
山下谷次像 仲南小学校(まんのう町)
まんのう町出身の国会議員・山下谷次(1872年3月30日 - 1936年6月5日)のことを調べていると、彼が金刀比羅宮が設立した明道学校の出身者であることを知りました。山下谷次は仲多度郡十郷村帆山(現在のまんのう町)の中農の四男として生まれています。決して豊かな家ではなく、父も早く亡くなったために、上の三人の兄たちは小学校卒業後は、家の農作業を手伝っていました。谷次の前にあった道は、兄たちと同じように家の仕事を手伝うことでした。ところがその道を変更するものが現れます。それが金刀比羅宮が開校させた明道学校でした。明道学校は開校当初は、特待生は授業料が無料だったのです。谷次の希望を受け止めた母親が、兄たちに説得し明道学校へ通うことになります。谷次が後に国会議員に成長して行く岐路に現れたのが明道学校だと私は考えています。そんなわけで、今回はこの明道学校について見ていくことにします。テキストは西牟田崇生 黎明期の金刀比羅宮と琴綾宥常」です。
ペリー来航の頃には、金毘羅大権現には正風館という塾がありました。それが明治維新期には、旭昇塾と名を換えて引き継がれていったとされます。しかし、旭昇塾についての文献は殆どありません、後の『明治43年 金刀比羅宮沿革取調草稿』の中に、次のように記されているだけです。
旭昇塾当塾ハ、宝物館西方ノ岡ノ上二当ル場所二存セシモノニシテ、瓦葺二階建ナリキ、後名称ヲ明道学校卜改メタルガ、明治二十九年廃校卜同時二取払ヒタリ、(『金刀比羅宮史料』第七巻)
意訳変換しておくと
当塾は、宝物館西方の岡の上にあったもので、瓦葺二階の建物であった。後に名称を明道学校と改めたが、明治29年に廃校となり、同時に取払われた。
ここから分かるのは、旭昇塾が「宝物館西方の岡の上」にあったことだけです。その教育内容なども不明です。旭昇塾は、金刀比羅宮の神職や職員などの子弟の教育機関となっていたと研究者は考えています。
金刀比羅宮は1878(明治11)年4月に、明治維新以来の課題であった御本宮正遷座を終えます。これで神仏分離の混乱も一段落して社内も落ち着きを見せるようになります。そのような中で、地域社会の子弟を対象とした教育機関開設の動きが出てきます。
当時中央では、 明治10年(1877)頃から神道の大教宣布の不振や、これに続く祭神論争に対して、政府内では神道の研究・教育センターとしての学校設立を求める動きが出されていました。これを受けて明治15年(1882)には、明治天皇が有栖川宮幟仁親王を総裁に任命し、飯田町に皇典講究所を開学させます。これが後の國學院です。
このような中央の動きを受けて、香川県の神道の中心センターであった金刀比羅宮でも、神道の教育機関を立ち上げる構想が出てきます。当時、旭社で行われていた定期的な神道講習会も、思うような成果は挙げられていなかったようです。神道の国民生活へ浸透の担い手となる若き指導者たちの育成が急務とされたのです。そのような中で、金刀比羅宮附属の教育機関の設立構想が膨らんでいきます。その中心となったのがすでに設立されていた「皇典学会」です。「皇典学会」の事業としては三種類(教育、談論、編修)が掲げられていました。その中で学校は「教育部の現場機関」という位置づけでした。
明道学校跡
「皇典学会教育部規則」と、細則「皇典学会教育部明道学校諸規則」を見ておきましょう。皇典学会教育部規則第一条 本部ハ本会規約ノ趣旨二拠り、 私立学校ヲ設立シテ、専ラ国典ヲ講明シ、兼テ支那、欧米ノ学二渉り、子弟ヲ教育スル者トス第二条 学校ハ、先ツ其本校ヲ讃岐国琴平山二設ケ、漸次会員、生徒増員二従ヒ各地方二設置スヘシ第三条 琴平山二置クモノヲ単二明道学校卜称シ、其各地方二置クモノヲ明道学校某地方分校卜称ス第四条 学校諸規則ハ別冊ヲ編シ、之ヲ詳記セリ、就テ見ルヘシ第五条 図書館、博物館、幼稚園ヲ漸次二開設ス第六条 図書館ハ古今内外ノ書籍ヲ蒐集シテ庶人ノ縦覧ヲ許シ、会員二限り貸借スルコトアルヘシ第七条 博物館ハ古今ノ器物、書画、物理、農エノ器械、動植、金石ノ見本等ヲ蒐集シ、庶人ノ縦覧ヲ許シ、会員二限り貸借スルコトアルヘシ第八条 幼稚園ハ、幼子女ノ薫陶スル所トス第九条 図書館、博物館、幼稚園ノ細則ハ、開設二随テ之ヲ編製ス、(『金刀比羅宮史料』第十九巻、
