空海の生涯は謎だらけなのですが、その中の一つが、いつ出家・得度を受けたかです。これについては、『遺告二十五ヶ条』には次のように記します。
二十の年に及べり。爰に大師岩渕の贈僧正召し率いて、和泉国槙尾山寺に発向す。此こにおいて髪白髪を剃除し、沙弥の十戒・七十二の威儀を授けらる。名をば教海と称し、後に改めて如空と称す。(中略)吾れ生年六十二、葛四十一.
遺告二十五ヶ条は、空海の言葉を記したとされてきましたので、真言宗にとっては疑うことの出来ない「聖書」でした。そのため「二十の年に及べり」から空海の得度については「二十歳得度」説がとられてきました。この説だと大学を途中で退学して、正式に出家した後に山林修行に入り、四国の山や海で修行をしたことになります。
ところが戦後になって、「三十一歳得度説」が有力視されるようになってきました。
この説は、『続日本後紀』巻四、承和二年(825)二月庚午(二十五日)条の空海卒伝を根拠にします。この記録は、貞観十一年(869)8月成立の正史の一つで、空海の一番古い伝記にもなります。そこには、空海の得度・入唐と亡くなったときの年齢が次のように記されています。
この説は、『続日本後紀』巻四、承和二年(825)二月庚午(二十五日)条の空海卒伝を根拠にします。この記録は、貞観十一年(869)8月成立の正史の一つで、空海の一番古い伝記にもなります。そこには、空海の得度・入唐と亡くなったときの年齢が次のように記されています。
年三十一にして得度す。延暦廿三年入唐留学し、青龍寺恵果和尚に遇い、真言を稟け学ぶ。(中略)化去の時、年六十三。
ここには空海が31歳で得度し、延暦23年(804)に入唐したと記されています。「年三十一にして得度す。延暦廿三年入唐留学し」と、得度と人唐を書き分けていますので、このふたつが連続はしているが同時ではなかったとされてきました。つまり、入唐直前に得度したというのです。留学僧に選ばれ入唐するために、慌てて得度したようにも思えてきます。
また、31歳まで得度していなかったとすると、四国での山林修行は正式の僧侶としてではなかったことになります。さらに踏み込むと、空海が仏教に正面から向かい始めたのはいつからなのかという問題にもなります。それは二十歳という早い時点ではなかったことになります。
もうひとつの問題は、空海の31歳が何年に当たるかです。
「化去の時、年六十三」から逆算すると、空海の誕生は宝亀4(773)とされるので、得度は数え年で延暦22(803)年のことになります。ここからは、卒伝の編者は、空海は延暦22年(803)年に出家し、翌年に入唐留学したと考えていたことがうかがえます。
「化去の時、年六十三」から逆算すると、空海の誕生は宝亀4(773)とされるので、得度は数え年で延暦22(803)年のことになります。ここからは、卒伝の編者は、空海は延暦22年(803)年に出家し、翌年に入唐留学したと考えていたことがうかがえます。
しかし、得度した31歳を、何年のこととするかについては、現在では延暦22(803)年説と23(804)説の2つがあります。どちらにしても、空海の出家は入唐と密接なかかわりがあるようです。今回は、空海の出家と入唐の関係を見ていくことにします。テキストは 武内孝善 弘法大師空海の研究 吉川弘文館2006年」です。
空海の入唐留学については、次のように考えられてきました。
第16次遣唐使の第一回目は、延暦22年(803)4月16日に難波津を出帆します。ところが5日後に、瀬戸内海で暴風に遭って航行不能となります。そのため、この年の派遣はやむなく中止されます。この時には空海は乗船していなかったとされてきました。
嵐に遭ったものは不吉だとして、渡航停止を命ぜられた留学僧の欠員補充のため、新たに選任された一人が空海だと云うのです。つまり、延暦23(804)年の第二回目の出帆に間に合わせるために「急遠あつめられた」のが空海だったという説です。
空海の出家・入唐の根本史料としては、「空海卒伝」以外に次の2つがります。
①延暦二十四年(805)九月十一日付太政官符(「延暦二十四年官符」)②大同三年(808)六月十九日付太政官符(以下、「大同三年官符」)
□政官符 治部省留学僧空海 俗名讃岐国多度郡方田郷戸主正六位
上佐伯直道長戸口同姓真魚右、去延暦廿二年四月七日出家□□、□□承知、依例度之、符到奉行、□五位下守左少丼藤原貞副 左大史正六位上武生宿爾真象延暦廿四年九月十一日
「去る延暦廿二年四月七日出家口□」の日付は、空海卒伝の「年三十一にして得度す」の年とぴったりとあいます。つづいて、「省、宜しく承知すべし。例に依って之を度せよ。符到らば奉行せよ」とあります。この官符の趣旨は延暦二十二年(803)四月七日に出家した空海に、前例に準じて度牒を発給するよう、太政官から治部省に命じたものです。根本史料と云われる由縁です。
短い通達文ですが、それまでになかった空海についての次のような重要な情報がいくつも含まれています
①空海の本貫が讃岐多度郡方田郷であること②空海の戸主(戸籍筆頭者)が正六位上 佐伯直道長であることで位階をもっていること③空海の幼名が真魚であること④延暦22年4月7日に出家したこと
この「延暦二十四年官符」が注目されるようになるまでは、空海の出家は22歳のことだとされていました。それがこの史料の出現で大きく揺さぶられることになります。旧来の立場からは偽書説も出されてきました。
「延暦二十四年官符」は、どのような形で「発見」されたのでしょうか。伝来を、まず見ておきましょう。
この太政官符は、本物なのでしょうか?
