須恵器編年
讃岐で最初に須恵器生産が行われたのは、どこなのか? 須恵器窯が、どのようにして讃岐全体に広がっていったのか。また、須恵器生産のシステムは、どんなものであったのかなどを今回は見ていくことにします。テキストは「佐藤竜馬 7世紀讃岐における須恵器生産の展開 埋文センター研究紀要1997年」と「古代の讃岐 第6章 産業の発展 窯業 美巧社1988年」です。
五世紀前半頃に朝鮮半島南部から伝えられた須恵器生産は、それまで弥生土器や土師器とは全く系譜を異にする土器です。土師器が赤褐色、軟質であるのに対し、須恵器は青灰色・硬質です。これは土師器が野焼きによって酸化炎焼成されるのに対して、須恵器は穴窯と呼ばれる長大な構築窯で高温に還元炎焼成されるためです。この窯は、それまではわが国にはなかったもので、須恵器生産のために初めて構築窯が使われるようになります。


陶邑古窯址群(堺市)
この窯を使って大規模な須恵器生産工業地帯が作られるのが大阪南部に広がる陶邑古窯址群です。ここは堺市の泉北ニュータウンの造成の際に発見された遺跡で、泉北丘陵一帯で焼かれた須恵器が各地に運び出されていたようです。朝鮮半島からの渡来人を、この地に定住させ官営窯工場地帯として整備します。平安時代までの約500年間で1000基近く者数の窯が次々とと築かれていき、日本最大の須恵器生産地に成長して行きます。これらの窯跡群は、『日本書紀』に「茅渟県陶邑(ちぬのあがたすえむら)」にあたるとされ、陶邑窯跡群と名付けられています。地方では、初期の須恵器窯跡が発見されることが少なかったために、陶邑古窯址群が独占的に須恵器を全国に供給したと考えられていたときもありました。しかし、福岡県や宮城県からも五世紀の須恵器窯跡が発見されるようになり、大坂の陶邑古窯址群とは系譜を異にする須恵器もあることが分かってきました。
そんな中で香川県でも、1975年に香川医科大学の建設に伴い権八原(ごんぱちばら)古墳群が調査され、大量の古式須恵器が出てきました。また1981年には、豊中比地大の宮山の果樹園工事で古式須恵器や窯壁が出土し、はじめて5世紀の窯跡が確認されました。
須恵器編年図
香川県での初期の須恵器窯跡の発見そんな中で香川県でも、1975年に香川医科大学の建設に伴い権八原(ごんぱちばら)古墳群が調査され、大量の古式須恵器が出てきました。また1981年には、豊中比地大の宮山の果樹園工事で古式須恵器や窯壁が出土し、はじめて5世紀の窯跡が確認されました。
さらに、1983には高松の三谷三郎池西岸窯跡が発掘調査され、次のようなことが分かりました。
①焼成面は長さ5m 幅2,15m 幅広で傾斜の緩やかな床面②床面の中央には二個の柱穴が縦に並んでおり、これは窯体の大井を築く時の支え柱の柱穴③窯体の下方には灰原も検出されたが、薄くて須恵器片を少量しか出上しなかったことから、窯の操業は短期間であった④甕・壷・高杯・器台や杯などの小破片が出土
三豊市豊中町の宮山一号窯跡
一方、豊中町の宮山一号窯跡には、以上の器種のほか、蓋または鉢や紡錘車なども含まれています。両窯跡の出土品とも、甕の内面の叩き痕を消したり、杯の立上りが高いことなどから古式須恵器とされます。さらに出土品の中には、定型化以前の須恵器を含むことから、両窯跡ともわが国で須恵器生産を開始して間もない頃に操業が始まった窯と研究者は考えています。つまり、渡来系の工人たちによって窯が開かれ、生産が行われていたようです。