ここには、琴平に本校を置いて、その後は各地に地方分校を開設していく計画が示されています。また学校だけでなく、附属の、図書館・博物館・幼稚園などの開設計画もあったことが分かります。学校教育と社会教育を総合した教育機関という構想がうかがえます。
「皇典学会教育部明道学校諸規則」を見ると、明道学校の教授内容(教科目)などが分かります。
皇典学会教育部明道学校諸規則第一編 教 則第一章 教旨第一条 本校ハ国典ヲ基礎トシテ普通中学科ヲ授ケ、国体ヲ講明シ事理ヲ研究シ、以テ智識ヲ発育シ道徳ヲ涵養セシムル所トス第二条 学科ヲ分ツテ本科、予科ノニトス第二条 本科ハ古典、修身、歴史、法令、語学、英語、文章、算術、代数、幾何、地理、博物、物理、生理、化学、経済、記簿、書法、図画、体操トス第四条 予科ハ就学時期ヲ失シテ、本科二入ルヘキ学カヲ有セサルモノヲ養成スルモノトシ、学科ハ之ヲ予定セス第五条 本科、予科ノ外、別二須知科ヲ設ケ、余カヲ以テ講読セシムルコトアルベシ第三章修行年限第六条 終業年限ハ四ヶ年トス第四章 学 期第七条 学期ハ一ヶ年ヲニ期二別ケ、二月二十一日ヨリ七月廿日マテヲ前学期トシ、八月二十一日ヨリニ月二十ロマテヲ後学期トス第八条 学級ヲ八級二別チ、毎級六ヶ月間ノ修業トス第五章 授業 日第九条 本校ハ左ノロヲ除クノ外、総テ授業スルモノトス日曜日 大祭祝日金刀比羅宮大祭日夏期休業 七月二十一日より八月二十日まで凡川口‐11‐「「冬期休業 十二月二十五日より一月五日まで臨時休業ハ時二掲示スベシ第十条 授業時数ハ一日六時トス第二編 校 則第一章 入 退 学第一条 生徒ハ品行端正ニシテ、左ノニ項二適合スルモノヲ以テ、入学ヲ許ス第一項 小学中等科以上卒業ノ者、及十四年以上ニシテ第十五条ノ試業二合格ノモノ第二項 種痘又ハ天然痘ヲ為シタル者第二条 入学期ハ毎年両度、定期二月七月試業ノ後トス、尤モ校ノ都合ニヨリ、臨時入学ヲ許スコトアルヘシ第三条 入学期日ハ、之ヲ三十日以内二広告スヘシ第四条 入学志願ノ者ニハ、第一号書式ノ入学願書及ヒ履歴書ヲ差出サシム(『金刀比羅宮史料』第七十九巻、)
本科には古典、修身、歴史、法令、語学、英語、文章、算術、代数、幾何、地理、博物、物理、生理、化学、経済、簿記、圭[法、図画、体操の二十科目が設けられています。
明道学校が開校準備を行なっていた頃、明治14年(1881)七月の文部省達『中学校教則大綱』によると、当時中学校は初等中学科四年・高等中学科二年の修業年限で、それぞれ次のような教科目を履修する規定になっていました。
初等中学科(初等科) 修身・和漢文・英語・算術・代数・幾何。地理・歴史・生物・動物・植物・物理・化学・経済・簿記・習字・図画及び唱歌・体操
高等中学科(高等科) 修身・和漢文・英語・簿記・図画及び唱歌・体操・三角法・金石・本邦法令・物理・化学
つまり、これらの科目を開設しないと中学校とは見なされなかったのです。金刀比羅宮の経営戦略としては、神道専門学校の設立を目指すものではなく、地域に開かれた中学校を目指していましたから、文部省のカリキュラムに準じたものではなりません。そのため英語も当然入ります。
当時は香川県には公立中学校がない時代でした。
そのため私立の中学校の存在意味が高かったようです。その背景を香川県史は、次のように記します。
そのため私立の中学校の存在意味が高かったようです。その背景を香川県史は、次のように記します。
明治十九年四月、中学校令が公布されて、一県一中学校の制に基づき、高松に置かれていた愛媛県第二中学校が廃止された。爾来、明治二十六年、香川県尋常中学校が設置されるまでの数年間、香川県に公立の中学校は全く途絶した。この間隙を埋め、尋常中学の教育過程にのっとり、中等教育の役割を果たしたのが、私立坂出済々学館である。のち、その閉校に際し、功績を称えて香川県参事官は言う。明治十九年
