はじめに
島を舞台にくりなす人間模様を縦軸に、恋模様を横軸に紡がれた小説「小豆島恋叙情」も10話を迎えました。
みなさんからのいろいろな感想や意見は、作者の励みになっています。
いろいろな人の反応がコメントという形でダイレクトに返ってくるのは、今までにはなかった経験のようです。
それなら、もう少し書いてみようかと「やる気」を作者は見せています。
15話で完結の予定でしたがもう一話、構想中のようです。
連載もあと5話です。
それでは第10話をお届けします。
みなさんからのいろいろな感想や意見は、作者の励みになっています。
いろいろな人の反応がコメントという形でダイレクトに返ってくるのは、今までにはなかった経験のようです。
それなら、もう少し書いてみようかと「やる気」を作者は見せています。
15話で完結の予定でしたがもう一話、構想中のようです。
連載もあと5話です。
それでは第10話をお届けします。
小豆島恋叙情第10話 夢小路恋酒場 前編
鮠沢 満 作
3枚目の写真は「小豆島孔雀園」で「いきいき写真館」さんが、撮られた物です「ねえ、リンちゃん呼んで」 哲夫はソファーに座るなりそう言った。 マスターが指名の女の子の名前を訊く前にリンの名前を言っていた。 山村哲夫、四十五歳。 独身。職業、醤油会社勤務の会社員。 毎日、醤油の瓶詰めという単調な作業に追われる日々を送っている。 今日は給料日。 哲夫は給料日を含め、一ヶ月に何度かここ小豆島の盛り場夢小路にやってくる。 夜になると昼間の辛気くさい雰囲気とは打って変わって、ネオンきらめく盛り場と化す。 哲夫は『皇帝』という店の常連である。 いわゆるキャバクラである。 女たちのほとんどが外国籍。 つたない日本語で客の相手をしてくれるが、これがどれも美人揃い。 昼間はどこに隠れているのか、まったく姿を見せない。 しかし、開店ともなるとどこから降って湧いたのかと思うほど、 たくさんの女たちがネオンに引き寄せられるように現れる。リンは中国籍。 約一年前から店に出ている。 来日する前に少し日本語の手ほどきを受けたのか、それとも客商売にあっては言葉は死活問題、 こっちに来て猛勉強したのか他の女たちより堪能である。 結構難しいことを言っても、不自由なく応答できる。 顔はやや細面だが、感じとしては全体的にふっくらとしている。 目は大きく、瞳の中に真っ直ぐ前を見つめた溌剌としたきらめきがある。 鼻梁は高く、大きさもほどよい。 唇はやや薄いが、顔とのバランスで見ると肉感的だ。 笑うと右だけえくぼが出る。 「てっちゃん、いらっしゃい、会いたかったわ」 リンが哲夫のそばに座るや、腰をぴったり押しつけてきた。 哲夫はそれに合わせたように、左手をリンの肩に回す。 ごく自然な仕草だ。 店に入るまでは例のことがあるため気分的に沈んでいたが、 リンの屈託のない笑顔を見たとたん、哲夫は仕事仲間の心配が単なる危惧だったと思った。 こんなに純真な笑顔のリンちゃんがまさか……。 「僕も会いたかった」 哲夫はリンのほっぺに軽くキスをした。 それに対して、リンも哲夫にそうされることにまんざらでもない仕草だ。 「てっちゃん、何飲む」 「いつものやつでいい」 「私も飲んでいい」 リンが甘えた声で自分の飲み物もちゃっかりおねだりする。 これが案外馬鹿にならない。 いくらかホステスにも落ちるようになっている。 「いいよ」 女の手前、気前がいい。 哲夫の給料はお世辞にもいいとは言えない。 月に何度かキャバクラに通ってこれる身分ではない。 しかし哲夫が日頃の生活費を削ってまでリンに会いに来るのには、それなりの理由があってのことだ。 哲夫の容姿は、はっきり言ってさえない。 背は低く、やや小太り。 顔は赤ら顔で、ぽっちゃりとしている。 そのぽっちゃりとした輪郭に、細い目と団子鼻、それに厚ぼったい唇が調和を乱してはめ込まれている。まあ醜男といっていい。 そんな哲夫の日々の生活といえば、月曜から土曜日まで醤油の瓶詰めという単純作業に費やされる。 瓶詰めといってもすべて機械がしてくれる。 哲夫はただ空の瓶を流れ作業のベルトに乗せるだけのことである。 別段頭を使うこともないし、それに冷静な判断が求められるわけでもない。 あまり物事を深く考えない人間とか、単調な生活にも何ら不満らしきものを感じない人間にとっては、 賃金がもらえるのだから、割り切って考えれば楽な仕事と言えなくもない。
