丸亀平野や髙松平野の高速道路やバイパスの事前発掘調査では、「溝」が数多く出ていることを前回は見ました。「溝」からは、条里制が7世紀末~8世紀初頭に工事が行われたことが分かってきました。今回は、条里制に先立つ弥生時代の「大溝」を見てみることにします。テキストは、「信里 芳紀 大溝の検討 ―弥生時代の灌漑水路の位置付け―埋蔵文化財調査センターⅣ 2008年」です。

弥生時代 林・坊遺跡 灌漑水路
弥生時代前期初頭の灌漑水路網   高松市の林・坊城遺跡の場合

高松市の林・坊城遺跡では、弥生時代前期初頭(板付Ⅰ式併行期)の灌漑水路網が発掘されています。
南西部を流れる幹線的水路の10・11号溝に堰が作られ、小規模な分水路の25号溝が北西の水田エリアに伸びていきます。10・11号溝は、幅約1,5m前後、深さ約0,3~0,5mで、分水点には自然礫を積んで簡易な堰が作られています。取水源は、遺跡南方の旧河道と見られますがよく分かりません。これが、この遺跡でもっとも古い灌漑水路網になるようです。10・11号溝は、水田稲作の開始期のもので、小規模で改修痕跡もなく、短期間で破棄されています。何かの理由で、耕地が放棄され別の地点に移動しようです。ここからは、初期の稲作は水田も不安定で、「定住」というよりも移動を繰り返していたことがうかがえます。

弥生時代 多肥遺跡 灌漑水路
弥生時代中期の灌漑水路網(図2)   高松市の多肥遺跡群

多肥遺跡群(高松市)では、弥生時代中期中葉までに掘られた基幹的な灌漑用水路が出てきています。
そのひとつが日暮松林遺跡(済世会地区)SDl等です。用水路は幅約4,2m・深さ約1mで、上流側の多肥宮尻遺跡SR02では、埋没旧河道の凹地に開削されています。微高地に導水され、日暮松林遺跡では微高地上面を通過して行く大掛かりなものです。その途中に、支線と見られる複数の小溝が分岐しています。加えて、南西方向から延びる別の灌漑水路(日暮松林フィットネスクラブ建設地区SD01ほか)と合流し、広範囲な灌漑水路網を形成します。
 また、開かれた後も浚渫などの維持管理による改修痕跡が確認できるようです。時期的には、弥生時代中期中葉までに開削された後、古墳時代後期まで機能していたと研究者は考えています。
 水田があった所は、溝の流下方向から見て微髙地上面だったと推測できます。調査で確認された総延長は約500mですが、取水源は更にその南側にあり、実際の灌漑水路の延長距離は約2kmはあったと研究者は考えています。以上から次のようなことが分かります。
①2㎞上流から灌漑用水による導水で微髙地も水田化が行われていたこと、
②定期的な管理が行われ長期間によって使用されていること
③この時代には稲作農耕が安定化したこと
これは弥生時代早期の用水路が短期間で廃棄されていたのとは対照的です。
弥生時代 川津遺跡灌漑用水路
川津遺跡群の灌漑水路網(弥生時代後期)


弥生時代後期の灌漑水路網(上図) の例としては、坂出市の川津遺跡が挙げられます
 川津二代取遺跡、川津下樋遺跡からは復数の水路網が見つかっています。SD001は①旧河道(SR 101)が取水地で、微髙地にある川津中塚遺跡や下川津遺跡の中を貫通していきます。その間に、SR 1 03、SD57、SD30などの溝と合流し、複数の小溝で分水しながら下川津遺跡の第4微高地西側へ導水されています。最終的には。第3低地帯と呼ばれる凹地上にあった水田へつながっていたようで、総延長は約500mになります。
 途中に支線的な水路と見られる小溝が分岐しているので、下川津遺跡の第3低地帯の水田だけに用水を供給していたのではなく、微高地上面やその縁辺部にあった水田にも灌漑していたようです。遺物の出上状況からは、この用水路が弥生時代後期後半から古墳時代後期に埋没するまでの長期間に渡って機能していたことが分かります。
以上から次のようなことが分かります。
①取水口から2㎞近く離れた水田まで、微髙地を越えて導水されていたこと、
②その間にも小溝を分岐して、用水沿いの水田に供給したこと
③弥生時代中期には、灌漑用水網が丸亀・髙松平野には姿を見せていたこと。
③前回見たように、このような灌漑用水網の技術は技術革新がないまま条里制施行(7世紀末)まで使用されていること
⑤さらに大きな溝(用水路)が掘られる技術革新が行われたのは平安末期であること

