小豆島恋叙情 第6話 邂逅の石門洞 後編 鮠沢 満 作  

 
その後、百合恵の体調は日ごとに悪くなっていった。
ある晩、仕事がやっと引けて病室を訪ねたときのことである。
その日は少し顔色もよく、元気そうに見えた。
昌文も少しは安心した。

 昌文が百合恵の脇に座ると、彼女が思わぬことを言った。
「ねえ、お願いがあるの」
「お願い? また改まってどうしたんだい」
「ここへ連れて行ってほしいの」
 百合恵は一冊の旅行ガイドブックを差し出し、あるページを開いた。
そこには深紅のモミジに染め抜かれた寺の写真があった。
岩をくり抜いて造った本堂。
それを燃えるようなモミジが抱擁していた。

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「小豆島?」
「そう。四国よ。ここに連れて行ってほしいの」
「元気になったらいつでも連れて行ってあげるよ。でも今はそのときじゃない」
 昌文は少し強い口調で諭すように言った。
「私が癌だから」

 昌文は耳を疑った。
「私、分かってるの。もうそれほど長くないってこと」
「誰がそんなこと言った。医者か、看護師か。
あいつらの言うことなんて嘘っぱちだ。
信じなくていい」
昌文は病室全体に響く大きな声で百合恵の言葉を打ち消した。
しかしそれは空しく響いた。
大きな声を張り上げること自体、百合恵の病気を肯定していることに他ならなかった。

「もういいの。分かってるんだから。
あなたの淋しそうな表情を見てると、私なんだか……こんなになってご免ね」
 百合恵はそこまで言うと嗚咽した。
 昌文は言葉を失った。
 ひとしきり涙を流した後で、百合恵はかすれた声で言った。
「婚約は破棄しましょう」
「それどういう意味なんだ」
 昌文は百合恵の細い肩を揺すった。
「私のことなんか忘れて、他の人を見つけて……幸せに……だから私の最後のお願い。
この寺に連れてって。
燃えるモミジの深紅に染められて死にたいの。
私も一度は燃えるような恋をしたっていう証に」

 昌文は天気予報を入念に調べて、晴れて温暖な日を選んで出発した。
百合恵は遊歩道を本当にゆっくり歩いた。
昌文は、百合恵が一歩踏み出すごと、命を失っていることを認識せずにはおれなかった。
普通なら寺まで二十分もあれば着くところを、百合恵は一時間以上かかった。

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 ようやく本堂を目の前にしたとき、思いが叶ったというように百合恵は静かに目を閉じた。
その閉じた瞼を押し開けるように、取れたての真珠のようにきれいな涙が溢れ出た。
涙にモミジが泳いでいた。
百合恵はモミジに染まりたいと言ったが、今まさにモミジ色に染まっていた。
顔も、涙も、首も、腕も、胸もすべて。
まるで百合恵の体内にぽっと灯りが灯ったようで、百合恵の身体が透きとおるようだった。
中に巣くっているガン細胞でさえ、モミジの炎に焼かれ消えてなくなりそうだった。
「有り難う」
 脆く壊れるものはすべてその寸前美しく装うが、そのときの百合恵は儚いくらい美しかった。
透きとおって手に触れることさえできない。
弱々しく気化して消えてしまいそうだった。
昌文は百合恵を思いっきり抱きしめてやりたかった。切なくて仕方なかった。
「こんなことくらいお安いご用だ」
 自分の言葉が空々しく響く。

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「この世のものとは思えないわ」
 百合恵はもうすっかり死を覚悟しているといった口調だ。
「幸せって何だろう」
 昌文は言ってはならない言葉をつい漏らした。
「互いに信じ合うことかな」
 百合恵が苦しそうに答えた。
「僕たちはどうなんだろう」
 さらに昌文はむごいと知りつつ百合恵に確たる答えを求めてしまった。
「あなたのこと信じてるわ」
「俺は何があっても百合恵のことは忘れない」
「そんなに無理しなくってもいいの。私もう十分すぎるほど優しくしてもらったから」
「まだ十分じゃない」
 ここまで言うと昌文は何を思ったのか、百合恵の手を引くと、本堂左の山道へと進んでいった。
昌文は何かに手繰られるように山道を進んだ。
百合恵は昌文の真剣な表情に、何かただならぬものを感じ、棒のようになった足をひたすら前に進めるしかなかった。
やがて山道が大きく右に曲がったところにやってきた。
百合恵はもう一歩も先には進めなかった。
胸を押さえ、俯いて今にも崩れ落ちそうだった。
「あれを見てご覧」
 昌文は指さした。
 そこで百合恵が見たものは、まさに神懸かりともいうべき大きな石門洞であった。
ドーナツのように見事に内側がくり抜かれていた。
高さは五メートル、幅は四メートルはあるだろうか。
それだけではなかった。
そのドーム状になった石門洞のあちこちからモミジが枝を伸ばし、まさに炎と化していたのである。

 百合恵はまたしても涙を流していた。
 昌文はその涙が何を意味するのか、分かりすぎるほど分かっていた。
 石門洞を通して青空が見えた。
その石門洞によって切り取られた青空の広さは、百合恵の残された命の長さに等しかった。

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昌文と百合恵は石門洞の真下に立った。
「百合恵、君を愛している」
「有り難う。嬉しいわ。
でも私が死んだら、いつかも言ったけど、誰かいい人見つけて再婚してもいいのよ」
「俺は君だけしか愛せない。
もし君がいなくなったら、毎年ここに来る。
君に会うために」
「もうこれ以上望むものはないわ。
深紅のモミジに染められて死ねるんだもの。
それにあなたの愛の深さを知ったから、私、この石門洞の向う側に行っても怖くない」

 それから一ヶ月後、百合恵は帰らぬ人となった。
婚約指輪だけが昌文の手許に残った。
昌文はそれから数年後、訳あって結婚したがうまくいかなかった。
それから毎年、一人の男が遊歩道を登り、寺に線香を手向け、
そして石門洞の下に佇む姿が見られるようになった。