5 瀬戸内海
   
前回は室津・小豆島・引田を結ぶ海上ルートの掌握が、織豊政権の讃岐侵攻に大きな意味を持っていたこと、信長・秀吉軍の讃岐侵攻の際に後方支援の戦略基地として小豆島が重要な意味を持っていたことを見てきました。さらに織田軍が、このルートを越えて西進していくと重要になるのが、備前の下津井と備讃瀬戸の塩飽と宇多津を結ぶルートです。このルートの中核は塩飽です。その背後には村上水軍がいます。今回は、織豊政権が村上水軍にどのようように対応し、瀬戸内海西部の制海権を掌握していったのかを見ていくことにします。

織田政権は、石山戦争を契機として新たな水軍編成を進めていきます。
その担当を信長から任されるのが秀吉です。秀吉は「中国攻め」を担当していました。それは毛利氏との対決だけでなく、四国平定など瀬戸内海制海権の掌握とも関係します。そのため瀬戸内海の水軍編成と表裏一体の関係にありました。その手順を見ておきましょう。
 まず、大坂湾は木津川海戦以後は九鬼水軍が制海権を握っています。そこで秀吉は、瀬戸内海東部の警固衆を集めて織田水軍を編成します。それが以下のようなメンバーです。
播磨明石の石井与次兵衛、
高砂の梶原弥介
堺の小西行長
彼らが初期の織田水軍の中核となります。しかし、こうして編成された織田(秀吉)水軍は、村上水軍のような海軍力もつ強力な水軍ではありません。警固衆(海軍力)よりも、むしろ水運業(海運)に長けた集団であったことを押さえておきます。

信長政権において、瀬戸内海方面の攻略を担当したのは秀吉でした。
これは、よく「中国攻め」と呼ばれます。しかし、秀吉に課せられた任務は、中国地方だけでなく「四国平定」も、その中に含まれていました。秀吉は、一方では毛利氏と中国筋と戦いながら四国の長宗我部元親と戦いを同時並行で行って行くことが求められるようになります。その両面作戦実施のためには、後方支援や兵站面からも瀬戸内海の制海権は必要不可欠な条件となってきます。そのために大阪湾 → 明石海峡 → 播磨灘と、支配エリアを西へと拡大していきます。備讃瀬戸ラインから海上勢力を西へと伸ばしていくためには、塩飽は是非とも掌中に収めなければならない島となります。
 6塩飽地図

塩飽に関して、再度簡単に振り返って起きます。
 もともと塩飽は、東讃守護代の安富氏の支配下にあったようです。永正年間以前に塩飽は守護の料所で、安富氏が代官として支配していました。しかし、やがて支配権が安富氏から大内氏へ移っていきます。その後、永正5年(1508)頃、細川高国から村上宮内大夫宛(能島村村上氏)に対して讃岐国料所塩飽代官職が与えらています。これ以降、塩飽は能島村上氏の支配下に置かれていたことは以前にお話ししました。天文20年(1551)大内氏が家臣の陶晴賢に減ぼされると、塩飽は完全に村上氏の支配下に入れられ、村上氏の塩飽支配はより一層強化されます。つまり、小田勢力が塩飽方面に及んできたときに、塩飽は能島の村上武吉の支配下にあったようです。

1 塩飽本島
塩飽島(本島)周辺 上が南

 石山戦争が激化すると、信長は塩飽を配下に置くために天正5年に塩飽に朱印状を発給し、塩飽船の従来の権限を認めています。
特権を保障された塩飽は、信長方についたとされます。しかし、その後の動きを見ると、必ずしも信長方とは言いきれない面があると研究者は指摘します。どうも、能島村上氏の影響力が、その後も塩飽に及んでいたようです。淡路・小豆島を支配下においた信長にとって、塩飽の支配は毛利氏に打撃を与えるためにも重要な戦略課題になってきます。そのためには塩飽の背後にいる能島村上・来島村上・因島村上の三島村上氏への対応が求められるようになります。

3塩飽 朱印状3人分

天正九年(1581)4月、ルイスフロイスのイエズス会への報告書には、次のように記されています。
「(塩飽には)能島殿代官毛利の警固吏がいて、我等の荷物を悉く陸に揚げ、綱を解きこれを開かんとして騒いだ」

