前回は、近世の半ばになると各藩では、式内社などの古寺が再興・保護されるようになる一方で、小さな神社、淫祠などは破棄され、神社の整理が行われ、ランキング表が作られるようになったことを見てきました。神社が序列化されると、次はそこに奉仕する神職も序列化されます。その際には、序列の規準が必要となります。近世の神社がどのように組織化されていったのか、その原動力は何だったのかを見ておきましょう。テキストは 「井上智勝 近世神社通史稿 国立歴史民俗博物館研究報告第148集 2008年12月

吉田神社
そこで登場してくるのが公家吉田家です。
寛文五年(1665)の諸社禰宜神主法度(「神社条目」)は神職を次の3つに分類します。
①朝廷から授与された位階を持つ神職②位階は持たないが吉田家が発給した許状(神道裁許状)を有する神職③位階も許状も持たない神職、
そして、神職として装束着用が認められるのは①②で、③の神職は「下賤」の服とされる白張を着用しなければならないと規定します。
つまり、狩衣や烏帽子などを着るには吉田家の許し状、いわゆる神道裁許状が必要になったのです。さらにこの規定に違反し、裁許状の交付を受けずに、装束を着用した場合の取り締まりも強化します。
白張とは白布の表裏に糊を強くひいて仕立てただけの狩衣で、貴族の従者や下人の装束です。神職が下僕が着る白張で神に祝詞を捧げたり、笏を構えても威厳はともないません。滑稽さを感じるかも知れません。これでは、儀式にはなりません。宗教的な儀式には、それにふさわしい厳かな着衣が求められます。神職の場合は、烏帽子に狩衣を着用し、手に笏を持ち、足には黒い浅沓を履き、神に仕える重々しい姿を人々に誇示することで神の威光も保たれます。白張で神事を行えということは、神職にとっては、廃業せよというに等しいと感じたかも知れません。①の位階を得るためには、公家による取り次ぎを経て、勅許を受ける必要があります。そのためには、大きな経費と労力がいります。これができるのは、有力神社だけです。

つまり、狩衣や烏帽子などを着るには吉田家の許し状、いわゆる神道裁許状が必要になったのです。さらにこの規定に違反し、裁許状の交付を受けずに、装束を着用した場合の取り締まりも強化します。
白張
白張とは白布の表裏に糊を強くひいて仕立てただけの狩衣で、貴族の従者や下人の装束です。神職が下僕が着る白張で神に祝詞を捧げたり、笏を構えても威厳はともないません。滑稽さを感じるかも知れません。これでは、儀式にはなりません。宗教的な儀式には、それにふさわしい厳かな着衣が求められます。神職の場合は、烏帽子に狩衣を着用し、手に笏を持ち、足には黒い浅沓を履き、神に仕える重々しい姿を人々に誇示することで神の威光も保たれます。白張で神事を行えということは、神職にとっては、廃業せよというに等しいと感じたかも知れません。

