はじめに

知人が島を舞台にくりなす人間模様を縦軸に、恋模様を横軸に小説を紡ぎました。
「瀬戸の島から」という名のついたブログから発信するのに、「ふさわしい」と思えます。
短編集なので随時、掲載していこうと思います。
お読みいただければ、「ますます小豆島が好きになっていただけるのでは」という期待もあります。
最後に、お断りをしておきます。m(_ _)m
決して私の作品ではありません。
だから、コメントをいただいても「返信」はできません。
作者に伝えることはできます。あしからず
いよいよ第5話になりました。

小豆島恋叙情 第5話  夏至観音

鮠沢 満 作   
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浩一郎は真夏だというのに、妻の手を固く握りしめていた。
手の平が汗でじっとり濡れているのが分かる。
それでも浩一郎は妻の手を放そうとはしなかった。
 夏の午後三時といえば、歯に汗かくほどの暑さだ。
特にあれ以来体調を崩している佐和子にとって、
うだるような暑さは身を削るような責め苦に違いなかった。
歩行がややもすれば途絶えそうになる佐和子の手をやや強引に引いて、
ようやく洞雲山の大師堂近くまでやってきた。

 小豆島霊場第一番札所、洞雲山。
幽邃境の峻厳な尾根を千年杉が覆う雄大な岩山の裾に、
耽美な佇まいを残した小豆島霊場屈指の寺である。
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 参道脇にも杉の巨木が数本、聳えるように立っていた。
樹齢は定かではなかったが、数千年の時の流れを体内に宿していることは間違いない。
等間隔に並んだ杉木立はことのほか背丈が高く、
そして幹があまりにも太かったために、とても尋常な代物とは思えなかった。
事実、浩一郎も佐和子も畏怖の念さえ感じ始めていた。
特にその巨大な幹は非現実的なほど太く、
そこから何かオーラのようなものさえ発せられていると感じた。

 浩一郎は佐和子の手を杉の肌へと導いた。
 佐和子は浩一郎の自分の気持ちを無視したそのやり方に腹を立て、最初手を引っ込めようとした。
しかし、一瞬ではあるが浩一郎の顔が苦渋に歪んだのを見て、
あえて抵抗せずそのまま浩一郎の思いどおりにさせることにした。
 杉の幹に手を置いてしばらくしたとき、佐和子があっと小さく声をもらした。
「どうかした」
 浩一郎は感情を殺して言った。
 それに対し佐和子は、
「何かこの中に……」
 と言ったきり口をつぐんでしまった。
 杉の幹から手を離すどころか、さっきより強く手の平を幹に押し付けているのである。
まるで幹の奥に存在する何かを感覚的につかもうとしているようにさえ見える。
目をやや細め、全神経を指先に集中させた佐和子の顔は、
さきほどまで見せていた険しい顔ではなかった。
むしろ角が取れ、ふんわりとした優しさが滲み出ていた。
浩一郎は佐和子のそんな半ばうっとりとした穏やかな表情を、久しく見たことがなかった。
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 半年前、佐和子を思わぬ出来事が襲った。
 妊娠三ヶ月だった。もともと身体は丈夫だったが、
初めての妊娠ということで、期待も大きかった反面、不安も大きかったに違いない。
まだ下腹部に妊娠の兆候すら出ていないのに、
ベビー服とかおもちゃの類をあれこれ考えていたかと思うと、
翌日には子供を育てる自信がないと、まるで思春期の中学生みたいに恐れおののいた。
 ちょうどその日は浩一郎が半日出勤で、昼から休みが取れるということで、
佐和子を少しでもリラックスさせるつもりで、一方的ではあったがレストランでの食事に誘い出した。
佐和子は少し身体が重く、正直言って行きたくはなかったが、
浩一郎の優しさを思うと断ることができなかった。
 浩一郎は会社からそのまま約束の場所に向かうことになった。
 浩一郎がレストランに着いたとき、佐和子の姿はまだなかった。
浩一郎は予約の席に腰を降ろし、佐和子の到着を待つことにした。
 十分が過ぎた。しかし佐和子は現れなかった。不安が浩一郎の脳裏をよぎった。
それからさらに五分。
まだ佐和子は来ない。
 浩一郎は携帯を取り出すと、佐和子を呼び出した。
しかし呼び出し音だけが空しく浩一郎の鼓膜を震わせた。

 それからしばらくして浩一郎の携帯に電話があった。
「宇野さんですか。こちら中央病院ですが、奥様の佐和子さんが……」
 後のことは浩一郎もよく覚えていない。
 病室に入ると佐和子がベッドにぐったりとなって横たわっていた。
顔には落胆と疲労の色がありありと浮かんでいた。
浩一郎がそばに寄ると、佐和子は思い余ったのか大粒の涙を流した。
浩一郎は佐和子の気持ちが痛いほど分かっていた。
ポケットからハンカチを取り出すと、そっと涙を拭いてやった。
ハンカチに吸い取られた涙がとても重く感じられた。

 浩一郎は、
「心配しないでいいから、ゆっくりお休み」
 と一言だけ言った。しかし佐和子はその言葉に傷付き、顔をそむけると目を固く閉じた。
その固く閉じられた瞼は、完全に浩一郎に対する敵意を表していた。