哲夫もどちらかといえば、自分の生活というものをそれほど深く考えたことはない。 いつも誰かの後ろをついて回るだけで、主体的に生きてきたという記憶さえなかった。 その証拠に、小さいときからいつも日陰にいたような気がする。 家にいても、賑やかで活発な兄弟の陰に隠れていた。 自分の言いたいことさえ言わなかった。 学校に行っても友達もできず、たとえ一瞬でもぱっと花の咲いたような学校生活を送ったこともなかった。 人生とは、自ら生きるのではなく生かされるもの、そう諦めていたところがある。 年の瀬も押し迫ったある夜のこと、ぱっとしなかった忘年会の験直しに二次会に行って派手にやろうと、哲夫と同じ作業班の仲間が言いだした。 哲夫も無理矢理タクシーの後部座席に押し込まれ、盛り場にくり出して行った。 店内はカクテル光線が飛び交い、ホステスのねっとりまとわり付いてくるような色気でムンムンしていた。 哲夫はその熱気に圧倒された。 今までにキャバクラに来たことがなかったからである。 哲夫の容姿からして、そんなところに行っても持てるはずもない。 哲夫自身も自分のことがよく分かっていた。 ところがその夜哲夫の横に座ったのは、店でも人気ナンバーワンのホステスだった。 しなやかな身体つきに加えて、とびっきりの美人だった。 スリットの入ったタイトスカートからは、贅肉のない見事な足が伸びていた。 胸元も少し大きく開いており、前屈みになるたび胸の谷間がくっきり見えた。 哲夫は生唾を飲んだ。 それを見ていた仲間の一人がからかい半分に言った。 「リンちゃん、こいつまだ経験ないからね。今晩ちゃんと教えてやってよ」 「えっ? ほんと?」 リンは愛くるしい大きい目を哲夫に向け、信じられないといった表情で、まっすぐ瞳の奥を覗き込んできた。 哲夫はリンの顔を真正面から、それも至近距離から見て、背中から脳天にかけて電流のようなものが走るのを感じた。
その夜、店を出るまでリンは哲夫のそばを離れなかった。 哲夫は生まれて初めて、女という得体の知れない生き物をじっくりそばに置いて観察する機会に恵まれた。 リンは優しかった。 それもこれまで哲夫に接した誰よりも。 彼女の形のよい口から飛び出す言葉は魔法のように甘美で繊細だった。 哲夫の固い口の扉にかかった鍵でさえ容易に開けた。 普段口べたで無口な哲夫ですら憶することなく言葉を口にすることができた。 哲夫は今までとは違う自分がいることを発見しつつあった。 これまで日陰に隠れていた自分が、太陽の光によって目覚めようとしている。 もしかしてこれが本来の自分かもしれない。 そう感じた。 哲夫はリンに一目惚れした。 それから哲夫は仲間に内緒で、一人で店に顔を出すようになった。 回数を重ねるごと、哲夫も店での振る舞いが板に付き、リンとのやりとりにも余裕さえ出てきた。 リンとの駆け引きにも慣れた頃、哲夫はときどきではあるがリンに贈り物を持って行くようになった。 高価な品物ではなかったが、まずは心配りが大事と考えた。 リンも哲夫の思いやりを理解したのか、黙って受け取った。 そんなときリンはいつも哲夫に言うのだった。 「てっちゃんて優しいから好き。 わたし、てっちゃんに本気で恋しちゃうかも」 哲夫はそんなリンの歯の浮くような言葉でも内心嬉しかった。 たとえリンとの軽いやりとりであっても、自分がひとかどの人間として認められたような気持ちになり、さらにリンに傾いていった。
