?H1>小豆島恋叙情第9話 漁り火の海 後編
鮠沢 満 作
その夜、勇作は伯父の友吉に呼ばれた。 友吉の部屋に入ると、座るように言われた。 勇作は言われるとおり友吉の前に正座した。 「勇作、はっきり言っておく。あの娘と会うのはやめろ」 友吉はどこから聞いてきたのか、勇作と富江が逢い引きをしていることを知っていた。 どうせ近所の口のはじかい連中の一人が、点数稼ぎのために告げ口でもしたのだろう。「どうしてですか」 勇作はまっすぐ友吉の目を見て言った。 「お前は世間ちゅうもんが分かっとらん」 「世間ですか」 「そうじゃ。お前はまだ若い。 だから世の中の仕組みというものが分かっとらんのじゃ。 それに女というもんがの。 ところでお前と富江とかいうあの女はどこまでの関係や」 「どこまでの関係と言われても……相思相愛だと思います」 「なるほどの。でもあの女と付き合うのはやめろ」 「どうしてですか」 「勇作、はっきり言っておく。 家柄が違う。 こっちは先祖代々この地方でも有名な網元ぞい。 それに比べ、その女の家はといえば、その日暮らしするにも事欠くありさまじゃ。 まともな仕事もなく、どうせろくなことして生きとらん」 「伯父さん、家柄がどうしたというんです。 大事なのは人間性じゃないですか」 「勇作、お前いつからこのわしに意見するようになった」 勇作は友吉に刃物を突きつけられた思いだった。 勇作は絶句するしかなかった。 勇作の父母は、勇作が三歳のとき海難事故で亡くなった。 夫婦で漁に出ているとき、タンカーに衝突され、そのまま船もろとも沈没してしまったのである。 身寄りのなくなった勇作を引き取って育ててくれたのが、伯父の友吉だった。 「この世の中にはな、叶うものと叶わんもんがある。 家柄がどうしたこうしたというが、家柄は大事じゃ。 どこの馬の骨とも分からん女をお前の嫁にはもらえん。 お前は俺の息子ぞい。 大村家の跡継ぎぞい。そのことを忘れるな。 世間の笑いものになるようなことだけはするな。 分かったな」
勇作は一人浜で泣いた。 悔し涙だった。 伯父には確かに世話になってきた。 両親が死んで育ててくれたのは他でもない友吉だった。 だからといって富江の家のこと、それに富江自身のことをあんなふうに言う資格はない。 翌日、いつもの待ち合わせの場所に行ったが、富江は来なかった。 勇作はそれでも待った。 だがやっぱり富江は現れなかった。 何かがおかしい。 勇作は富江の家に行くことにした。 ちょうどそのとき、小さな女の子が現れた。 「あのー、これおねえちゃんから預かってきた」 その子は勇作に手紙を差し出した。 その手紙には、もう二人とも会えない、とだけ書いてあった。 理由は書いていなかった。 もう会えない? いったいどういうことなんだ。 一週間くらいして、富江はかまぼこ会社を辞めた。 勇作は何度も富江の家に行ったが、父親が頑として富江には会わせてくれなかった。 そして一ヶ月後、富江は岡山のある家に逃げるようにして嫁いでいった。 あまりに急なことで、勇作は我を失った。 富江が嫁いだその晩、がっくりときて身動き一つできないでいる勇作に友吉が声をかけた。 「勇作、そうがっかりするな。これで良かったんだ」 「これで良かったというのは、どういうことなんですか」 「人間にはそれぞれ持って生まれた運命というものがある。 それと属すべき階層。 釣り合いの取れない結婚をすると、苦しむのはどっちかお前にだって分かるだろう」 「富江のこと、まさか伯父さんが……」 「そのまさかだったら、どうだというんだ。 お前は世の中ちゅうもんが分かっとらん」 後になって昌樹から事情を聞かされた。 勇作と友吉が富江のことで話をした翌日、友吉が富江の家に行き話しをつけたということだった。 勤め先のかまぼこ屋も友吉の息がかかっていた。 それにもう一つ驚いたことに、友吉からこっそり富江の父親になにがしかの金子が渡ったとも言われた。 勇作は伯父には悪いと思ったが、以後一度も友吉のところには帰らなかった。 そしてその友吉が癌で亡くなった。 いくら何でも育ての親の葬儀に出ないわけにはいかなかった。 そのためやむなく帰省したのである。