ここで問題になるのが取水源です。
多肥遺跡群や川津遺跡群は、灌漑水路は沖積低地上を流れる旧河道を取水源としていたようです。取水限となる旧河道は、そこに作られる井堰の構造等などから川幅数mから20m、深さ1~2m程度の中規模の川が、弥生時代の一般的な取水源とされてきました。しかし、近年の発掘調査からは、より規模の大きい河川からの取水が行われていた可能性がでてきたようです。それを見ておきましょう。

弥生時代 末則遺跡
末則遺跡(綾川町)
末則遺跡は、農業試験場の移転工事にともない発掘調査が行われました。鞍掛山から伸びて来た尾根の上には、末則古墳群が並んでいます。この付近には、快天塚古墳のある羽床から綾川上流部に沿って、丘陵部には特色のある古墳群がいくつか点在しています。この丘にある末則古墳の被葬主も、この下に広がる低地の開発主であったのだろうと私は考えています。
弥生時代 末則遺跡概念図
現在の末則の用水路網
 末則古墳群の丘は「神水鼻」と呼ばれる丘陵が北から南へ張り出しています。
そのため南にある丘陵との間が狭くなっていて、古代から綾川の流路変動が少ない「不動点」だったようです。これは河川の水を下流に取り入れる堰や出水を築くには絶好の位置になります。綾川の「神水」地区の対岸(綾川町羽床上字田中浦)に「羽床上大井手」(大井手)と呼ばれる堰があります。これが下流の羽床上、羽床下、小野の3地区の水源となっています。宝永年間(1704~1710年)に土器川の水を引くようになるまで、東大束川流域は、渡池(享保5(1720)年廃池、干拓)を水源としていました。大井手は、綾川から取水するための施設です。
その支流である岩端川(旧綾川)にも出水が2つあります。
その1つが「水神さん」と呼ばれている水神と刻まれた石碑が立つ羽床下出水です。
この出水は、直線に掘削した出水で、未則用水の取水点になります。末則用水は、岩端川から直接段丘面上の条里型地割へ導水していることから条里成立期の開発だと研究者は考えています。
弥生時代 末則遺跡概念図

上図は、弥生時代の溝SD04と現在の末則用水や北村用水との関係を示したものです。
流路の方向や位置関係から溝SD04は、現在の末則用水の前身に当たる用水路と研究者は考えています。つまり、段丘Ⅰ面の最も標高の高い丘陵裾部に沿って溝を掘って、西側へ潅水する基幹的潅概用水路だったというのです。そうするとSD04は、綾川からの取水用水であったことになり、弥生時代後期の段階で、河川潅概が行われていたことになります。そこで問題になるのが取水源です。
   現在の取水源となっている羽床下出水は、近世に人為的に掘られたものです。考えられるのは綾川からの取水になります。しかし、深さ1mを越えるような河川からの取水は中世になってからというのが一般的な見解です。弥生時代にまで遡る時期とは考えにくいようです。
これに対して、発掘担当者は次のような説を出しています
弥生時代 綾川の簡易堰
写真10は現在、綾川に設けられている井堰です。
これを見ると、河原にころがる川石を50cmほど積み上げて、その間に野草を詰めた簡単なものです。大雨が降って大水が流れると、ひとたまりもなく流されるでしょう。しかし、修復は簡単にできます。弥生時代後期の堰も、毎年春の潅漑期なるとこのようなものを造っていたのではないか、大雨で流されれば積み直していたのではないかと研究者は推測します。こうした簡単な堰で、中流河川からの導水が弥生時代後半にはおこなわれていたこと、それが古墳時代や律令時代にも引き継がれていたという説です。この丘に眠る古墳の被葬者も、堰を積み直し、用水を維持管理していたリーダーだったのかもしれません。同時に馬の生産も行っていたことが考えられます。