この太政官符は、今は大和文華館に収蔵されているようです。この史料が知られるようになったのは、案外新しく戦後のことのようです。本当に本物なのでしょうか、偽書ではないのでしょうか?。研究者が、この史料をチェックして、どう評価しているのかを見ておきたいと思います。
「延暦二十四年官符」は、どのような形で「発見」されたのでしょうか。伝来を、まず見ておきましょう。
「延暦二十四年官符」野里梅園編『梅園奇賞』所収
「延暦二十四年官符」が、はじめて紹介されたのは、文政十一年(1828)に発行された野里梅園編『梅園奇賞』二集だったようです。
野里梅園編『梅園奇賞』二集
右中に「石山寺什太政官符」とあるので、石山寺に伝来したものを手本として発行されたことが分かります。しかし、それが注目を集めることはありませんでした。この官符が注目されるようになったのは、戦後になってからのようです。
中村直勝博士蒐集古文書
「再発見」のきっかけとなったのは昭和35年(1960)に、中村直勝氏が蒐集した古文書を収録した『中村直勝博士蒐集古文書』が出版されたことです。刊行時の解説は、簡略なものであまり注目を集めなかったようです。この中村直勝氏が蒐集した平安末期書写の案文を「中村蒐集官符」と研究者は呼んでいるようです。こうして、同じ内容の文書が2つ現れたことになりました。
『梅園奇賞』所収の「延暦二十四年官符」と「中村蒐集官符」は、どんな関係になるのでしょうか?
『中村直勝博士蒐集古文書』の解説は、次のような簡単なものでした。
「この案文の原本と思われるものが「梅園奇賞」二集に収められており、それも同じ個所が欠字になっている」
ここからは、これが「案文」であり、「梅園奇賞」所収のものが原本と考えられていたことが分かるだけです。そのためほとんどの研究家は無視したようです。
この問題を本格的に考察したのは上山春平氏でした。
上山氏は、「中村蒐集官符」の実物調査を踏まえた上で、『梅園奇賞』所収の官符の原本が「中村蒐集官符」そのものである、と結論付けます。その根拠を次のように述べています。
上山氏は、「中村蒐集官符」の実物調査を踏まえた上で、『梅園奇賞』所収の官符の原本が「中村蒐集官符」そのものである、と結論付けます。その根拠を次のように述べています。
「虫損その他欠損部分の形状を入念に模写しているばかりでなく、文字の形まで実に精密に模写している」文字を忠実に写した例として、「貞嗣」を「貞副」とする点と「朝臣」を右傍らに小さく追記してある。
つまり、「中村蒐集官符」が原本で、『梅園奇賞』所収の「延暦二十四年官符」が模写であるとしたのです。上山春平の報告で、この史料は広く世に知られるようになります。そこには、空海の得度が「延暦22年4月7日に出家」と明記さています。これは、それまで真言宗が採ってきた「二十歳得度」説を否定するものです。その結果、大きな反響を呼ぶことになり、「延暦二十四年官符」=偽作説まで出てきました。
二つの史料を比べて見て、一目で分かるのは大政官印の有無です。
『梅園奇賞』所収の官符には「太政官印」が五つ描かれています。これに対して「中村蒐集官符」には全くありません。これをどう考えればいいのでしょうか?