「公立ノ中学校ヲ廃セシヨリ、我ガ讃ノ一国僅二琴平ノ明道学校卜微々タル一二ノ私塾」がみられる程度で、「仮令資産裕カニシテ有為ノ志ヲ懐クモノト雖モ、遠ク山海数千里ノ地ヲ践ムニアラザレバ、完全ナル小学以上ノ教科ヲ修ムル能ハズ、為メニ俊秀ノ子弟ヲシテ進修ノ念ヲ絶ツニ至ラシメタルモノ砂カラズ」、そこで坂出町の有志十数名が出資して、十九年夏、私立済々学館を設立した。(○中略)その後二十六年四月二十一日、
「今ヤ、時来り機熟シ、髪二県立中学校ノ設立ヲ観ル、因テ本日フトシ閉館ノ式ヲ挙ゲ、学生ヲシテ県立中学二入ラシム」
と、二年級以下の生徒六〇余名が香川県尋常中学校に編入を認められた。まさに公立中学校の代役を終えて、私立坂出済々学館は閉館した。教育熱心な有志に支えられて、中等教育の命脈は保たれていたのである。(『香川県史』第五巻〔通史編 近代I〕、ルビ筆者)
ここでは、私立坂出済々学館のことが主に書かれていますが、金刀比羅宮の明道学校も同じでした。香川県が愛媛県に合併され、「一県一中学校の制」で讃岐から県立中学校が姿を消した時代でもあったのです。 明道学校のカリキュラムが、当時の中学校の教育内容を意識した科目編成であることには、そんな背景もあったようです。
金刀比羅宮をめぐる動きを年表で見ておきましょう
明治14年 1881 水野秋彦、明道学校教授に任ぜられる。明治15年 1882 古川躬行着任。明治17年 1884 明道学校開校。明治19年 1886 四国新道起工式。明治20年 1887 電灯点灯。明治22年 1889 大日本帝国水難救済会設立。琴平、丸亀間に鉄道布設。猪鼻峠新道工事完工。明治23年 1890 久世光熙、琴陵家の養子となる。明治25年 1892 宥常没53歳。南光利宮司となる。明治29年 1896 明道学校廃校。善通寺に第11師団設置。
開講2年前に準備に向けて、水野秋彦を招いています。
彼の履歴書が『明道学校関係書類』の中に残っています。それを見てみましょう
(水野秋彦履歴)常陸国茨城郡笠間桂町三百五十四番地茨城県士族水野秋彦嘉永二己西年十二月十三日生当明治十六年八月二十三年九月一 文久元年ヨリ同三年迄、新発田(しばた)藩浪士小川容斎二従テ漢学ヲ受ケ、慶応二年ヨリ明治三年迄、笠間藩賓礼教師鬼沢大海二従ヒテ皇学ヲ受ク一 明治三年庚午十一月十五日、笠間藩史生二任シ、同四年辛木九月二日、旧藩主家従二雇ハレ、同五年壬申正月八日、笠間県学助教試補命セラル一 明治七年二月十日、岩城国国弊中社都々古別神社権宮司に任じ、集中講義ニ補し、同年3月31日、大教院ヨリ、磐前県神道教導取締命セラレ、同八年二月二十日、依願免本官並職一 明治十四年二月廿七日、琴平山明道教校教授二雇ハル(『金刀比羅宮史料』第七十九巻)
ここからは、嘉永二年(1849)に常陸国笠間藩医士の家に生まれで、国漢の学を修め和歌にも秀でた人物であること。維新後は笠間県学助教試補や都々古別神社権宮、警視庁四等巡査などを経て、明道学校の前身旭昇塾教授として金刀比羅宮の招きでやってきたことが分かります。明治22年(1889)11月に41歳にて病没するまで、明道学校教長(校長)として神道や国典などを担当しています。
この他にも明道学校で教鞭を執った人物を見ておきましょう。
金刀比羅宮の禰宜であった松岡調や地元では名の知られていた黒木茂矩(しげのり)らの名前も講師陣として挙げられています。しかし、これらは国学や神学の学者です。数学や理科などの理系科目や、英語など当時求められていた文明開化をリードする科目ではありません。そのような実学の教授たちを招致するのは、大変だったようです。
英語の教師として埼玉から原猪作という人を招くことに成功しています。
その給料は、当時の校長の俸給の倍額にあたっていたようです。