中規模河川からの取水に加えて、補助的な水源を活用する事例も見られます。

弥生時代 空港跡地1
空港跡地遺跡群の灌漑用水網 その1

扇状地に立地する空港跡地遺跡群では、弥生時代中期から灌漑水路網が現れます。その中で基幹的灌漑水路と見られるのは、次のふたつです。
①基幹的灌漑水路A 上林遺跡から空港跡地遺跡I地区へ流れ下すSRi01・SRi02
②基幹的灌漑水路B 空港跡地遺跡D地区からE地区へ流下するSDd00・SDe115、SDe138。
微高地にある住居群が散在するH地区からG地区、A地区からG地区へ抜けるSDh016、SDg86、SDg42、SDg17などは、基幹的滞漑水路Aから分岐する支線的な灌漑水路群と考えられます。更に支線的な灌漑水路のSDh016、SDg03には、井戸状に掘開された大型土坑に、通水のための小溝を付設した「出水」と呼ばれる補助的な灌漑施設が複数設けられています。 SDh016、SDg03が流下する地点は微高地上で、水が流れにくい所なので、灌漑水路に補助的な水源を複数組み合わせていると研究者は考えています。

  ここから研究者の見解が私にとっては興味深いものでした。
 これまで灌漑システムの発展については、遺跡立地の変化や遺跡数の増加を材料として、農業生産の拡大や人口増加が起こるという説明がされてきました。これが「治水灌漑を制するものが、天下を制する」説になっていきます。
弥生時代 遺跡数

例えば上のグラフからは、弥生時代後期V頃に遺跡総数が激増していることが見えます。従来は、灌漑整備による生産力増大が社会的発展をもたらし、次の古墳の出現を生み出す原動力となるという説明がされていました。社会経済史を基礎に、社会発展を説く説明です。
 しかし、実線で示された住居数は見ると、あまり増えていません。つまり人口は、それほどの増加はなかったことになります。ここから遺跡総数の増加は、人口の増加をもたらしたものではなく、当時の灌漑水路網の再整備や拡充を反映しているだけであると研究者は捉えます。国家形成の「原材料」は「治水灌漑」だけでは捉えられないというのです。
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灌漑農業と国家権力の発生について、最近の研究史を見ておきましょう。
 ヴィットフォーグルは、灌漑作業の協業化によって、「労働力の組織化」を行うリーダが現れ、社会の階層化が起こり、これが国家形成要因のひとつとなるとしました。ここからは灌漑農業の発展は、統一的な政治権力の形成など社会の階層化につながるとされ、古代の国家形成を捉えるひとつの視点を示しました。分かりやすい説明で取っつきやすいのですが「単線的なモデル」で、融通性がなく地域差の多い日本の古代を説明するには無理があるとされ、現在では否定的な意見が多いようです。
 これに対して近藤義郎氏は、灌漑農業の発展に伴う余剰生産物の発生を通じて、単位集団と生産集団との階級間の衝突が調停者としての首長の出現を求めます。そこから社会の階層化を説明します。
 都出比呂志氏は、耕地開発や水利灌漑に伴う協業の基礎的単位である世帯共同体と、水系単位でそれが結合した農業共同体を想定します。その領域と前期古墳首長墓の分布が重複することから、首長権力の発生の基盤を農業共同体に求めました。
 広瀬和雄氏は、耕地開発や水利権の調整などを素材として、灌漑水田そのものが首長を生み出す構造を持っていたとします。そして、水田稲作を開始した弥生時代の初期の段階から社会の階層化が始まったと考えます。また、首長の統率する領域を、都出氏の農業共同体よりも小規模エリアとします。こうした首長は、自給できない貴重物資の入手や耕地開発を通じて、他の首長とネットワークを形成していくとします。この首長間のネットワークは、弥生後期から古墳前期により「高度化」していきますが、その関係は近畿を中心にして最初から階層的であったことと指摘します。
 大久保徹也氏は、灌漑水路と微地形との関係から、灌漑による協業によって結ばれる共同体のエリアを広瀬と同じく小規模なものとします。そして弥生時代に見られる様々な物資流通に注目し、共同体間の結び付きについて灌漑作業以外に必需物資の生産と流通を重視します。
 押さえておきたいのは、現在の研究者たちは「治水灌漑=国家権力発生」と単純に考えていないことです。国家権力の形成には、それ以外にも、「首長間のネットワーク + 必需物資の流通確保 + α」などの要素も加味する必要がある考えていることです。それでは、弥生時代の灌漑水路網にもう一度帰って、その整備の意味を研究者はどう考えているのかを見ておきましょう。

