骨付き鶏一角の丸戸交差点で南に転じて、丸亀市の産土神である山北八幡宮を東に眺めながら南に進むと杵原町西村の理容店の北で、道は二つに別れます。
左側(東側)の広い道は、昭和48年頃に整備された県道で、旧街道は、右側(西側)です。こんぴら街道二十丁とあるので中府から2㎞あまりきたことになります。奧の理容店の横に、台石には「右 こんひら道」と刻まれた常夜燈がポツンと建っています。
金毘羅丸亀街道20丁石 右が旧街道
左側(東側)の広い道は、昭和48年頃に整備された県道で、旧街道は、右側(西側)です。こんぴら街道二十丁とあるので中府から2㎞あまりきたことになります。奧の理容店の横に、台石には「右 こんひら道」と刻まれた常夜燈がポツンと建っています。
丸亀街道 柞原の理容院の常夜灯の寄進者
ここからは、この燈籠が文久三年(1863)4月吉日に、丸亀商人の金比羅講によって建立されたことが分かります。丸亀商人たちがいくつもの金比羅講を組織していたようです。石工は、大手の泉屋が担当しています。
ここから旧街道沿いの道がしばらく続きます。国道11号を横切って田村池の堤防のすぐ東側を抜けて行きます。
前回見た三軒家からの絵図に描かれていた田村村と比べて見ましょう。田村がこの金毘羅街道沿いに家並みが続いていたことが分かります。この付近から⑬燈籠のある神野神社あたりまでは、古い街道の様子が少し残っているような感じのするコースです。
次の⑩燈籠は、高速道路をくぐってすぐの変速四叉路にあります。
伊予街道との交差点 一里屋の常夜灯兼道標
ここが高松城下を起点とする伊予街道との交差点のようです。ここは丸亀城下から一里(約4㎞)で、一里塚があったので一里屋と呼ばれています。かつては駐在所があった所に、道標を兼ねた⑩燈籠があり。竿に「北丸亀 西いよ こんそうじ ぜんつうじ 東高松 南金毘羅」と刻まれています。他にも次のようにあります。刻まれた文字から明治七年(1874)に、丸亀の商人たちの発願で、郡家村の石工札造によって作られたものであることが分かります。明治になっても、金毘羅参拝客は増え続けます。そのため金毘羅街道の重要性は高まったようです。時代が落ち着いてきて、四国新道などの幹線道路や鉄道の登場で、次第にその役割を終えていくことになります。
この旧伊予街道を越えて金毘羅街道を南に進むと、神野神社の鎮守の森が見えてきます。この森が金毘羅参詣名所図会に描かれていますので見てみましょう。
右下(西)に神野神社とあり、鳥居や本殿・拝殿が見え、廻りを松の社叢が囲んでいます。参道には松並木が金毘羅街道へと伸びていますが、雲に隠されてよく分かりません。右奥(南)に伸びていくのが金毘羅街道で、分岐点には大きな道標が見えます。街道沿いには人家が建ち並び「郡家村」と記されます。街道の反対側にも鳥居と社が見えます。「八幡宮」と「社家」の註が書かれています。この絵図を見て、私がとまどうのは「郡家八幡」のことを知らないからです。本文を読んでみましょう。
「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記 原田屋版」 右下に「ぐんげ」
この旧伊予街道を越えて金毘羅街道を南に進むと、神野神社の鎮守の森が見えてきます。この森が金毘羅参詣名所図会に描かれていますので見てみましょう。
丸亀街道の神野神社・郡家八幡(金毘羅参詣名所図会)
右下(西)に神野神社とあり、鳥居や本殿・拝殿が見え、廻りを松の社叢が囲んでいます。参道には松並木が金毘羅街道へと伸びていますが、雲に隠されてよく分かりません。右奥(南)に伸びていくのが金毘羅街道で、分岐点には大きな道標が見えます。街道沿いには人家が建ち並び「郡家村」と記されます。街道の反対側にも鳥居と社が見えます。「八幡宮」と「社家」の註が書かれています。この絵図を見て、私がとまどうのは「郡家八幡」のことを知らないからです。本文を読んでみましょう。
郡家八幡宮・神野神社(金毘羅参詣名所図会)
郡家八幡宮郡家村にあり、村中の生土神にて、往還の右の方の社頭あり。祭日は9月13日。神野神社国守が象頭山御参詣の時に、当神主の館で休息しが結構で最もよく同村八幡真向にありて、往還の左にあるので地元では、皇子の社と云う。延喜式の那珂郡の二座のひとつである。
この説明によると次のようになります。
往還の右が郡家八幡で神主の館(社館)がある方
往還の左が神野神社で、俗称が皇子神社
絵図を拡大しもう一度見ても、街道を行く人は左から右に歩いています。絵図と説明文が合いません。
往還の右が郡家八幡で神主の館(社館)がある方
往還の左が神野神社で、俗称が皇子神社
絵図を拡大しもう一度見ても、街道を行く人は左から右に歩いています。絵図と説明文が合いません。
グーグル地図を見ると、旧金比羅街道を挟んで宮池手前に、皇子神社はあります。これがかつての郡家八幡なのでしょうか。しかし、皇子神社は近世に宝幢寺池が作られるときに、池に沈むのをここに遷したものとされます。郡家八幡については、今の私にはよく分かりません。宿題にしておきます。
神野神社の参道付近には「郡家の茶堂」がありました。
このあたりは、丸亀城下を出て一里余りの地点です。ここで郡家の村人から茶の接待を受け、しばし憩いの時を持ったのかもしれません。ここには、台石には「すくこんひら道」と刻まれた道標⑬を兼ねた金比羅燈籠が立っていいます。
このあたりは、丸亀城下を出て一里余りの地点です。ここで郡家の村人から茶の接待を受け、しばし憩いの時を持ったのかもしれません。ここには、台石には「すくこんひら道」と刻まれた道標⑬を兼ねた金比羅燈籠が立っていいます。
ここからは、文政13年(1830)に丸亀の商人仲間により建てられたものであることが分かります。この時の石工は泉屋です。まだ地元の石工の出番はなかったようです。
茶堂跡から200mも進むと、街道は再び県道4号線丸亀・三好線と合流します。この辺りからは象頭山が右手に大きく見え始めますが街道の姿を追うことは難しくなります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
金毘羅参拝道Ⅰ 丸亀街道 調査報告書 香川県教育委員会 1992年より
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参考文献
金毘羅参拝道Ⅰ 丸亀街道 調査報告書 香川県教育委員会 1992年より
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