遠くから招いた教師の補助には、特待生として入学させた成績優秀な生徒を当てています。最初に紹介した山下谷次も、授業料免除の特待生でしたから、「教師補助」を務めていたのかもしれません。そして、次世代の教授養成をねらいとしていたのかもしれません。しかし、原猪作は半年余りで琴平を去っています。
遠くから招いた教師の補助には、特待生として入学させた成績優秀な生徒を当てています。最初に紹介した山下谷次も、授業料免除の特待生でしたから、「教師補助」を務めていたのかもしれません。そして、次世代の教授養成をねらいとしていたのかもしれません。しかし、原猪作は半年余りで琴平を去っています。
明道学校跡からの眺め
伊佐庭如矢は、文政11年(1828)に松山城下の医師の三男として生まれています。
幼少の頃より学問を好み、28歳の時に私財を投じて松山城下に「老楳下塾」を開いて子弟教育にあたります。明治になると愛媛県庁吏員として、「城郭廃止令」によって取り壊そうとされていた松山城の保存を訴え、松山公園として開園させた手腕は高く評価されています。
その後、明治16年(1883)には県立高松中学校長となりますが、さきほど見たように「一県一中学校の制」で高松中学が廃校になりリストラされたようです。それを、金刀比羅宮がスカウトします。明治19年(1886)4月に金刀比羅宮爾宜に就任し、明道学校校長も兼務しています。しかし、わずか半年余の在職の後に退職し、翌年には愛媛県道後町初代町長となっています。
こうしてみると講師陣はあまり長続きしていないようです。地方の私立中学校において、優秀な講師陣を揃えることは至難の業であったようです。
このような事業を行うための経済的な基盤は、どうだったのでしょうか?
明治になって移動(旅行・参拝)の自由が保証されて、金毘羅参拝客は、明治になって増加したようです。参拝客たちがもたらす寄進物や奉納品はも増加します。そして、何よりの経済基盤となったのが以前にお話しした崇敬講社の全国展開です。このネットワークが張り巡らされいくにつれて、講員が増えると巨大集金マシーンとして働き始めます。


金刀比羅宮 崇敬講社新規加入数(明治16年)
この資金を使って、金刀比羅宮は本殿の遷宮や、明道学校などの新規事業、芸術家たちへの支援育成事業などにも積極的に取り組むことができたようです。お金の心配はしなくていい時代だったようです。鉄道や道路を新たに建設しようとする新規授業者は、資金援助をもとめて金刀比羅宮通いを行ったことが記録に残っています。明治17年(1884)1月6日、旭昇塾は組織替えして、新たに地域の中等教育を担当する学校「明道学校」として開校します。
その場所は、宝物館の西にあたる「青葉岡」の大樟周辺だったようです。木造瓦葺2階建の八間に十八間、廊下付きの建物でした。
その場所は、宝物館の西にあたる「青葉岡」の大樟周辺だったようです。木造瓦葺2階建の八間に十八間、廊下付きの建物でした。
松岡調は『年々日記』に次のように記します。
六日 ことにてる、うらヽかにて春のことし、本日ハ学舎の開業の日なれハ、とくより明道館へものセハ、康斐、俊次、生徒をつとひて、教場なる学神を斎き奉るしたくセんとて、帳幕をはり、鏡をかけ真榊を置、中央に新しき檜のひもろきを置奉る、又昇降口にハ忌竹をさし、注連縄をハリ、日章のふらふを打ちがへてなびかセたるハ、開業式のさま見へたり、やう/\会幹、教師の人々出仕ありしか、 一時すきたりて副会長琴陵宥常ぬしもものセられたり、ほとなく会員もつとひたれハ、御祭式にかヽらんとす、会長深見速雄主の出仕あらねハ、宥常ぬし祭主つかうまつれけり、勝海ハ奉設長たり、まっ宥常ぬし、勝海、準吉等神雛の御前に進ミて一段拝ありて、宥常ぬしハ微音にて学神を招き本る、勝海和琴、準吉警躍つかうまつる、しハしの間に招神式ハてヽ両段拝、次に勝海、準吉、武雄、正雄、時叙等、御てなかにて御設御酒奉れり、此間奏楽あり、次に祭主祝詞を奏セリ、此祝詞ハ水野秋彦かつくりまつれると、
意訳変換しておくと
