はじめに

知人が島を舞台にくりなす人間模様を縦軸に、恋模様を横軸に小説を紡ぎました。
「瀬戸の島から」という名のついたブログから発信するのに、「ふさわしい」と思えます。
短編集なので随時、掲載していこうと思います。
お読みいただければ、「ますます小豆島が好きになっていただけるのでは」という期待もあります。
最後に、お断りをしておきます。m(_ _)m
決して私の作品ではありません。

それでは連載第2回をお届けします。

小豆島恋叙情 第2話 天涯の寺 鮠沢 満 作

              
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頭上から途切れ途切れに読経の声が降り注いでくる。
今にも崩れ落ちてきそうな岩山が、近づく者の足をすくませるように屹立している。
その岩場の中ほどをくり抜き、寺が建立されていた。
見上げればそこまで目と鼻の先ほどだが、鎖に寄りかかりながらごつごつした足場を難儀しながら歩いてきた真理子にとっては、まだまだ数里も先のように思えた。

 真理子は途中で一息入れるため、勾配のややなだらかな場所を選んで立ち止まった。
大きく肩で息をすると、バッグから刺繍を施した薄ピンク色のハンカチを取り出した。
五月の陽光は柔らかい中にも刺すような痛みを含んでおり、真理子の顔と首筋を焼いた。
真理子の白い額に浮き出た汗はほんのり新緑を含み、宝石のような輝きを放っていた。
取り出したハンカチで、その緑を掬い取るようにして軽く汗を拭うと、
自分が歩いてきた険しい山道が本当にまだそこにあるのか確かめるように背後を振り返った。

 真理子は背筋を伸しまっすぐ前を見ていたが、視線はどこか定まらず中空を泳いでいた。
どこかに置き忘れてきたかつての記憶を拾い集めでもするかのようなその眼差しは柔らかく、
真理子の顔の表情までゆるめた。
樹間を縫って渡ってきたそよ風が、サワサワ葉擦れの音を掻き上げ、
その音にはじめて自分の存在に気付いたように、はっと我に返った。真理子の顔に安堵の表情が広がった。
視線をやや落とし樹間のさらに奥を覗き込むと、そこには光りにまぶされた瀬戸の海が、
ちらちら陽炎のようなゆらめきとともに見え隠れしていた。

 命の輝きにも似たその光の群れは、他でもない真理子の心の炎そのものだった。
ちらちらゆらめく炎ではあったが、実際には激しく燃え盛る前の炎であって、情念の炎と呼んでもよかった。
真理子がそのほとばしる情熱に押され、この急な坂道を何度も転げ落ちそうになりながらも登ってきたのは、一つの約束があったからである。

 健夫は言った。
「五年後、もしまだ君が心変わりしていなければ、この寺の祠で会おう。
今日と同じ日の同じ時間に。
俺の気持ちは変わらない。
たとえこの身が刃に刻まれ肉片になっても、俺はここで君を待つ。
君と一緒になれるのであれば、化石になってこの岩盤に封じ込まれても悔いはない」
「わたし、貫き通す自信があるわ。家のために人身御供なんかになりたくはないわ」
「これは俺たち二人の愛の試練だ」
 健夫はそう言うと、真理子の傍らをすり抜けるように去っていった。

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 真理子は迫り来る絶壁の険しさが、行く手を阻む悪魔の手先のように思えた。
いつしか陽光が柔らかさを失い、真夏の太陽のような刺々しさで真理子を焼き、揺さぶった。
目眩を覚え、思わず手摺りに寄りかかったほどだ。
真理子は背後から追っ手が迫ってくるような恐怖感と圧迫感を覚えながら先を急いだ。
垂直に切り立った岩に切り取られた空間に、一羽のトンビが飛翔を許されていた。
まるでこの山の守衛を任されていて、人間の愛の駆け引きをあざ笑うかのようなその飛行は、
幸と不幸がよじり合って生まれる空気の摩擦と震動を浮力にしているようであった。
高見から一人ひとりの人間の心の中を覗き込んでは、その穢れ具合をいちいち秤にかけている。
そんな印象さえ与えた。

やっと本堂の入口までやってきた。
錆びた欄干にもたれ掛かるようにして、くり抜かれた本堂を上目遣いに恐る恐る見上げた。
一瞬人影が動いたような気がした。
しかし、それは祠を内包する巨大な岩の壁から放出される妖気のようなもので、実際には人影ではなかったのかもしれない。
 読経がまたしてもうねりのようになって真理子に覆いかぶさってきた。
読経の重々しい旋律の重層の下で、真理子の胸は押しつぶされるような苦しさを覚えた。
果たして健夫は約束どおり自分を待っているのだろうか。
あれは単なる口先だけの慰めだったのだろうか。
もしそうだとしたら、この五年間の歳月はどうなるというのだろう。
そのことを考えるだけで憶病になった。

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 真理子は本堂に通じるトンネルの入口の前に立った。
そのトンネルは人の手によって穿たれたもので、岩肌が竜の内臓のようにごつごつと粗々しかった。
真理子ははやる気持ちと健夫がいない恐怖とを同時に身に宿していた。
ひたひたと打ち寄せる恐怖を脇に押しやり、息を整えて一歩踏み込もうとしたが、
どうしたことか真理子は恐懼し、あとじさってしまった。
理由は分からない。身体が金縛りにあったように動かないのだ。

 またしても人影が動いた。
真理子に襲いかかる新たな眩暈の群波。頭の内側に薄皮が張り付き、意識が白濁していく。
白濁し、沈殿した思考の堆積を掻き分け、その先にある一筋の光に手を伸ばしたとき、男の呼び声が聞こえた。

「真理子」
 健夫は崩れ落ちそうになる真理子を、両手で抱きすくめるように受けとめていた。
空を舞うトンビが、キーッと鋭い敗北の鳴き声を上げ、急上昇していった。
その鳴き声に重なるように、読経の旋律の襞が真理子と健夫を包み込んだ。

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 小豆島霊場第七十二番奥の院笠ヶ滝。
笠ヶ滝を名勝たらしめているのは、そこからの眺望の良さというより、本堂に至るまでの難所にある。
男女、年齢の別を問わず、笠ヶ滝に参拝しようとする者は、ごつごつ険しい鎖場を避けて通ることはできない。
難儀して登った者だけが本堂にたどり着く。まさに修行の一端を垣間見ることができる。
集魂岩をくり抜き、そこに本堂を構え不動明王を安置する。