本当に灌漑水路網は、弥生時代後期になって急激に整備されたのでしょうか。
 弥生時代後期には、基幹的灌漑水路を中心に多くの灌漑水路が開削されたことが発掘調査からは分かっています。しかし、弥生時代後期の基幹的灌漑水路の多くは、新たな地点に開削されるのでなく、埋没などの老朽化が進んだ灌漑水路に近接して見られることが多いようです。つまり、灌漑網の基本的なプランは、弥生時代前期に完成され、弥生時代後期になって基幹的灌漑水路を再整備することや、支線となる小規模な水路が多く作ることで、灌漑域の拡大が行われたと研究者は考えています。
.基幹的灌漑水路と他の生産部門との関係

弥生時代 灌漑用水網と流通関係図

基礎的灌漑水路の多くは、初期遠賀川式上器出現後の弥生時代前期後半期から開削され始めます。
Koji on Twitter:  "石斧をつくる。凝灰岩製一部磨製石斧、伐木用(上)。凝灰岩製打製石斧、戦闘用(中)。黒曜石製一部磨製石斧、試験用(下)。  https://t.co/PdYzYxlitE https://t.co/xVjwgjVA3B https://t.co/3B821Pff5I" /  Twitter

この時期は、鋤・鍬などの木製農具が増加するとともに、片岩製の両刃石斧・片刃石斧・石庖、サヌカイト製打製石包丁の流通が始まります。木製農具は、灌漑水路の開削や水田稲作に不可欠な道具で、両刃石斧・片刃石斧は、木製農具の加工に使用されたようです。また、伐採用の両刃石斧は、水田を開くための伐採など耕地開発にはなくてはなりません。
石斧プロジェクト:沖縄生物俱楽部/旧棟

 多肥松林遺跡群を初めとして基幹的灌漑水路が開削される弥生時代中期中葉には、丘陵やそれに隣接する遺跡群から磨製石斧を多く保有する集落が出てきます。このような集落では、弥生時代前期後半期の環濠集落を中心に、立地を活かして木製品生産に傾斜した生業が行われたと研究者は考えています。
 弥生時代後期は、基幹的濯漑水路や支線的な灌漑水路が多く掘られて、灌漑水路網の再整備と灌漑エリアの拡大が行われた時期です。
この時期は、土器・鉄器・製塩などの物資流通に変化があったと研究者は考えています。
 例えば土器生産では、灌漑水路網で結ばれる2~3㎞程度のエリアで流通する香東川下流域産と呼ばれる特徴的な土器器群が現れます。この香東川下流域産土器は、高松平野の北東部の集落で専門的に生産されたものです。一方、近接する空港跡地遺跡群では、「白色系土器群」と呼ばれる土器群が周辺の集落で流通しています。ここからは、それぞれの土器を生産する拠点を中心に、生産・流通活動が活発化していることうかがえます。
川津遺跡群(坂出市)などの特定の遺跡群で、鍛冶遺構が出てきます。これは川津遺跡群を中心とした大束川流域単位での鉄の生産・流通が開始されたことを示します。製塩では、高松平野の東部丘陵の遺跡群を中心に、生産体制が整備されます。
 一方で木器生産では、後期初頭を境にして木製品が急激に減少します。これは、鉄に取って代わられたのではなく、周辺の丘陵や山間部で集中的な生産が行われ、地域分業が始まったことを示すと研究者は考えています。
 このように弥生時代後期になると、複数の生産部門で特定の集落群を中心に分掌関係が成立したことがうかがえます。それに合わせる形で、灌漑水路網の整備・拡張が行われています。両者は、無関係ではないようです。灌漑水路網の整備・拡充と、農業生産を支える必需物資はリンクして拡大再生産されます。
以上をまとめておくと
①弥生時代後期の大溝を中心にした灌漑システムは、古墳時代後期まで維持される。
②その間に古墳築造が開始される。
③それは単に灌漑システムの発展だけでなく、さまざまな必需物資の生産と流通を分掌化(分業化?)が行われた上での古墳の出現だった

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「信里 芳紀 大溝の検討 ―弥生時代の灌漑水路の位置付け―埋蔵文化財調査センターⅣ 2008年」
 「西末則遺跡  農業試験場移転に伴う埋蔵文化財調査報告 2002年」