江戸時代後期になって西讃府史などが編集されるようになると、このデーター集めや村の歴史調査のために庄屋層が動員されたことは以前にお話ししました。そのため丸亀藩では「歴史ブーム」が起きて、寺社仏閣についての歴史や、自分の家についての由緒や歴史を探ろうとする動きが高まります。その中で、数多く作られたのが由緒書きであり系図です。こうして出来上がった寺院の由緒には、次のようなパターンが多いようです。
①行基・空海・法然などによって開祖され一時衰退していたのを
②中世に○○が復興した。故に○○が当寺の中興の祖である
③ところが土佐の長宗我部元親の侵攻で、寺の由緒を伝える寺宝や由来も焼失した。
④江戸時代になって○○によって復興され、いまに至る

全国廻国の高野聖や連歌師の中には、寺の由緒書きを書くのを副職にしていたような人物もいたようで、頼まれればいくつも書いたようです。そのためよく似たパターンになったのかもしれません。
 この由緒作成マニュアルで、依頼した寺院が揃えるのは④以後の資料だけです。これは寺の過去帳を見れば分かります。②は他のお寺の系図や由緒をコピーして挿入することも行われます。そして、①の権威のある高僧に結びつけていきます。つまり、いくつかの歴史の「接ぎ木」が行われているのです。これが、寺院の由来作成方法のひとつのパターンのようです。
 この方法が円珍系図にも見られると研究者は考えているようです。今回は、円珍系図が誰を始祖にしているのか、どのように接がれているのかを見てみることにします。テキストは「 佐伯有清「円珍の家系図 智証大師伝の研究所収 吉川弘文館 1989年」です。

日本名僧・高僧伝”19・円珍(えんちん、弘仁5年3月15日(814年4月8日 ...
                     円珍系図(和気家系図)

『円珍系図』は、次の三つの部分から出来ていると研究者は考えています。
Aは天皇家の系譜に関する部分、つまり天皇家との関係です。
Bは伊予の和気氏に関する部分、つまり讃岐にやってくる前の系図 
Cは讃岐の因岐首氏に関する部分
まず、冒頭に出てくるのはCの讃岐因支首氏の系図です。
円珍系図冒頭部
円珍系図の最初の部分です。

階段状に組まれて上から「一」~「五」までの番号が打たれています。これが各世代を表します。一番下が最も若い世代になります、左側下に「広雄」と見えます。これが円珍の俗名です。ここからは円珍には「福雄」という弟がいたことが分かります。父が「四」の「宅成」で、妻は空海の伯母であったとされます。宅成は空海の父である田公と同時代の人物であったことになります。宅成は田公の義理の弟ということになるようです。宅成の弟が宅丸(宅麻呂)で、円珍を比叡山に導いた僧侶仁徳であったことは前回にお話しした通りです。
「三」の道万(道麻呂)が円珍の祖父になります。

  一方「身」から右側に伸びた系譜は何を表すのでしょうか?
  これも貞観九年(867)の「讃岐国司解」の改姓該当者一覧を基にして作られた因支首氏系図と比較してみましょう。

円珍系図2

多度郡の因支首氏一族

ここからは「三」の「国益」は、多度郡の因支首氏だったことが分かります。「円珍系図」には、那珂郡の道万(道麻呂)と同じく国益一人しか名前が挙げられていませんが、「讃岐国司解」を見ると、改姓認可された人たちは、それ以外にも「男綱」「臣足」などの一族がいたことが分かります。
 多度郡や那珂郡の因支首一族は、「身」を自分たちの直接の先祖だと認識していたようです。これが讃岐の多度・那珂郡にいた因支首氏系図の原型で、「身」に伊予の和気氏系図に「接ぎ木」することが系図作成のひとつのポイントになります。