 約束の日、佐和子は浩一郎との約束の時間に遅れまいと急いでいた。
すでに五分遅れていた。
佐和子は本通りから脇道に入り近道をしようとした。
とそのとき路地から自転車に乗った高校生が飛び出してきた。
余りに突然のことで、佐和子は身をかわすことができなかった。
佐和子はまともに自転車と衝突し、腹部をいやというほど痛打した。

 佐和子はまだ幹に手をやったままでいる。
「温かい。生きているのね」
 佐和子がはじめて浩一郎に話しかけてきた。
「そう生きているんだよ」
 浩一郎は慰めるような口調で返した。
「あの子が」
 と佐和子は付け足した。
「そう、この中に。この中だけじゃない」
「他にも?」
「これからそれを君に見せてあげる。今日は夏至」
 浩一郎は佐和子の背を優しく押した。
そして大師堂に続く階段をゆっくり登っていった。
 階段を登りきると、蝉時雨に包まれた。
浩一郎はすぐそばの木を見た。
何十匹というクマゼミが背中を震わせて鳴いていた。
短い生を懸命に生きている。彼らは自分たちに命があることさえ知らないのかもしれない。
それでも与えられた命を無意識のうちに意識し、その命を削って生きているのだ。

 浩一郎は思った。
 僕たちは一つの命を失った。
でもその生まれてこなかった命の分まで、生きている者が懸命に生きなければならない。
朝に生まれ夕べに死す蜻蛉とて、人間の一生分ほどのエネルギーを燃やすに違いない。
違うのは生きる時間の長短だけではないのか。
今を生きる。
それも身を削り、命を削って。
佐和子にもそのことが分かってほしかった。
死児の齢を数えても仕方ない。
前を見るしか生きようがないのだから。
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 やや奥に進むと大きな岩の洞窟があり、その中に菩薩があった。
慈悲深い顔をした菩薩は、傷ついた心を持つ人間の変わり身のように見えた。
一筋の滝の水が断崖のてっぺんから飛沫を飛ばしながら流れ落ち、下の水溜まりを激しく叩いていた。
空中に浮遊した水しぶきの粒に光が射して、小さな虹が浮かんでいた。
 佐和子は虹に向かって手を差し出した。虹の暖かさに触れたいのだろうか。
それとも虹の先に、生まれてこなかった嬰児の姿を思い描いているのだろうか。
虹の端が菩薩に落ち、金箔の剥げ落ちた顔に五つの色が乗った。
佐和子は浮かび上がった菩薩に両手を合わせると、うやうやしく祈った。
 浩一郎はそんな佐和子の姿に女としての母性を感じた。

 太陽が少し動き、日光がほどよい角度で懸崖を照らし始めた。
 浩一郎は佐和子を岩の裂け目に作られた仙霊窟の入口へと導いた。
本尊に毘沙門天を安置している。
「ここが一番いい場所なんだ。岩のあそこ辺りを見ていてご覧。しばらくすると現れるから」
 浩一郎は反対側の岩を指さした。
 それは高さがおおよそ十五メートルはあろうかと思われる乳白色の岩の屏風だった。
夏の暑さは相当なものになっているはずなのに、二人のいる岩の隙間はひんやりとして気持ちがよかった。
心と体が癒される思いがした。
そこに何かしら霊的なものを感じたとしてもおかしくはない。
実際、二人ともそれを感じつつあった。
 浩一郎はただ黙って佐和子のそばに突っ立っていた。
言葉はいらなかった。
見れば分かる。
佐和子はなぜ浩一郎が自分をその場所に連れてきたのか理解に苦しんだ。
まさか岩を見るためだけにこんな山の上まで自分を連れてくるはずはなかった。
佐和子は言われたとおりじっとそこを見つめた。
太陽はさらに西に動き、日射角を少し右に移した。
とそのとき、それは現れた。
岩からしみ出たように。
佐和子は一瞬目を疑った。
そして同意を求めるように、浩一郎の顔を覗った。
 浩一郎は黙って頷いた。
 佐和子は浩一郎の意図がやっと理解できた。
佐和子は浩一郎の思いやりの深さに、そのまま泣き崩れそうになった。
 浩一郎がそっと背中を支えた。
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「夏至観音。夏のこの時間帯だけに現れる。岩と日光が織りなす幻影」
 浩一郎の言葉に佐和子は頷き、
「私たちまだ若いんだもの、やり直しはいくらでもできる。
ご免なさい。
わたし、あなたのことを責めていたの。
あのときあなたが無理に私を食事に誘いさえしなければ……、と」

 岩の屏風に映し出された夏至観音。
それは光と影が生み出す幻影に過ぎなかったが、浩一郎と佐和子にとっては、
失った子の魂が姿を変えて現れたものに等しかった。
そして観音の口元は、光の加減によってかすかに笑っているようにさえ思えた。

3枚目と1番最後の「夏至観音」の写真は「いきいき写真館」
http://homepage3.nifty.com/maekka/
さんから提供された物です。ありがとうございました。<(_ _)>