勇作は昌樹に電話した。 「いいだろう」 昌樹はそう言った。 手はずは整えるという意味らしかった。 「いつものところでいつもの時間に、と伝えてくれ」 勇作はそう付け加えた。 数日して昌樹から連絡があった。 「富江は了解した。会うのは明日だ」 短く用件だけ伝えると、昌樹は電話を切った。 後はお前の仕事だ。 そういうことらしい。 勇作は息を詰めて待った。 あの頃もそうだった。 富江の足音が聞こえるのを、息をひそめて待っていた。 富江の足音が聞こえてくると、勇作の胸は早鐘のように鳴った。 そして富江が目の前に現れると、無理をおしてまで勇作に会いに来る彼女のいじらしさを、とても愛おしく思ったのだった。 そのときほど富江を大事にしたいと思ったことはなかった。
約束の時間がやってきた。 夕暮れ時で、すべてのものが柔らかい光に包まれている。 ささくれだった気持ちも少しは和らいだが、それでもいざ十年振りに富江に会うとなると、 それなりの覚悟というか勇気が必要だった。 それに理不尽なことがあっただけに、やはり辛いものがあった。 紆余曲折を経ての再会は勇作をひどく憶病にさせ、 真っ直ぐな気持ちで富江と向かい合うことができるかどうか、勇作自身はなはだ自信がなかった。 富江は約束の時間に現れた。 そして勇作の前に立っていた。 十年という歳月が逆回転し始めた。 何もかも純粋で透明だったあの頃に戻ってほしかった。 未来に背を丸めることもなかった。 風聞に耳を塞ぐこともなかった。 ただ真っ直ぐ前を見て、ありのままの富江を受け容れていればよかった。 「お前は世間ちゅうもんが分かっとらん」 伯父の悪意に満ちた言葉が蘇ってくる。 勇作の胸は押しつぶされるように痛んだ。 勇作は富江に近づいた。 富江の顔が逆光になってはっきりとは見えなかったが、輪郭にむかしの面影が残っている。 富江の周囲だけ柔らかな空気が漂い、懐かしい温かさが伝わってきた。 友吉が亡くなった今、誰憚ることもない。 「あの頃のように歩こうか」 富江が小さく頷いた。 「痩せた?」 「ええ」 「富江」 「はい」 浜に向かって海風が吹いてくる。 それが富江の髪を悪戯っぽく掻き上げた。 一瞬富江の細い首筋が見えた。 勇作は立ち止まり、富江の方に向き直った。 「富江、悪かった。苦労させて。昌樹から聞いた」 勇作は富江をそっと引き寄せた。 「だって仕方なかったもの。あなたのせいじゃない」 「この十年間、一日も忘れたことなんてなかった」 この言葉に富江がまっすぐ勇作の目を覗き込んできた。 涙をこらえているのが分かる。 睫毛が小刻みに震え、富江の網膜の上にある勇作の姿が崩れた。 勇作は富江を折れるほど強く抱きしめた。 「わたし、汚れちゃった」 富江は勇作の胸の中で嗚咽を噛み殺すように小さな声で言った。 そのか細い声には呻吟が滲み出ていた。 「そんなことあるもんか。 どうあろうと富江はいつだって俺の大好きな富江に変わりない」 勇作は富江のおとがいを上げた。 形のいい唇が薄く開かれている。 その花のような唇に、勇作はそっと口を合わせた。 「愛してる。もう二度と放さない」 「いつかあなたが迎えに来てくれると信じていたわ。 だからどんなことがあっても頑張り抜いたの。 あなたを生き甲斐にして」 夜の帳がいつしか降り、沖には漁り火がちらちら燃えていた。 苦しかった十年という歳月を、打ち寄せる波がそっと包み込んだ。 勇作はもう一度言った。 「富江、もう放さない」