次にでてくるのがAの天皇家の系譜に関する部分、つまり天皇家と因支首氏の関係です。

円珍系図冒頭部2
円珍系図 天皇系図部分

和気公氏の系図には、円珍の自筆書き入れがあります。 上の横書きされた「裏書」の部分です。円珍が何を書いているのか見ておきましょう。これを見ると因支首氏が大王系譜で始祖としたのは、景行天皇の子ども達の世代であったことが分かります。景行天皇には男17の皇子達がいます。その中から誰を選んだのでしょうか。それが分かるのが次の部分です。

円珍系図5
円珍系図  景行天皇の皇子の部分

ここには景行天皇の17人の皇子の名前が並びます。
大碓皇子の名前の上に、「一」と番号をふり、以下「二」、「三」、「四」と「十七」まで、それぞれの皇子の名前の上に番号がつけられています。讃岐に馴染みの深い神櫛皇子が「十」番目、武国凝別皇子が「十二」番目の皇子であることを示しています。これは、円珍が書き入れたようです。
  この中から因支首氏の先祖とされたのは武国凝別皇子でした。
どうして、神櫛王ではないのでしょうか。それは、因支首氏が伊予の和気公の子孫であることを証明するための系図作成だからです。そのためには讃岐と関係の深い神櫛王ではなく、伊予に関係の深い武国凝別皇子である必要があります。別の視点から見ると、伊予の和気公の系図が武国凝別皇子を始祖としていたのでしょう。
 申請に当たって円珍は、武国凝別皇子が景行天皇の何番目の皇子であるかについて、資料を収集し、研究していた痕跡が裏書きからはわかるようです。それを見るためにもう一度、先ほどの円珍系図の景行天皇の部分の「裏書」の部分に返ります。
円珍系図冒頭部2
円珍は右側の裏書に次のように記します。
伊予別公系図。武国王子為第七 以神櫛王子為第十一 
天皇系図 以二神櫛為第九 以武国凝別為第十一
日本紀 以神櫛為第十 武国凝王子為第十二
意訳変換しておくと
①『伊予別公系図』によると武国王子は7番目 神櫛王子は11番目
②『天皇系図』によると、神櫛王は9番目、 武国凝別は11番目
③『日本書紀』によると、神櫛王は第10番目、武国凝王子は第12番目

ここには円珍が『伊予別公系図』、『天皇系図』、「日本紀』などを調べて、神櫛王と武国凝王子が何番目の皇子として記されているかが列記されています。つまり、円珍はこれらの資料を収集し、比較研究していたことが分かります。景行天皇の皇子と皇女の名前を、『古事記』以下の史書と和気公氏(円珍系図)と比較させてみると、次のようになるようです。
円珍系図4

  この表からは、円珍が最終的に依拠したのは『日本書紀』景行天皇条の系譜記事であることが分かります。つまり、この系図の天皇系譜に関する部分は、独自なものがない、日本書紀のコピーであると研究者は考えているようです。この系図の価値は、この部分以外のところにあるようです。

 円珍はそれ以外にも、讃岐の豪族たちの改姓申請に関する資料も手に入れていたようです。
和気公氏の系図の「皇子合廿四柱。男十七女七」という記載の左横に、横書きで「神櫛皇子為第十郎 与讃朝臣解文合也」と円珍が書き込みを入れています。これは
「神櫛王は10番目の皇子だと、讃岐朝臣の解文には書かれている」

ということでしょう。

「讃岐朝臣」とは、いったい何者なのでしょうか?
貞観六年(864)8月に、讃岐寒川郡から京に本貫を移していた讃岐朝臣高作らが和気朝臣の氏姓を賜わりたいと申請した際の解文です。因支首氏の申請の2年前になります。讃岐朝臣氏は、その20年ほど前の承和三年(836)2月に、朝臣の姓をすでに賜わっています。その時の記事が「続日本後期」承和3年3月条に次のように記されています。
外従五位下大判事明法博士讃岐公永直。右少史兼明法博士同姓永成等合廿八因。改公賜朝臣 永直是識岐国寒川郡人。今与山田郡人外従七位上同姓全雄等二姻 改二本居貫二附右京三条二坊 永直等遠祖。景行天皇第十皇子神櫛命也。