六日のことについて、うららかな春のような本日は学舎開業の日なので、明道館へ出向いてみると、康斐、俊次など生徒が集って、教場に学神を招く準備を行っていた。帳幕をはり、鏡をかけ真榊を置き、中央に新しき檜のひもろきを奉る、又昇降口に忌竹をさし、注連縄を張り、日章旗を挙げてなびかせている。開業式の準備が整うと、会幹、教師などの人々が集合してきた。一間空いて副会長の琴陵宥常も現れ、会員が集合した。御祭式が始まった。会長深見速雄主は不参加であるが、宥常が祭主を務め、勝海が奉設長である。宥常、勝海、準吉などが神雛の御前に進んで一段拝して、宥常が微音で学神を招き入れる、勝海和琴、準吉警躍で仕える。しばしの間に招神式は終わり、両段拝、次に勝海、準吉、武雄、正雄、時叙等、御てなかにて御設御酒が奉れた。その間も奏楽が奏でられる。次に祭主祝詞が読み上げられる。この祝詞は水野秋彦か作成したものであり、次のようなものであった。
明道学校開業国祭学神祝詞
琴平山之山上乃。朝日之日向処。夕日之之隠処。聳立在流学校乃高楼ホ。神離起大斎奉。皇神等乃広前。畏々毛白左久。世間乃人道。天地乃物 理。種々乃技芸等波。学ホ依ヽ覚明弁久。学ホ依人修成弁支物奈利斗。皇典学会員乃議計良久波。此会な教育、編韓、談論乃二部有流其中小毛。最重美之先須弁支波。世人ホ真道乎覚良之米。真理乎明米之米。万芸乎修之牟生。教育ホ古曽有祁礼。急速ホ。其学校乎開先物叙斗。議定之事乃隋(小。今姦明治十七年云茂乃歳初乃。今日乃生日之足ロホ。明道云美名負在此学校ホ。皇典 学会 々員。教員。学生。相集大。白三神等乃厳之御前″小。礼代乃物等十。横山―置在流古典。修身通之教訓L経古人申良小。言霊之幸御国乃言語斗。横ホ書成西洋語乎。惟年左太加ホ。歌詩乃詠法1。文洪文乃作則美外。法ホ実乎測量流算術。天地之万物乃理乎。博久知得流術々乎。阿夜ホ苛久。文字書支図画画久手乃芸乎。阿夜ホ愛久。落事無久令教給比。漏事無久令学給比人。此学校乃教育乃光乎。四方ホ偏久令輝。皇典学会乃功乎。大八洲国内体広久令施給開斗。天之八平手拍上人。恐々毛白須。
以下意訳のみ
この学会の主義を見事に言い表しているものである。祝詞が終わると、最初のように両段拝があり、祭官が北方の座に着くと、御前に進みて一拝して、西北の方に向いた座について、古事記の天地初発の段を解いてた。それが終わると堀翁が進み出て語学の大意を述べる。次に秋彦が万葉集、敏足が中庸、荘三大が日本史、俊次がリードルの始め、沢蔵が算術の主意を述べた。この時に、俊次の英語を聞いて、心なき生徒の中には、初めて聞く英語に何を言っているのか分からず、くすくすと笑ふ者もいた。このように講義も無事に終った。私も会長に代って、御前に進み祝文をよんだ。荘三も進み出て、答辞をよむ。これも終わると、伶人発声し、その間に直会の御酒を、祭官を始め、生徒にいたる全員に振る舞われた。(以下略)(『年々日記』明治17年 83
ここで私が気になるのは、開校式典に、会長深見速雄が出席していないことです。これをどう考えればいいのでしょうか。当時の会長深見速雄と琴綾宥常の関係が以前から気になるのです。大事な式典に欠席するのは、ある意味で異常です。名目的存在に留まり、式典などにも参加していなかったのでしょうか。それは置いておいて、式典を見ていきましょう。
①学神を神簾(ひもろぎ)に招神して神崎勝海以下の奉仕で献餃
②斎主は水野秋彦の起草になる「明道学校開業日祭学神祝詞」を奏上
③祭典の後に、明道学校教授代表による講義
講義は、先ず松岡調が『古事記』天地初発の段を講じ、
次に堀秀成がわが国の言語学の大意を述べ、
次に水野秋彦が『万葉集』を講じ
敏足が『中庸』を講じ
伊藤荘三が『大日本史』を講じ
中村俊次がリードル(英文講読)を行ない
大西沢蔵が算術の主意を講ずる
などです。殊に参列者の中には中村俊次によるリードル(英文講読)の際に、「心なき者ともハ、何吏を云ならんと思へるかくづくづ笑ふあり、」との松岡調は指摘します。初めて聞く外国語の不可思議さは、ある意味ではおかしさでもあったのかもしれません。
どうして明道学校と名付けられたのでしょうか?