これに比べて②の吉田家の許状は、はるかに軽い負担で手に入れることができたようです。そのため、村の神職は許状(神道裁許状)を得るために、京都の吉田家と関係を持つようになります。そして、その許状を得た後は、吉田家の配下として活動することになります。
つまり、吉田家が全国の神職の免許状交付センター権を握って、神道界を牛耳るようになるのです。
つまり、吉田家が全国の神職の免許状交付センター権を握って、神道界を牛耳るようになるのです。
金毘羅神を祀る松尾寺金光院の横暴に、絶えかねた三十番社の神職が最初に訴えを持って駆け込むのが吉田家だったのも、このような時代の背景があるようです。金比羅さんのように新興の地方有力神社は、吉田家の影響力を排除するためには、①を得る必要があります。金毘羅さんの「日本一社」指向も、この文脈の中で考える必要がありそうです。
吉田家が発給した許状(神道裁許状)
①の位階を得るよりリーズナブルとはいえ、②の吉田家の許状を獲得するためにも相応の負担は必要です。
ある村の神職の例を試算したものがあります。吉田家から神道裁許状を得るためには、上京して吉田神道の特訓を受けなければなりません。その交通費、滞在費、受領名や官位を得る費用は、しめて15両と試算されています。
また、勝手に神職になるわけにはいきません。その神社を支配する藩主の推薦状や謝礼も必要でした。晴れて神職であることを吉田家から許可されれば、村の主だった名主や氏子を集めて披露の宴も開かなければいきません。いま、金一両を10万円とすると、15両は150万円、これに雑多な費用を加えると、何百万円の経費がかかったようです。小さな村の神社の神官たちにとっては、大きな負担だったかもしれません。そのほかにも、吉田家には各物品の価格や許可に対する次のような礼金のリストが作られていたようです。
①神社号を許可されるのに額字ともで10両②烏帽子着用に金一分(約2万円)、③掛緒や沓の使用許可にもそれぞれ金一分
神社を支える村の氏子たちは、神職が許状を得る際の謝礼や上京費用を負担するようになります。氏子たちは積み立てや信仰者に寄附を募るなどして、経費を捻出したのです。
この諸社禰宜神主法度(「神社条目」)によって吉田家は、幕府から神職の統括者(本所)としての承認を受けたことになりました。
それ以前の神職は、伊勢神宮や、各地域の有力神社神職の許可によって身分が保証されていました。しかし、法令発布後は吉田家と関係を持つ以外に道はなくなったのです。それが嫌なら白張を着用して、祭祀に臨まなければなりません。
これを別の視点から見ると、今まで神職身分を承認していた伊勢神宮をはじめとする有力神社の存在意義が否定されたことになります。ただ、一宮のようにそれまで神職身分の公認所であった地域の大社は、吉田家の配下となることで、それまで同じように神職の支配・統制を許されます。ある意味では、吉田家による神職免許交付システムの中に、有力神社も取り込まれたことになります。その頂点に吉田家は立ったのです。
将軍綱吉の元禄期を終えて18世紀になると、神社の位階授与(神階)を希望する者が激増します。
その背景には、神社財産の管理権をめぐる対立抗争が増えたことが背景にあるようです。この場合の決着方法として、位階申請が用いられたのです。神階を受けるためには領主の添状と、氏子の支持が必要でした。そのため申請の過程で、神社の代表者が誰であるのかが明らかにしなければなりません。
具体的には、村々からの神階の申請は、吉田家に対して行われます。したがって、神位を受けるために上洛した者が、本所吉田家から神社の代表者であること、すなわち神社支配権を承認されることになります。神階は、神道裁許状と違って、神職以外の宗教者や一般の人々が支配する神社でも受けることができました。そのため社僧や山伏あるいは氏子でも、神位を受けることで、その神社の管理権を確保することができたのです。こうして18世紀の前半期には、吉田家による神階授与が最高潮に達します。
神階を受けるためには、いま一つ条件がありました。
神社の祭神などの基礎事項がはっきりしていなければ、神位を受けることはできません。今からすれば、当然のことのように思えますが、当時は、何を祀っているのかも分からない神社がたくさんありました。分からなくっても、年間祭礼行事等を行う際には、何も困りませんでしたから、そのままになっていたようです。
神社の祭神などの基礎事項がはっきりしていなければ、神位を受けることはできません。今からすれば、当然のことのように思えますが、当時は、何を祀っているのかも分からない神社がたくさんありました。分からなくっても、年間祭礼行事等を行う際には、何も困りませんでしたから、そのままになっていたようです。
そこで神位受与の申請を行う前に、吉田家のアドヴァイスを受けて、祭神などを決めたようです。こうして、神階受与の申請が進む中で、神社の基本的なことが整えられて行きます。結果として祭神や由緒は、どこも似たもの同士へと均質化していきます。それまで村に伝承されてきた独自の神格や由緒が駆逐され、記紀神話など中央の神体系に組み込まれて行くことになります。
祭神や由緒の確定は、神社帳を編纂した藩などにおいては、すでに進行していたことです。この時期から丸亀藩の西讃地誌のように、地誌編纂が盛んになってゆくことも、この傾向を助長していきます。民間の学者や神職も、次第に祭神や由緒の考証を行うようになり、彼らの手によって神社志が編まれることも多くなります。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「井上智勝 近世神社通史稿国立歴史民俗博物館研究報告第148集 2008年12月



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