「どうしてですか」
勇作はまっすぐ友吉の目を見て言った。
「お前は世間ちゅうもんが分かっとらん」
「世間ですか」
「そうじゃ。お前はまだ若い。
だから世の中の仕組みというものが分かっとらんのじゃ。
それに女というもんがの。
ところでお前と富江とかいうあの女はどこまでの関係や」
「どこまでの関係と言われても……相思相愛だと思います」
「なるほどの。でもあの女と付き合うのはやめろ」
「どうしてですか」
「勇作、はっきり言っておく。
家柄が違う。
こっちは先祖代々この地方でも有名な網元ぞい。
それに比べ、その女の家はといえば、その日暮らしするにも事欠くありさまじゃ。
まともな仕事もなく、どうせろくなことして生きとらん」
「伯父さん、家柄がどうしたというんです。
大事なのは人間性じゃないですか」
「勇作、お前いつからこのわしに意見するようになった」
勇作は友吉に刃物を突きつけられた思いだった。
勇作は絶句するしかなかった。
勇作の父母は、勇作が三歳のとき海難事故で亡くなった。
夫婦で漁に出ているとき、タンカーに衝突され、そのまま船もろとも沈没してしまったのである。
身寄りのなくなった勇作を引き取って育ててくれたのが、伯父の友吉だった。
「この世の中にはな、叶うものと叶わんもんがある。
家柄がどうしたこうしたというが、家柄は大事じゃ。
どこの馬の骨とも分からん女をお前の嫁にはもらえん。
お前は俺の息子ぞい。
大村家の跡継ぎぞい。そのことを忘れるな。
世間の笑いものになるようなことだけはするな。
分かったな」
勇作は一人浜で泣いた。
悔し涙だった。
伯父には確かに世話になってきた。
両親が死んで育ててくれたのは他でもない友吉だった。
だからといって富江の家のこと、それに富江自身のことをあんなふうに言う資格はない。
翌日、いつもの待ち合わせの場所に行ったが、富江は来なかった。
勇作はそれでも待った。
だがやっぱり富江は現れなかった。
何かがおかしい。
勇作は富江の家に行くことにした。
ちょうどそのとき、小さな女の子が現れた。
「あのー、これおねえちゃんから預かってきた」
その子は勇作に手紙を差し出した。
その手紙には、もう二人とも会えない、とだけ書いてあった。
理由は書いていなかった。
もう会えない?
いったいどういうことなんだ。
一週間くらいして、富江はかまぼこ会社を辞めた。
勇作は何度も富江の家に行ったが、父親が頑として富江には会わせてくれなかった。
そして一ヶ月後、富江は岡山のある家に逃げるようにして嫁いでいった。
あまりに急なことで、勇作は我を失った。
富江が嫁いだその晩、がっくりときて身動き一つできないでいる勇作に友吉が声をかけた。
「勇作、そうがっかりするな。これで良かったんだ」
「これで良かったというのは、どういうことなんですか」
「人間にはそれぞれ持って生まれた運命というものがある。
それと属すべき階層。
釣り合いの取れない結婚をすると、苦しむのはどっちかお前にだって分かるだろう」
「富江のこと、まさか伯父さんが……」
「そのまさかだったら、どうだというんだ。
お前は世の中ちゅうもんが分かっとらん」
後になって昌樹から事情を聞かされた。
勇作と友吉が富江のことで話をした翌日、友吉が富江の家に行き話しをつけたということだった。
勤め先のかまぼこ屋も友吉の息がかかっていた。
それにもう一つ驚いたことに、友吉からこっそり富江の父親になにがしかの金子が渡ったとも言われた。