ここからは、塩飽には能島殿の代官と毛利の警吏がいたことが分かります。そうだとすると、塩飽はこの時点では、能島村上氏の支配下にあったことになります。これを打開するために信長は、秀吉に村上氏の懐柔政策を進めさせます。
1581年11月26日、能島の村上武吉は信長に鷹を献上したことが文書に残っています。
時期を考えると、石山戦争終結後に東進する信長勢力と、毛利氏との瀬戸内海をめぐる制海権抗争が激化している頃にあたります。村上武吉からすると、それまでの制海権を信長によって徐々に狭められていきます。対信長戦略として、硬軟両策が考えられたと研究者は考えています。その一つの手立てが自己保身を図るために信長方にすり寄る姿勢を見せたのが「鷹のプレゼント」ではないかと云うのです。信長方にしても、瀬戸内海西域の制海権を握らなければ、毛利氏に対して有利に立つことはできません。そのためには、武吉の懐柔・取り込みを計ろうとするのは、秀吉の考えそうな策です。両者の考えが一致したから「鷹の信長への献上」という形になったと研究者は推測します。
 秀吉は三島村上氏の切り崩しを図るとともに、蜂須賀正勝と黒田孝高に命じて乃美氏を味方にするための働きかけも行っています。しかし、この交渉は不成立に終わったようです。ここからは秀吉は、毛利氏の水軍の切り崩しのための懐柔工作が、いろいろなチャンネルを通じて行われていたことがうかがえます。

 3村上水軍
 秀吉の切り崩し工作は、10年4月に来島村上氏が毛利方を離れて秀吉方に味方するという成果として現れます。
さらに、来島村上氏を通じて、村上武吉にも秀吉から働きかけがあり、能島村上氏は秀吉方に傾き掛けます。この時に、小早川隆景は能島・来島村上氏が毛利から離反していることを因島村上氏に次のように知らせています。
就其表之儀、御使者被差越候、以条数被仰越候、惟承知候、両嶋相違之段無申事候、於此上茂以御才覚被相調候事簡要候、於趣者至乃兵所申遣候条、可得御意候、就夫至御家中従彼方、切々可有御同意之曲中置候上、不及是非候、雖然吉充亮康御党悟無二之儀条、於輝元吾等向後忘却有間敷候間、御家中衆へも能々被仰聞無異儀段肝要候、於御愁訴者随分可相調候、委細御使者へ中入候、恐々謹言、
卯月七日                          左衛門佐(小早川)隆景(花押)
意訳変換しておくと
最近の情勢について使者を派遣して知らせておく。両嶋(来島・能島)の離反については、無事に対応を終えて収集がついたので簡単に知らせておく。離反の動きを見せた来島・能島に対しては、小早川隆景と乃美宗勝が引き留め工作を行い、秀吉方につくことの非を訴えて、輝元公への御儀を忘れずに、使えることが大切である旨を家中衆へも伝えた。委細は御使者へ伝えてある。恐々謹言、

村上海賊ミュージアム | 施設について | 今治市 文化振興課
村上武吉
小早川隆景と乃美宗勝の引き留め工作で、村上武吉は毛利方になんとかとどまります。

武吉の動向にあわてた毛利氏は、村上源八郎に検地約定の書状を出しています。しかし、秀吉も村上通昌との私怨を捨てて信長方に味方するよう次のような説得工作をしています。
今度其島之儀申談候所、両島内々御意候哉、相違之段不及是非候、然者私之被申分者不入儀候間、貴所御分別を以、此節御忠儀肝要候、於様体者国分寺へ申渡候、恐々謹言、
卯月十九日                          羽筑秀吉(花押)
村上大和守殿
御宿

能島・来島村上氏への対応の状況は、村上系図証文に詳しく記されています。この中には来島村上氏は、秀吉に人質を出し味方につくことを承諾しています。また秀吉は武吉に、寝返り条件として次のような領地を示しています
「四国は勿論、伊予十四郡を宛行い、さらに塩飽七島の印を授け、上国警国の権益を与える」

 これらは秀吉お得意の「情報戦」の中で出されたものなので、信憑性には問題が残ります。「村上武吉が寝返った」という偽情報(偽文書)を流すことで、敵方の動揺を作り出そうとするのは情報戦ではよく行われることです。しかし、史料的には能島・村上武吉が秀吉に味方する旨が詳細に記されています。どうも一時的にせよ、村上武吉が秀吉と結ぼうとしたのは事実のようです。
 秀吉が村上武吉に味方するよう説得してからわずか5日後の4月24日の秀吉から備前上原氏に宛てた書状には次のように記されています。
「海上事塩飽・能島・来島人質を出し、城を相渡令一篇候」