哲夫が店に通い始めて数ヶ月が過ぎた頃、哲夫をリンのところに連れて行った仲間の一人が、 昼食が終わったときちょっと話があると言った。 佐藤という哲夫の唯一の友達は、哲夫を中庭に呼び出すとズバリ言った。 「哲っちゃん。あの店に行くのはやめとき」 哲夫は佐藤の言葉に驚いた。 誰にも気付かれずに通っていたつもりだったが、どうして佐藤が知っているのだ。 佐藤が知っているということは、他の連中も知っていることになる。 どうせ噂になっているに違いない。 「俺は……別に」 「狭い町のこと、誰が何をしているか筒抜けだ。 哲っちゃん、勘違いしちゃいけない。 あいつらはプロだ。金のためならどんなことだってやる」 哲夫は佐藤の言葉にがっかりすると同時に腹が立った。 リンちゃんはそんな女じゃない。 「佐藤、せっかくだが説教はやめてくれ。 俺は子供じゃない。 自分が何をしているか知っているつもりだ」
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ありがとうございました。<(_ _)>
リンは中国籍。
約一年前から店に出ている。
来日する前に少し日本語の手ほどきを受けたのか、それとも客商売にあっては言葉は死活問題、
こっちに来て猛勉強したのか他の女たちより堪能である。
結構難しいことを言っても、不自由なく応答できる。
顔はやや細面だが、感じとしては全体的にふっくらとしている。
目は大きく、瞳の中に真っ直ぐ前を見つめた溌剌としたきらめきがある。
鼻梁は高く、大きさもほどよい。
唇はやや薄いが、顔とのバランスで見ると肉感的だ。
笑うと右だけえくぼが出る。
「てっちゃん、いらっしゃい、会いたかったわ」
リンが哲夫のそばに座るや、腰をぴったり押しつけてきた。
哲夫はそれに合わせたように、左手をリンの肩に回す。
ごく自然な仕草だ。
店に入るまでは例のことがあるため気分的に沈んでいたが、
リンの屈託のない笑顔を見たとたん、哲夫は仕事仲間の心配が単なる危惧だったと思った。
こんなに純真な笑顔のリンちゃんがまさか……。
「僕も会いたかった」
哲夫はリンのほっぺに軽くキスをした。
それに対して、リンも哲夫にそうされることにまんざらでもない仕草だ。
「てっちゃん、何飲む」
「いつものやつでいい」
「私も飲んでいい」
リンが甘えた声で自分の飲み物もちゃっかりおねだりする。
これが案外馬鹿にならない。
いくらかホステスにも落ちるようになっている。
「いいよ」
女の手前、気前がいい。
哲夫の給料はお世辞にもいいとは言えない。
月に何度かキャバクラに通ってこれる身分ではない。
しかし哲夫が日頃の生活費を削ってまでリンに会いに来るのには、それなりの理由があってのことだ。
哲夫の容姿は、はっきり言ってさえない。
背は低く、やや小太り。
顔は赤ら顔で、ぽっちゃりとしている。
そのぽっちゃりとした輪郭に、細い目と団子鼻、それに厚ぼったい唇が調和を乱してはめ込まれている。まあ醜男といっていい。
そんな哲夫の日々の生活といえば、月曜から土曜日まで醤油の瓶詰めという単純作業に費やされる。
瓶詰めといってもすべて機械がしてくれる。
哲夫はただ空の瓶を流れ作業のベルトに乗せるだけのことである。
別段頭を使うこともないし、それに冷静な判断が求められるわけでもない。
あまり物事を深く考えない人間とか、単調な生活にも何ら不満らしきものを感じない人間にとっては、
賃金がもらえるのだから、割り切って考えれば楽な仕事と言えなくもない。
哲夫もどちらかといえば、自分の生活というものをそれほど深く考えたことはない。
いつも誰かの後ろをついて回るだけで、主体的に生きてきたという記憶さえなかった。
その証拠に、小さいときからいつも日陰にいたような気がする。
家にいても、賑やかで活発な兄弟の陰に隠れていた。
自分の言いたいことさえ言わなかった。
学校に行っても友達もできず、たとえ一瞬でもぱっと花の咲いたような学校生活を送ったこともなかった。
