで確認したいのは、幕府の地方に対する命令系統です。
讃岐国の本山荘に関わることですから幕府の命令は、讃岐守護の細河右京大夫殿(細川満元)に宛てられています。
細川満元 - Wikipedia
細川満元
それでは、これを受け取った讃岐守護の細川満元は、どうしたのでしょうか?  次のような通信を守護代に送っています。
B 石清水八幡宮領讃岐国本山庄公文職事。今年四月廿八日御教書かくのごとし。早く豊島三郎左衛門入道の知行を退け、社家雑掌に沙汰し付けらるべきの状くだんのごとし。
 応永七年九月十五日      右京大夫(花押)
 香川帯刀左衛門尉殿
  意訳変換しておくと
B 石清水八幡宮領である讃岐国本山庄の公文職のことについて。今年4月28日の教書で命じたとおり、早々に豊(戸)島三郎左衛門入道の知行を返却させ、石清水八幡宮に変換させること。

 AとBを比べると、まるで伝言ゲームのようです。幕府からの命令書を受け取った讃岐守護である右京大夫(細川満元)は、西讃守護代の「香川帯刀左衛門尉殿」に命令書Bを出しています。命令を受けた天霧城の香川氏が豊島三郎から公文職知行を返却させることになったのでしょう。ここからは次のような命令系統が働いていたことが分かります。
室町幕府 → 讃岐守護・細川満元 → 西讃守護代・香川帯刀左衛門尉 → 豊島三郎へ

という命令系統だったことが分かります。この史料の場合は「土地の打ち渡し」に関する命令書だったようです。年号は応永七(1400)年で、室町時代の初めの頃です。香川氏が細川氏から命令を受ける立場にあったことを確認しておきます。
戦国大名の誕生について|社会の部屋|学習教材の部屋

次は京都の醍醐寺の「三宝院文書」を見てみましょう
C[三宝院文書]
 三宝院御門跡領讃岐国長尾庄事、公田中分を止め、先例に任せ、所務をまっとうせしむべき旨、地頭に相触れらるべきの由候なり。侶て執達くだんのごとし。
 応永十六年九月十七日      聖信(花押)
 安富安芸入道殿(東讃守護代)
意訳変換しておくと
三宝院御門跡領の讃岐国長尾庄について、今行われている公田中分を停止し、先例にもどし、業務を行うように、地頭に通達すること 相触れらるべきの由候なり。侶て執達くだんのごとし。

こんどは東讃の長尾荘の香田中分の停止命令です。送信者は「聖信」とありますが、この人は細川満元の家来で、今風に言えば秘書にあたるようです。最初の文書は守護の細川氏の命令を伝えたもので、宛先は安富安芸入道となっていました。ここで東讃守護代の安富氏が出てきました。安富安芸入道は、法名を宝城と云ったようで、これが安富安芸入道宝城という人物になるようです。彼が安富次郎左衛門入道という人に出したのが次の通信Dです

D  三宝院御門跡領讃岐国長尾庄事、今年十七日の御奉書の旨に任せ、公田中分の儀を止め、先例のごとく、領家所務をまっとうせしむべきの由、地頭沙汰人に相触れらるべきの状くだんのごとし。
  応永十六 九月十八日      宝城(花押)
  安富次郎左衛門入道殿

CとDは「伝言ゲーム」の文面のようなものなので意訳はしません。しかし、送信者と受取人は変化しています。
 以上見てきたように、守護細川氏から西讃に関する命令は、香川氏に行き、東讃に関する命令は安富氏に行くという命令系統が確認できます。同じ細川氏が出す命令でも、讃岐国の東の方の場合には安富氏に命令が行き、西の方は香川氏に行くんだというふうに讃岐は東西に郡で分けて管轄されていたことを確認しておきます。
ここで研究者が注目するのは、これらの文書の日付です。
Cは、主人の細川氏の命令を安富氏が受けたのが9月17日になっています。そして、安富安芸入道が、命令を出しだのが翌日の18日になっています。当時、讃岐と都の間はどんなに急いでも4・5日はかかります。一日で京からの通信が、讃岐の安富氏のもとに届けられることは不可能です。これをどう考えればいいのでしょうか。
「安富安芸入道宝城は、細川氏と同じ京都に居た」と研究者は指摘します。
だから命令を受けて、翌日出せたというのです。つまり、守護と守護代は細川氏の屋形がある京都にいた、安富氏も香川氏も主人の細川氏と一緒に居たということになります。守護代たちも守護の細川氏と同じように讃岐を留守にしていたのです。
管領細川家とその一族 - 探検!日本の歴史

香川・安富両氏のような役割を果たしている人を、守護の代官であることから守護代と呼ぶと教科書にも書かれています


細川氏の場合は管領でもあります。管領は将軍を補佐して政治を執るのが仕事なので、京都に居なければいけません。将軍の補佐役、あるいは将軍の代執行人に当たる存在です。となると、安富と香川の両氏も細川氏に仕えなければならない立場なので京都に滞在することになります。そこで、本国讃岐のことは一族に任せます。これを守護代の又代官だから「守護又代」、単に「又代」とも呼んだようです。こうして都にいる一族と地元にいる一族が次第に分かれていくようになります。細川氏は少ない時で四か国、多い時には数カ国の守護を兼ねていましたから、それぞれの国の守護代がみんな都にいることになります。これを現代風に例えると、一つの会社みたいなもので、守護が社長で、守護代は支店長でなく重役です。重役が社長と別の所にいるわけにいかないので、社長がいる所に重役達も一緒にいることになります。つまり細川カンパニーの重役達が京都の本店に一族を連れて勤務していることになります。そこには和泉担当重役・摂津担当重役・東讃担当重役・西讃担当重役ということになります。

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 一般の守護の場合を見てみると、南九州の島津などは国元にいます。都にいても、将軍が何か仕事をさせてくれるわけじゃありませんから。都に出向く必要がないのです。ところが、細川氏とか斯波氏・畠山氏などは、将軍足利氏の一族なので、一族の長である将軍を補佐する立場にありますから将軍と一緒にいます。そうしたら、この主人を守って補佐する人達も、都に出向いて滞在することになります。
香川氏も安富氏も自分の一族を又代官として讃岐に置いていました。
 実際の讃岐での仕事は、代官の代官すなわち又代官がやっていることになります。つまり、代理人の代理人が職務を遂行していることになります。

以上をまとめておきます
①讃岐は守護であった細川氏がいくつもの守護を兼ねていた上に、幕府の親族として管領として幕政にも参加したので、京都に滞在し、讃岐にいることはほとんどなかった。
②そのため有力武士団である安富・香西・香川なども、主君に従って京都に滞在することが多くなった。
③彼らの中には、讃岐以外の守護代を務める者も現れ、本国よりも京都での利権の方が重くなっていった。
④讃岐の守護代を務めた東讃の安富も、西讃の香川も又守護代に本国当地を任せることが常体化するようになった。
⑤この結果、細川氏一族での内部抗争が激化すると、「細川四天王」と呼ばれた讃岐武士団の中には、うち続く抗争の中で衰退するものも現れた。
⑥そのような中で香川氏は、天霧城を中心に周辺武士団を家臣化し、戦国大名への道を歩みはじめる。
⑦その他の多くの武士団は、阿波三好氏の軍門に降り、その軍団の一部として動き始める。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献      「田中健二 中世の讃岐-郡の変遷-    香川県文書館紀要創刊号 1997年」