須恵器編年表
須恵器の製作においては窯を造るほかにも、高温に耐える淡水性粘土の使用や、 ロクロによる造形など、それまでの土師器生産に比べるとはるかに高度な窯業技術と専門技術者やスタッフが必要でした。製鉄技術と同じように、技術者スタッフを集団で誘致し、定着させないと須恵器生産はできなかたのです。そこで各地の首長は、ヤマト政権の大王から、ある者は、朝鮮半島と直接関係を持つ九州の豪族たちの連携で、工人集団を招き入れたようです。
讃岐の初期の須恵器窯を順番に並べると、次のようになります。
①もっとも古い初期須恵器であるT G 232段階を生産した髙松の三谷三郎池西岸窯跡(4世紀末)②T K 206~208式を焼いた豊中町の宮山1号窯跡(5世紀半ば)③T K10型式相当期の多度津・黒藤窯跡(5世紀前半)
①②の窯跡の生産をめぐる経緯や工人の問題などは分かりません。あえて推測するなら①は秦氏、②は三野郡の丸部氏の基盤になります。②は、その後に展開する三野窯跡や三豊南部の辻窯跡群につながって行く先駆的なものとも考えられます。いずれにせよ、①②の両窯跡で讃岐の須恵器生産が開始されます。それが5世紀半以前であったことを押さえておきます。
豊中の宮山1号窯跡や高松の三谷三郎池西岸窯跡から讃岐の須恵器生産は、5世紀前半には始まっています。これは全国的にも早い方になります。しかし、両者とも単独の窯で大きな窯跡群ではありません。しかも三谷三郎池西岸窯跡では、床面に残った灰原は薄く、数回しか焼成が行われなかったことからみると、この時期の須恵器生産はきわめて小規模で、不安定な操業体制だったことがうかがえます。6世紀前半から中頃の須恵器窯跡は、現在のところ多度津の黒藤窯跡しかありません。つまり、先行的な3つの窯跡以外で、後に続く窯はすぐには現れなかったようです。
須恵器TK217が出土した窯跡分布
讃岐の須恵器生産の規模が拡大するのは、6世紀末から7世紀前半頃にかけてです。この時期に操業を開始した窯跡を西からみておきましょう。
①山本の辻窯跡群②高瀬の瓦谷窯跡・末窯跡群③三野の三野窯跡群④丸亀の青野山窯跡群⑤綾南の陶窯跡群⑥高松の公渕窯跡群⑦三木の小谷窯跡⑧志度の末窯跡群
ここからは窯跡が、ほぼ讃岐全域に拡大していることが分かります。
このような拡大の背景には、6世紀末から7世紀前半に急激な須恵器需要の拡大があったことが考えられます。その背景を坂出下川津遺跡や高漱の大門遺跡から見ておきましょう。
これらの遺跡発掘からは、作りつけのカマドを持つ竪穴住居が急速に普及したことが分かります。


かまどを持つ縦穴式住居
このような住居は、この時期に台頭した新しい農民層の住居とされます。彼らのなかの有力者は、横穴式石室を持つ群集墳を築造し、死後そこに葬られるようになります。つまり6世紀末頃という時代は、新しく台頭してきた農民層が日用土器として須恵器を使うようになり、一方では爆発的に増えた横穴式石室への副葬土器とも須恵器が使われた時代であったようです。これが須恵器生産の拡大をもたらしたと研究者は考えています。讃岐の各郡分布
しかし、この時期の須恵器生産や流通は、工人たちが管理していたのではないようです。それは、地域首長の墓とされる巨石横穴式石室と窯跡群が、セットで分布していることからうかがえます。西からそのセットを押さえておきます。
①辻窯跡群と観音寺の鑵子塚古墳(苅田郡)②青野山窯跡群と青野山7号墳(鵜足郡)③陶窯跡郡と坂出新宮古墳・綾織塚古墳・酬酬古墳群(阿野郡)④公淵窯跡群と高松の山下古墳・久本古墳・小山古墳(山田郡)⑤末窯跡群と寒川の中尾古墳(寒川郡)
ここからは須恵器生産地の成立には、地域首長が関わっていると研究者は考えています。

例えば②青ノ山エリアを見てみましょう。ここには6世紀後半から7世紀初頭の古墳群があります。1979年に、巨石墳の青ノ山7号墳(消失)を緊急調査した際に、近くの青ノ山南麓の墓地公園入り口付近の事現場で窯跡が発見されました。焼成室が残っている貴重な須恵器窯と分かり、保存整備されました。全長9~10mの無段地下式登り窯(窖窯)で、7世紀以降の窯跡でした。この窯跡は、青ノ山7号墳の被葬者との関連が指摘されています。が、この窯跡で生産された須恵器が、7号墳から出土していないので、この他にも周辺に窯跡があった可能性があります。青野山周辺は「土器」という地名が残るので、土器作りが盛んな地域だったことが推測できます。