明治14年(1881)6月20日に校長の水野秋彦が説教講究会でで、次のように述べています。
「今日し初むる講説の会はしも、皇大御国の本教の神道を明らめ究むる会にして」「わが国の本教たる神道を明らめ究める会」
つまり、「明道」とは「神の道を明らかにする」意であったようです。
明道学校の廃校について
明道学校の存在意味のひとつは、讃岐から中学校がなくなったことを埋めることでした。明治19年(1886)四月に施行された『中学校令』(明治19年勅令第一五号)の第六条には、次のように規定されています。
尋常中学校ハ各府県二於テ一校ヲ設置スヘキモノトス、但土地ノ状況二依り文部大臣ノ許可ヲ得テ数校ヲ設置シ、又ハ本文ノ一校ヲ設置セサルコトヲ得、(『中学校令』)
愛媛県と併合された香川県では、県庁所在地の松山にあった「愛媛県第一中学校」のみが残され、高松にあった「愛媛県第二中学校」は、一府県一中学校の原則規定にしたがって廃止されました。そのため讃岐には公立(県立)の中学校がなくなっていたことは、先ほど見たとおりです。
明道学校は、明治19年(1886)から26年(1892)まで讃岐に公立(県立)中学校がなかったために、私立中学校として坂出の済々学館とともに存在意義があったともいえます。しかし、1896年に丸亀に丸亀中学校(分校)が建学されると、ある意味で存在意義をなくしたようです。
しかし、金刀比羅宮の附属学校、図書館・学芸館(宝物館)は、地方での学芸奨励という面からのアプローチは当時としては注目される試みだったと云えます。最初に紹介したように、まんのう町帆山出身の山下谷次にとっては、この明道学校がなければ世に出ることもなく、国家議員になることもなかったのです。彼にとってはまさに人生のスタートを切るチャンスを与えてくれた学校だったと私は考えています。
以上をまとめておくと
①金刀比羅宮は明治10年代になって、神仏分離への対応が一段落し、崇敬講社が軌道に乗り始めると、教育事業への投資を考えるようになった。
②それは皇典学会の「教育部門の附属機関」という形で、具体的には明道学校の建学という形になった。
③そのため将来の神道指導者の要請と同時に、「一府県一中学校」の原則で讃岐に中学校がなくなったことを受けての受け皿としても機能する学校作りを目指した。
④経済的なゆとりがあったので全国から有能な教師を招こうとしたが、なかなか長く定着してくれる講師陣は少なく、英語や理系科目の教師陣の招聘には苦労したことがうかがえる。
⑤結果、金刀比羅宮の附属学校として、国学や神学には強いが上級学校に進学するための「進学指導」には手薄になり、丸亀中学が出来ると存在意味を失い廃校となった。
⑥しかし、金刀比羅宮の附属機関としての教育機関という発想は、その後にも活かされ、附属図書館や附属学芸館(宝物館)の開設につながることになり、地域文化の拠点として機能していくことになる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。⑦
参考文献
西牟田崇生 黎明期の金刀比羅宮と琴綾宥常」
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