また次の5月19日の近江溝江氏宛の書状にも同様の内容が記されています。                                            
一、海上之儀能島来島塩飽迄一篇二申付、何も嶋之城を請取人数入置候、然者此方警固船之儀、関戸迄も掛太目恣二相動候、何之道二も両国之儀、急度可任取分候条、於時宣者可御心易候、猶追々可中参候、恐々謹言、
天正十年五月十九日 秀吉(朱印)
溝江大炊亮殿
御返報
塩飽・能島・来島が秀吉の支配下に収まり、城が秀吉によって接収されたことが書かれています。ところが5月19日の段階では、能島村上氏は再び毛利氏に服属しています。この二通の書状は秀吉の巧妙な偽報告のようです。能島村上氏の去就は、周辺の海賊衆にとっては注目の的であったはずです。この書状をあえて公表することで、秀吉の支配が芸予諸島まで及んだことをひろげる意図も見えます。警固船が「関戸迄も掛太目恣二相動候」とあるように、安芸と周防の国境の関戸まで範囲を示していてしています。秀吉は、情報戦を最大限に利用しようとしたことがうかがえます。
 毛利から来島村上氏が離反して秀吉方についたという情報の上に、能島の村上武吉も寝返ったという偽情報は毛利方に大きな動揺を与えたはずです。どちらにしても、このような情勢下では、能島村上氏による塩飽支配も大きな動揺をもたらすことになります。こんな情勢下では、能島村上氏の塩飽への影響力は低下せざる得ません。
 このよう情報戦と同時並行で行われていたのが、二月以来の秀吉の備中攻めです。
3月24日に小早川隆景は、村上武吉に対して次のように塩飽を味方にするように切り崩し工作を指示しています。  
態御飛脚畏人候、如仰今度御乗船、以御馳走海陸働申付太慶候、従是茂以使者申入候喜、乃上警固之儀、一昨晩以来比々下津井相働候、雖然船数等不甲斐/\候之条、不可有珍儀候欺、塩飽島之趣等、従馬場方可被得御意候、陸地羽柴打下之由風聞候条、諸勢相揃可張合覚悟候、於手前者可御心安候、委曲有右二中含候之間、弥被遂御分別、御入魂可為本望候、猶期来音候、恐々謹言、
天正十年三月廿四日      左衛門佐(小早川)隆景(花押)
(村上)武吉
御返報
意訳変換しておくと
飛脚での連絡であるが、今度の出陣について、海陸における成果について多大な成果を挙げたことを喜んでいる。警固の件について、一昨晩から比々(日比)と下津井は相い働いているが、船数が不足し充分な成果を出せていない。ついては塩飽島について、馬場方に従い羽柴秀吉に下ったという風聞が流れている。諸勢の戦意高揚のためにも、塩飽に分別を説いて参陣を促して欲しい。

この後の4月4日には、毛利輝元から伊賀家久に対して同じような指示が出されています。秀吉の備中攻めに塩飽を味方に組み込むことの重要性を充分に認識していたことを示すものです。逆に見ると、この時点では、塩飽が毛利方に着いていなかったこと、秀吉方に付いていたことが分かります。
 武吉が毛利方で戦いに参陣したにもかかわらす、塩飽衆は村上武吉の命に背いて行動を共にしていません。
それを見て小早川隆景は、村上武吉に「塩飽に云うことを聞かせろ」と命じたのでしょう。逆の視点で見ると、この時には塩飽は武吉の支配下から離脱していたことがうかがえます。これ以後の塩飽と能島村上氏の関わりが分かるのは、天正12年(1584)12月10日付の武吉宛の隆景書状です。そこには「塩飽伝可被及聞召候条、不能申候」とあります。ここからは、塩飽が村上武吉の支配下から完全に離脱していることが分かります。
 こうした中で6月に、信長が本能寺で明智光秀に討たれます。
秀吉は急遽、毛利氏との間に和議を結び、中国方面から兵を引きます。秀吉が姿を消した後の備讃瀬戸では、能島村上氏と来島村上氏と戦いが繰り広げられ、年末になりやっと終止符が打たれます。伊予方面での来島村上氏との抗争が激化する中で、能島の村上武吉には塩飽に関わっている余裕はなくなります。こうした村上氏の分裂抗争を横目で見ながら秀吉は海上勢力を西へ西へと伸ばしていきます。そして、能島村上氏の影響力の消えた塩飽を自己の支配下に置きます。来島村上氏の懐柔策がの成果が、村上水軍を分裂に追い込み、相互抗争を引き起こし、結果として村上水軍の塩飽介入の機会を奪ったのです。秀吉は、やはりしたたかです。
5 小西行長1
小西行長