  意訳変換しておくと
外従五位下の大判事明法博士である讃岐公永直。その他、少史兼明法博士で同姓の永成等合計廿八名に朝臣と改姓することを認める。永直は讃岐国寒川郡の人で、山田郡人外の従七位上同姓の全雄等などの縁者に、本貫を右京三条二坊に改めることを認める。永直等の先祖は、景行天皇第皇子神櫛命である。

 ここには、はっきりと「永直等遠祖。景行天皇第皇子神櫛命也」とあり神櫛王が10番目の皇子であることが記されています。讃岐公が讃岐朝臣となり、さらに讃岐朝臣氏が和気朝臣の氏姓を申請した際の「讃岐朝臣解文」にも、遠祖は景行天皇の第十皇子の神櫛命であると述べられていたことになります。これを円珍は、見ていたことになります。
智証大師像 圓城寺
 円珍坐像
では、他の一族である「讃岐朝臣解文」を、円珍はどのようにして見ることができたのでしょうか
 それは、太政官の左大史・刑部造真鯨(刑大史)を通じて、写しを手に入れたと研究者は推測します。刑部造真鯨は、円珍も多度郡の因支首氏の姻戚でした。円珍が唐から帰国し、入京する直前に洛北の上出雲寺で円珍を出迎えたり、円珍の公験を表装したりするなど、円珍とは、きわめて親近な間柄にあったようです。真鯨は民部省をも管轄する左弁官局の左大史という職掌柄から、保管されていた文書を写せる立場にあったと研究者は推測します。 円珍自筆の「裏書」を見ると、円珍はこの他にも『伊予別公系図』、『天皇系図』、「日本書紀』などを参照していたことは先に触れた通りです。

ここからは円珍が貞観八年(866)の因支首氏の改姓申請に、強い関心を持ち、系図の最終確認に関わっていたことが分かります。

最後に、伊予の和気公が始祖としていた武国凝別皇子を見ておきましょう。
 武国凝別命は景行天皇の皇子ではなく、豊前の宇佐国造の一族の先祖で応神天皇や息長君の先祖にあたる人物と研究者は考えているようです。子孫には豊前・豊後から伊予に渡って伊余国造・伊予別公(和気)・御村別君や讃岐の讃岐国造・綾県主(綾公)や和気公(別)がいます。そして、鳥トーテムや巨石信仰をもち、鉄関係の鍛冶技術にすぐれていたことから、この神を始祖とする氏族は、渡来系新羅人の流れをひくと指摘する研究者もいます。
 ちなみに、武国凝命の名に見える「凝」(こり)の意味は鉄塊であり、この文字は阿蘇神主家の祖・武凝人命の名にも使われています。 これら氏族は、のちに記紀や『新撰姓氏録』などで古代氏族の系譜が編纂される過程で、本来の系譜が改変され、異なる形で皇室系譜に接合されたようです。  
   
    以上をまとめておくと
①因支首氏は、改姓申請の証拠書類として自らが伊予の和気公につながる系譜を作成した。
②その際に、始祖としたのは伊予始祖の武国凝命皇子であった。
③その際に問題になったのは、武国凝命皇子が景行天皇の何番目の皇子になるかであった。
④この解決のために、円珍は親戚の懇意な官僚に依頼して政府の書類の写しを手に入れていた。
⑤そして、最終的には日本書紀に基づいて12番目の皇子と書き入れて提出した。

円珍自身も一族の改姓申請に関心を持ち、深く関わっていたことがうかがえます。同時に、当時の改姓申請には、ここまでの緻密さが求められるようになっていたことも分かります。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。最後まで
参考文献
    佐伯有清「円珍の家系図 智証大師伝の研究所収 吉川弘文館 1989年」
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