人生とは、自ら生きるのではなく生かされるもの、そう諦めていたところがある。
年の瀬も押し迫ったある夜のこと、ぱっとしなかった忘年会の験直しに二次会に行って派手にやろうと、哲夫と同じ作業班の仲間が言いだした。
哲夫も無理矢理タクシーの後部座席に押し込まれ、盛り場にくり出して行った。
店内はカクテル光線が飛び交い、ホステスのねっとりまとわり付いてくるような色気でムンムンしていた。
哲夫はその熱気に圧倒された。
今までにキャバクラに来たことがなかったからである。
哲夫の容姿からして、そんなところに行っても持てるはずもない。
哲夫自身も自分のことがよく分かっていた。
ところがその夜哲夫の横に座ったのは、店でも人気ナンバーワンのホステスだった。
しなやかな身体つきに加えて、とびっきりの美人だった。
スリットの入ったタイトスカートからは、贅肉のない見事な足が伸びていた。
胸元も少し大きく開いており、前屈みになるたび胸の谷間がくっきり見えた。
哲夫は生唾を飲んだ。
それを見ていた仲間の一人がからかい半分に言った。
「リンちゃん、こいつまだ経験ないからね。今晩ちゃんと教えてやってよ」
「えっ? ほんと?」
リンは愛くるしい大きい目を哲夫に向け、信じられないといった表情で、まっすぐ瞳の奥を覗き込んできた。
哲夫はリンの顔を真正面から、それも至近距離から見て、背中から脳天にかけて電流のようなものが走るのを感じた。
その夜、店を出るまでリンは哲夫のそばを離れなかった。
哲夫は生まれて初めて、女という得体の知れない生き物をじっくりそばに置いて観察する機会に恵まれた。
リンは優しかった。
それもこれまで哲夫に接した誰よりも。
彼女の形のよい口から飛び出す言葉は魔法のように甘美で繊細だった。
哲夫の固い口の扉にかかった鍵でさえ容易に開けた。
普段口べたで無口な哲夫ですら憶することなく言葉を口にすることができた。
哲夫は今までとは違う自分がいることを発見しつつあった。
これまで日陰に隠れていた自分が、太陽の光によって目覚めようとしている。
もしかしてこれが本来の自分かもしれない。
そう感じた。
哲夫はリンに一目惚れした。
それから哲夫は仲間に内緒で、一人で店に顔を出すようになった。
回数を重ねるごと、哲夫も店での振る舞いが板に付き、リンとのやりとりにも余裕さえ出てきた。
リンとの駆け引きにも慣れた頃、哲夫はときどきではあるがリンに贈り物を持って行くようになった。
高価な品物ではなかったが、まずは心配りが大事と考えた。
リンも哲夫の思いやりを理解したのか、黙って受け取った。
そんなときリンはいつも哲夫に言うのだった。
「てっちゃんて優しいから好き。
わたし、てっちゃんに本気で恋しちゃうかも」
哲夫はそんなリンの歯の浮くような言葉でも内心嬉しかった。
たとえリンとの軽いやりとりであっても、自分がひとかどの人間として認められたような気持ちになり、さらにリンに傾いていった。
哲夫が店に通い始めて数ヶ月が過ぎた頃、哲夫をリンのところに連れて行った仲間の一人が、
昼食が終わったときちょっと話があると言った。
佐藤という哲夫の唯一の友達は、哲夫を中庭に呼び出すとズバリ言った。
「哲っちゃん。あの店に行くのはやめとき」
哲夫は佐藤の言葉に驚いた。
誰にも気付かれずに通っていたつもりだったが、どうして佐藤が知っているのだ。
佐藤が知っているということは、他の連中も知っていることになる。
どうせ噂になっているに違いない。
「俺は……別に」
「狭い町のこと、誰が何をしているか筒抜けだ。
哲っちゃん、勘違いしちゃいけない。
あいつらはプロだ。金のためならどんなことだってやる」
哲夫は佐藤の言葉にがっかりすると同時に腹が立った。
リンちゃんはそんな女じゃない。
「佐藤、せっかくだが説教はやめてくれ。
俺は子供じゃない。
自分が何をしているか知っているつもりだ」
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