そして、瀬戸内海東部エリアの「若き提督」として登場するのが小西行長です。
行長登場までの動きを振り返って起きます。秀吉が瀬戸内海東部の進出過程を再度押さえておきます。
①明石・岩屋・淡路・鳴門エリアは、石井与兵次衛と梶原弥介に
②播磨室津・小豆島・讃岐引田エリアは小西行長
③下津丼・塩飽・宇多津エリアは、小西行長が塩飽衆を用いて支配
①②③の総括を担当したのが仙石秀久でした。この中で、最終的には小西行長が抜け出して瀬戸内海東部全体の制海権を秀吉から任されるようになります。
どうして二十代の若い行長に、秀吉は任せたのでしょうか?
 それは小西行長がキリシタンだったからではないかと研究者は考えています。彼は堺の有力者を父に持ち、幼くしてキリスト教に入信しています。秀吉は、行長を播磨灘エリアの海の司令官、行長の父を堺の代官に任命しています。前線司令官の子を、堺から父が後方支援するという形になります。秀吉の期待に応え行長は、小豆島と塩飽を領地として持ちます。彼は高山右近を尊敬し、小豆島に「地上の王国」建設を進めます。この結果、行長はイエズス会宣教師から「海の青年提督」と称され、宣教師と深い移パイプを持つようになります。瀬戸内海を行き来した宣教師は、たびたび塩飽と小豆島に立ち寄っています。行長が、宣教師との交友が深かったことは以前にお話ししました。

5 高山右近
小豆島の高山右近
 ここには宣教師の布教活動ともうひとつの裏の活動があったと私は考えています。
それは南蛮商人からの火薬の原料の入手です。宣教師の口利きで、行長は火薬原料を手に入れていたのではないでしょうか。そのため、秀吉は行長を重要視していたという推測です。小豆島の内海湾には火薬の原料を積んだ船が入港し、その加工も小豆島で行い、出来上がった火薬が小豆島周辺に配備された諸軍に提供されていたという仮説を出しておきましょう。

室津・小豆島・引田・塩飽のエリアの制海権を秀吉から付与されたのは、小西行長でした。
天正13年頃に塩飽を訪れたフランシスコ・パショは、塩飽が行長の支配下にあったことを記しています。小豆島と塩飽は一体として行長に領有させ、四国平定の後方基地としての役割を果たします。秀吉のもとで、東瀬戸内海は行長に管理権が委ねられ、宣教師の報告書に行長が「海の司令官」と記されていることは、この時期のことになります。
これに対して、塩飽には海軍力(水軍)としての活発な活動は見られません。
塩飽は室町期以来、東瀬戸内海流通路を確保した輸送船団として活発な商船活動をしていました。塩飽の経済基盤は商船活動にあったと研究者は考えています。その点が芸予諸島の村上氏とは、大きく異っているところです。能島村上氏が塩飽を支配した目的は次の二点と研究者は考えています。
①塩飽衆の操船・航行技術の必要性
②水夫・兵船の徴発
備讃瀬戸から播磨灘にかけての流通路を持つ塩飽衆を支配下におくことは、村上氏の制海権エリアの拡大を意味します。村上氏は、海上警固料の徴収が経済基盤でした。しかし、この時期が来ると、それだけでは活動ができないようになっています。その解決のための塩飽支配だったと研究者は考えています。
 信長が早い段階で塩飽船の活動に対して朱印状を発給したのは、信長の瀬戸内海経済活動圏の掌握を図ったとされます。秀吉によって、後に塩飽が御用船方として支配下に組み込まれていくのも、水軍力よりも、海上輸送力に着目してのことと研究者は考えています。
 秀吉の瀬戸内海における制海権を手中に収めていく過程を見ると、信長亡き後もスムーズに進めています。
これは、秀吉が信長生前から瀬戸内海に関する権限を握っていたからでしょう。今まで見てきたように、東から明石・小豆島・塩飽・芸予諸島の地元勢力との関係を結んできたのは、すべて秀吉でした。そういう目で見れば、石井与次丘衛・梶原弥介・小西行長は、織円政権下の水軍であるというよりも、豊臣政権下初期の水軍ともいえます。彼らが後に秀吉水軍の中核をなし、村上氏を含む巨大水軍に成長していきます。その基盤となったのが大阪湾や明石の海賊衆だったといえるのかもしれません。
    以上をまとめておきます
①石山戦争の一環として、瀬戸内海の制海権を握る必要を痛感した信長は、その任務を秀吉に命じる
②秀吉は、中国攻めと淡路・四国平定を同時進行で進め、その兵員輸送や後方支援のために、瀬戸内海東部に制海権を掌握していく。
③その際に明石海峡や室津・小豆島・塩飽などの地元の海賊衆を傘下にいれ、水軍編成を行う。
④芸予諸島の村上水軍に対しては、懐柔策を用いて来島村上氏を離反させ、内部抗争を引き起こさせた。
⑤その間に、秀吉は備中へ侵入し、塩飽も傘下に置いた。
⑥本能寺の変後、信長亡き後も秀吉はそれまで進めてきた瀬戸内海制圧を進め、小西行長を「海の提督」として重用し、四国・九州平定の海上からの後方支援を行わさせる。
⑦これは、秀吉の構想の中では、朝鮮出兵へ向けての「事前演習」でもあった。
⑧同時に四国に配備された各大名達は、このような秀吉の構想を実現するための「駒」の役割を求められた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。なるものであった。
参考文献