幕末の開国は、文明開化をもたらしますが、一方でさまざまな感染症も入ってきます。その中でコレラ(虎列拉)はもっとも厄介なものでした。コレラは激しい下痢と嘔吐を引き起こし、脱水症状と高熱で意識不明なって、3日ほどで死にいたる病気で「三日コロリ」とと呼ばれて恐れらました。県下のコレラ患者の発生・死者数が香川県史には下表のようにまとめられています。
この表らは次のようなことが分かります。
明治香川県のコレラ患者数推移
この表らは次のようなことが分かります。
①1890(明治23)年と1895(明治28)年の2度にわたってコレラが大流行した②その死亡率は6割を超えている
2度目のピークは、1898年(明治28)です。この年は、日清戦争が勝利に終わり、大陸から多くの兵士達が帰還してきます。それに伴って、患者が増えたようです。この年の香川県の患者総数は約2300人で、その内の約1500人が亡くなっています。コレラの罹ると三人に二人は亡くなっていたことになります。当時の人々が、 コレラを「コロリ」と呼んで、何よりも恐れた理由が分かるような気がします。
細菌学者コッホがコレラ菌を発見したのは1883(明治十六)年のことですから、当時は「予防治療」に打つ手がなかったようです。
どんな対応がとられたのかを見てみましょう。
どんな対応がとられたのかを見てみましょう。
患者が発生すると、後追い的「消毒」と、避(隔離)病院への「隔離」策をとるぐらいでした。1879年の流行では、知事も感染し、3月1日から始まっていた琴平山博覧会は6月末までの予定でしたが、コレラのため、6月15日に繰り上げて閉会しています。
1887(明治20)年には、県は「伝染病予防規約方法書」を定め次のような指示を出しています。
①飲料水は必ず濾過器を通し、また暴飲暴食をせず、飲食物に気を付けること、②患者発生の場合は、家族はもちろん、五人組親も直ちに組長へ、組長は戸長役場へ届け出ること、③伝染病の懸念あるときは、届出の処置と同時に、その家の「交通遮断」(隔離)を行うこと。
ここからは「水や生ものなどの衛生に気をつけて、早期発見と隔離に努める」というのが方針だったことがうかがえます。日本人の衛生概念の高まりはコレラ対策の中から生まれてきたとも云えそうです。
隔離先は「避病院」と呼ばれました。
これはいつもは開院しているわけではなく、感染患者が出ると「隔離」収容するための市町村立の病舎でした。そのため施設も貧弱で、医療施設とは呼べないものもあったようです。
これはいつもは開院しているわけではなく、感染患者が出ると「隔離」収容するための市町村立の病舎でした。そのため施設も貧弱で、医療施設とは呼べないものもあったようです。
感染病に罹災した上に、家族全員が隔離され、周囲から差別を受けるという二次被害もあったことが当時の新聞からは分かります。
「ハフキン式予防液」の接種が始まるのは、明治も後半になってからです。1902年(明治35)年には、香川県下では約20万人が予防接種を受けています。それでも患者数は県下で2745人、うち死亡者1784人(死亡率65%)の猛威ぶりです。期待された予防接種もあまり効果はなかったようです。
戦後になると医療の発達や公共衛生の向上を背景に、感染病を国内から駆逐しいくことに成功します。感染病の面でも「安心安全な国」を築き上げたと思っていました。しかし今、目の前に展開されている光景をみると、それはある意味「幻想」であったようです。わたし達は、新たなウイルスと今後も向き合わなければならないことを教えてくれます。しかし、それは百年前とは同じ条件や環境ではありません。より高い医療・衛生環境を背景に立ち向かって行けます。
わたしにできることは、対処法をよく知ること、頭を冷やすこと、フェイクニュースを流さないこと、おびえないこと、不安がらないことくらいかなと思っています。
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