例えば②青ノ山エリアを見てみましょう。ここには6世紀後半から7世紀初頭の古墳群があります。1979年に、巨石墳の青ノ山7号墳(消失)を緊急調査した際に、近くの青ノ山南麓の墓地公園入り口付近の事現場で窯跡が発見されました。焼成室が残っている貴重な須恵器窯と分かり、保存整備されました。全長9~10mの無段地下式登り窯(窖窯)で、7世紀以降の窯跡でした。この窯跡は、青ノ山7号墳の被葬者との関連が指摘されています。が、この窯跡で生産された須恵器が、7号墳から出土していないので、この他にも周辺に窯跡があった可能性があります。青野山周辺は「土器」という地名が残るので、土器作りが盛んな地域だったことが推測できます。
青野山1号窯跡
ここでひとつの物語を考えて見ます。青野山から宇多津の角山にかけての入江周辺に拠点とした首長は、青野山周辺に良質の粘土が出てくることを知ります。そして粘土採掘地を確保した上で技術者集団を「誘致」して窯を開いたという話になります。これは、後の氏寺建立の際の瓦窯開設の際にも見られるやり方です。どちらにしても、渡来技術者集団が自由に、原料産出地を探して窯を開き、自由に商品を流通させたとは研究者は考えていないようです。窯開設から、生産・製品流通まで、地域首長の支配下にあったとします。
当時は貨幣経済社会ではありませんでした。そのため須恵器を商品として生産し販売して生計をたてることは出来なかったようです。そのため須恵器生産工人たちは、自給自足で農業を営みながら、支配者に隷属してその保護のもとに須恵器生産を行ない、大部分の製品を貢納していたのではないかと研究者は考えています。
寒川の中尾古墳からは、異常に大きな高杯が出てきました。これは地域首長の死に際して、工人たちに特別に作らせたものでしょう。ここに地域首長と須恵器工人の関係が象徴的に現れていると研究者は指摘します。
こうした状況が変化するのは、T K43型式~T K 209型式が姿を見せ始める6世紀後半頃になります。この時期になると、次のようないくつかの生産地が並立するようになります。
7世紀の讃岐の窯跡分布図
④丸亀平野北東部の青ノ山1・2号窯跡⑤丸亀平野北西部の黒藤窯跡⑥三豊平野北部の瓦谷遺跡⑦三豊平野南部の奥蓮花1・2号窯跡、高額窯跡、小松尾寺2号窯跡
⑦の三豊平野南部の辻窯跡群の急速な増加傾向が目につきます。
以上をまとめた起きます。①朝鮮半島から渡来集団によってもたらされた須恵器生産は、いち早く讃岐にももたらされた。
②それは三豊豊中と、山田郡三郎池周辺であった。そこには、技術者集団をいち早く受けいれることの出来た有職者がいたことがうかがえる。③豊中は丸部氏、山田郡は秦氏が考えられる。
④その後、しばらくは新たに窯が開かれることはなかったが、6世紀末に窯は讃岐全体に拡大分布するようになり、窯の数も増える。
⑤その背景には、有力農民層の台頭があり、彼らが須恵器を日用品として使用し始めたことや、群集墳の副葬品として大量消費したことが考えられる。
⑥こうして、巨大横穴式石室があるエリアには、須恵器窯がセットで存在するという景色が見えるようになる。
⑦これは律令時代になると「一郡一窯」と云われる状況を作り出す。
⑧その中でも、三豊の2つの生産活動は、他のエリアを凌駕するものがあった。
次回は、7世紀初頭段階において、三豊の窯後群がどうして他地域を圧倒していたのかを、見ていきたいと思います。
参考文献
「佐藤竜馬 7世紀讃岐における須恵器生産の展開 埋文センター研究紀要1997年」
「古代の讃岐 第6章 産業の発展 窯業 美巧社1988年」
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