二つの官符を比較すると、『梅園奇賞』は「中村蒐集官符」の忠実な模写と考えるほかないことは、見てきた通りです。『梅園奇賞』の「太政官印」は、梅園が書き加えたものと考えるほかないようです。もし、『梅園奇賞』所収の官符が「中村蒐集官符」でなく、「太政官印」が捺された正式の官符を模写したとすると、署名の部分は本人の自著のはずですから書体が違ってかき分けらたはずです。また「貞嗣」を「貞副」と書き損じることも、「朝臣」のような傍書もありえないと研究者は考えています。どちらにしても、『梅園奇賞』が手本としたのが「中村蒐集官符」そのものであったことに変わりはないようです。「中村蒐集官符」は、今は掛幅装で紙の台紙に貼られているようです。
二つの官符を比較すると、『梅園奇賞』は「中村蒐集官符」の忠実な模写と考えるほかないことは、見てきた通りです。『梅園奇賞』の「太政官印」は、梅園が書き加えたものと考えるほかないようです。もし、『梅園奇賞』所収の官符が「中村蒐集官符」でなく、「太政官印」が捺された正式の官符を模写したとすると、署名の部分は本人の自著のはずですから書体が違ってかき分けらたはずです。また「貞嗣」を「貞副」と書き損じることも、「朝臣」のような傍書もありえないと研究者は考えています。どちらにしても、『梅園奇賞』が手本としたのが「中村蒐集官符」そのものであったことに変わりはないようです。「中村蒐集官符」は、今は掛幅装で紙の台紙に貼られているようです。
それを実際に見た研究者は、次のように報告しています
一行目 上端の字は、従来推定されているように、「太」とみなしてよい。二行目は、通常の官符どおり一字下げで始まり、 一字目は残画から「留」とみなしてよい。二行割注の最後、「真魚」の「真」は「魚」を墨書した上に「真」を重ね書きしている。三行目、下端の三字は、空海の出家・入唐にかかわる、この官符のもっとも重要な箇所であるが、残念ながら判読不能というしかない。
この史料を用いる場合の問題点を、研究者は次のように挙げます
第一 この官符が正文なのか、案文なのか第二 空海の年齢が記載されていない点。第二 解文が付けられていない点。第四 「延暦廿二年四月七日」は作為的な改点か否か。第五 官符の日付・延暦二十四年九月十一日をどう理解するか。
第一は、「中村蒐集官符」は正文・案文のいずれであるのか、の問題です。
研究者は「中村蒐集官符」は案文であるとします。その理由として挙げるのが次の3点です
①まず書写されたのはいつかという問題です。かつて、藤枝晃氏は紙質とその筆跡から、延暦二十四年(805)当時の原文書であるとしました。しかし、その後は平安末期ごろに書写されたものとみています。
②二つ目は、正文であれば自分の署名は自著するはずなので、書き誤ることはありません。ところが「中村蒐集官符」では、「貞嗣」を「貞副」と書き、「朝臣」を傍書しています。正文では考えられない所があります。また、自著であれば、書体が異なっていなければならないのに、すべて一人の筆跡です。さらに、「真魚」の「真」が「魚」の上に重ね書きされている点も正文とはいえないと研究者は考えています。
③三つ目は、正文であれば「太政官印」が捺されているはずです。その痕跡すら見当たりません。このように、「中村蒐集官符」を正文とみなす要素は何一つありません。これは、案文のようです。
第二は、「延暦二十四年官符」に空海の年齢がないことです。
確かに、空海の本貫だけ記されて、年齢がないのは疑わしいといえます。しかし、この文書が備忘のための写し、すなわち案文であるとすれば、この文書を偽文書とみなす決め手とはなりえないと研究者は考えています。
第三は、解文、すなわち下の役所・被官から上申したときの文書がないことです。
確かに、この官符には解文にあたるものはありません。しかし、解文のない大政官符もいくつかあるようです。
第四は、日付の延暦24年9月11日を、どのように理解するかということです。
なぜならこの時は、空海の長安滞在中だからです。それなのに、なぜこの時期に発給されたのかという疑問、あるいは疑いです。「発見」当初は、これが最大の問題で、「偽作」とする根拠とされたようです。
しかし、その後の研究の中で、この日付は、あまり大きな問題ではないとされるようになります。なぜなら、得度の日から二年以上遅れて度縁が発給された例がほかにもあるからです。