勇作は伯父には悪いと思ったが、以後一度も友吉のところには帰らなかった。
そしてその友吉が癌で亡くなった。
いくら何でも育ての親の葬儀に出ないわけにはいかなかった。
そのためやむなく帰省したのである。
勇作は昌樹に電話した。
「いいだろう」
昌樹はそう言った。
手はずは整えるという意味らしかった。
「いつものところでいつもの時間に、と伝えてくれ」
勇作はそう付け加えた。
数日して昌樹から連絡があった。
「富江は了解した。会うのは明日だ」
短く用件だけ伝えると、昌樹は電話を切った。
後はお前の仕事だ。
そういうことらしい。
勇作は息を詰めて待った。
あの頃もそうだった。
富江の足音が聞こえるのを、息をひそめて待っていた。
富江の足音が聞こえてくると、勇作の胸は早鐘のように鳴った。
そして富江が目の前に現れると、無理をおしてまで勇作に会いに来る彼女のいじらしさを、とても愛おしく思ったのだった。
そのときほど富江を大事にしたいと思ったことはなかった。
約束の時間がやってきた。
夕暮れ時で、すべてのものが柔らかい光に包まれている。
ささくれだった気持ちも少しは和らいだが、それでもいざ十年振りに富江に会うとなると、
それなりの覚悟というか勇気が必要だった。
それに理不尽なことがあっただけに、やはり辛いものがあった。
紆余曲折を経ての再会は勇作をひどく憶病にさせ、
真っ直ぐな気持ちで富江と向かい合うことができるかどうか、勇作自身はなはだ自信がなかった。
富江は約束の時間に現れた。
そして勇作の前に立っていた。
十年という歳月が逆回転し始めた。
何もかも純粋で透明だったあの頃に戻ってほしかった。
未来に背を丸めることもなかった。
風聞に耳を塞ぐこともなかった。
ただ真っ直ぐ前を見て、ありのままの富江を受け容れていればよかった。
「お前は世間ちゅうもんが分かっとらん」
伯父の悪意に満ちた言葉が蘇ってくる。
勇作の胸は押しつぶされるように痛んだ。
勇作は富江に近づいた。
富江の顔が逆光になってはっきりとは見えなかったが、輪郭にむかしの面影が残っている。
富江の周囲だけ柔らかな空気が漂い、懐かしい温かさが伝わってきた。
友吉が亡くなった今、誰憚ることもない。
「あの頃のように歩こうか」
富江が小さく頷いた。
「痩せた?」
「ええ」
「富江」
「はい」
浜に向かって海風が吹いてくる。
それが富江の髪を悪戯っぽく掻き上げた。
一瞬富江の細い首筋が見えた。
勇作は立ち止まり、富江の方に向き直った。
「富江、悪かった。苦労させて。昌樹から聞いた」
勇作は富江をそっと引き寄せた。
「だって仕方なかったもの。あなたのせいじゃない」
「この十年間、一日も忘れたことなんてなかった」
この言葉に富江がまっすぐ勇作の目を覗き込んできた。
涙をこらえているのが分かる。
睫毛が小刻みに震え、富江の網膜の上にある勇作の姿が崩れた。
勇作は富江を折れるほど強く抱きしめた。
「わたし、汚れちゃった」
富江は勇作の胸の中で嗚咽を噛み殺すように小さな声で言った。
そのか細い声には呻吟が滲み出ていた。
「そんなことあるもんか。
どうあろうと富江はいつだって俺の大好きな富江に変わりない」
勇作は富江のおとがいを上げた。
形のいい唇が薄く開かれている。
その花のような唇に、勇作はそっと口を合わせた。
「愛してる。もう二度と放さない」
「いつかあなたが迎えに来てくれると信じていたわ。
だからどんなことがあっても頑張り抜いたの。
あなたを生き甲斐にして」
夜の帳がいつしか降り、沖には漁り火がちらちら燃えていた。
苦しかった十年という歳月を、打ち寄せる波がそっと包み込んだ。
勇作はもう一度言った。
「富江、もう放さない」
コメント