その例とは、最澄の度縁です。最澄は宝亀十一年(778)11月12日、近江国国分寺で得度しています。けれども、度縁が発給されたのは足かけ三年後の延暦二年(781)正月20日でした。これは官吏の事務処理の遅れ、つまり税の徴収に必要な帳簿作成の最終リミットにあわせて事務処理を行なったことによるものだったようです。空海の場合も同様のことが考えられます。この官符の発給の遅れは、私度僧のまま入唐したといった資格にかかわってのことではないこと、ましてや空海の責任でもなかったのです。現在では、事務的な手続き上の問題と考えられるようになっているようです。
以上から中村直勝氏が蒐集された平安末期書写の「延暦二十四年官符」は、信憑性の高い史料であると現在では考えられるようになっているようです。
さらに、その信憑性を高める理由として研究者が挙げるのがつぎの三点です。
第一は、「中村蒐集官符」の伝来の仕方です。この史料は単独で伝来してきました。そのため空海の伝記史料をはじめ、その他にまったく引用されていません。後世にある目的にのために偽作・改竄されていたのであれば、いろいろな所に引用され「活用」されたはずです。偽作とは、そのような目的のためにつくられるものなのですから。ところが「中村蒐集官符」には、そのような痕跡がまったくありません。「中村蒐集官符」は、空海の出家に関わる貴重な文書として、平安時代に書写されたものと研究者は考えています。
第二は正史の卒伝は、信頼できる史料に準拠して記録されたと考えられていることです。
とくに「空海卒伝」の場合、公的史料と個人的な史料の二つが使用されたと考えられます。「空海卒伝」の「年三十一にして得度す。延暦廿三年入唐留学し」の箇所は、公的史料が拠りどころとなったとされる所で、その公的史料とはほかでもない「延暦二十四年官符」(今はない原本)であったと研究者は考えています。
第3は、「中村蒐集官符」が書写されたころの空海の生年・没年についてです。
平安末期には空海の生年は宝亀五年(774)、亡くなったは承和二年(835)二月・62歳が定説とされていました。そうすると「空海卒伝」の「年三十一にして得度」した年次が延暦23(803)年となることが、当たり前のことだったのです。それにもかかわらず、「中村蒐集官符」は「延暦廿二年四月七日出家入唐す」と記すのです。ここには、当時の流れにおもねることのない立場を感じさせます。作為的なものはないと研究者は考えています。
平安末期には空海の生年は宝亀五年(774)、亡くなったは承和二年(835)二月・62歳が定説とされていました。そうすると「空海卒伝」の「年三十一にして得度」した年次が延暦23(803)年となることが、当たり前のことだったのです。それにもかかわらず、「中村蒐集官符」は「延暦廿二年四月七日出家入唐す」と記すのです。ここには、当時の流れにおもねることのない立場を感じさせます。作為的なものはないと研究者は考えています。
このようにして、「空海卒伝」「中村蒐集官符」から導き出される空海出家は、延暦二十二年の四月七日です。それは「留学の末に連なれり」は単なる謙譲の修辞ではなく、やはり空海は急遽に留学僧に選任されたことを裏付けているようです。これらの史料確認の上で、研究者は次のような説を組み立てていきます。
第一回目の遣唐使船が難波津を出帆したのが延暦二十二年四月十六日でした。
とすると、「中村蒐集官符」にいう「延暦廿二年四月七日出家入唐す」は、遣唐大使への節刀の儀が終わり、まさに出帆が秒読みに入った時点になります。留学僧として入唐する許可が出されたので、官僧の資格を満たすために、あわただしく出家の儀式をすまされたことがうかがえます。
1回目の出港の際には、空海は乗船していなかったというのが通説ですが、研究者はそれに対して次のような異論を出します。
空海は延暦22年(803)4月16日、難波津を進発した第一回目の遣唐使船に乗り込んでいた。最初に選任された留学僧の一人であった。よって、空海の出家得度は延暦22年(803)4月7日であり、留学僧として入唐が許可されたのは得度の9日前であって、官僧の資格を満たすためにあわただしく得度をすませ、4月16日には船上の人となって難波津をあとにした
これは、裏返すと次のような主張でもあります。
①「中村蒐集官符」は案文ではあるけれども、その記載内容は信頼するに足るものである
②したがって、空海の得度は官符の記載どおり、延暦二十二年(803)四月七日であって、延暦23年4月7日を改竄したとみなす説は成り立たない。
③官符の日付・延暦24年9月11日から、空海が私度のまま入唐したとみなす説も成り立たない
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
武内孝善 弘法大師空海の研究 吉川弘文館2006年」
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