時江の家はすぐ見つかった。本通りを突き当たって右に折れ、
少し行ったところに幼稚園があったが、そのすぐ裏手だった。
紀子は気後れしながらもベルを鳴らした。
ややあって中から腰の曲がった年寄りが戸を開けた。母親らしい。
「三枝時江さんおいでになりますでしょうか」
「時江ですか。時江は今仕事にでとりますわ」
「いつ頃お帰りになりますか」
「そやな。三時くらいかのう」
紀子は時計を見た。
まだ二時少し前である。
さてそれまでどうやって時間つぶしをしたものか。
紀子が思案しているとそれを察したのか、
「すぐそこの製麺所ですわい。
行ったらええ。
親戚の手伝いで仕事も暇やけん心配いらん。
あんた時江のお友達ですかいな」
「ええまあ」
ここは言葉を濁すしかない。
母親は紀子を娘の友達と信じて疑わない。
親切に道順を教えてくれた。
途中、隧道があった。
長い隧道ではないが、隧道を一歩一歩進むごと光から遠ざかるような気持ちに襲われた。
隧道に自分の靴音が反響する。
固い靴音は紀子の苦しい胸の内をそのまま反響しているようだった。
今ならまだ間に合う。
引き返そうと思えば引き返せる。
光の過去を暴いてどうなるというのだ。
故人への愛情と尊敬を失うばかりか、自分自身だって傷付く。
それでも紀子は確かめたかった。
隧道を抜けると海だった。
隧道で丘を一つ越したせいか、風はなかった。
紀子は防波堤に腰を降ろして休んだ。
島が砂州で陸続きになっている。
かつては紀子も光もあのように心がつながっていた。
なのに一通の手紙が……。
時江の母親は紀子の訪問の目的さえ訊こうとしなかった。
島では人を疑ったり妬んだりする風習に乏しいのか。
紀子はよそ者だ。
そのよそ者がのこのこ島にやってきて他人の安逸な生活を乱そうとしている。
自分ながら厭なことをしようとしている思った。
人柄の良さそうな時江の母親の顔が、瞼の裏にちらついて痛かった。
簾のように垂れ下がった素麺が、遠くからだと流れ落ちる滝のように見える。
素麺を天日干ししていた。
塩気を含んだ海風が素麺の乾燥に適しているのだろう。
紀子は素麺の間をかいくぐって、納屋のようなところに行った。
そこが素麺の作業場らしい。
老夫婦と若い女が一人いた。
時江は遠目からもきれいだった。
紀子はどちらかといえば都会的な顔立ちであるが、時江はそれとは対照的にすべてがゆったりとした線で包まれ、一緒にいると気持ちが和みそうであった。
「ごめんください」
紀子は思いきって声を掛けた。
時江が気が付いてこちらに振り返った。
応対に出てきたのも時江である。
紀子は時江を目の前にして、不思議な感覚に襲われた。
時江は自分を全面に押し出してくるタイプではないと直感した。
その物腰から、おおよそ光と道ならぬ恋に身を投じるような情熱的な女には思えなかった。
しかし、光はどうか。
紀子のような繊細で感受性の強い女より、控えめで少し離れたところから黙って見守ってくれる女の方が気が楽だったのではないか。
肩肘張らずに自分をさらけ出すことができた。
違うだろうか。
時江はそういう類の女だった。
「何かご用でしょうか」
時江はパリッとスーツに身を包んだ紀子をやや警戒しながら眺めている。
「私、大島紀子と申します」
紀子ははっきり名前を名乗った。
「大島紀子さんですか」
紀子の予想に反して時江の反応が鈍い。
大島と聞いて少しは動揺するかと思ったが、時江にはピンとこないようだ。
顔色からしても偽っているふうでもない。
「素麺の注文は承っておりますか」
時江は紀子を完全に客人と思いこんでいる。
紀子は肩すかしを食らった。
しかしまだ分からない。
「実は少し込み入った話があってまいりました」
「素麺ではなく、込み入った話ですか」
ここではじめて時江は浮かぬ顔になった。
やはりね。

「出られますか。ここではちょっと何ですので」
時江は中の年寄りに一声掛けて出てきた。
二人は海岸近くの空き地にやってきた。
「お話というのはあの人のことですか」
時江の方が先に切り出してきた。
その方が手間が省けて早い。
「そうです。いつからの関係ですか」
「いつからと言われても」
「はっきり言ってください」
「かれこれ二十七年近くになります」
「二十七年?」
「どうかしましたか」
どうも話が噛み合わない。
「大島光という名前を聞いて何かピンときませんか」
少し驚かせてやりたくなった。
「大島光! 光ちゃんがどうかしたんですか」
ほらやっぱりそうじゃない。
知っているんなら最初からそう言えばいいのに。
それに光ちゃんだなんて随分なれなれしい。
「私、大島光の妻です」
「光ちゃんの奥さんですか。
これはどうも失礼しました。
私てっきり素麺を受け取りに来たお客さんだとばっかり思って」
時江は頭を深々と下げて丁寧な挨拶をした。
またしてもどこか変だ。
「主人とはどこで」
「どこでと言いますと」
「よく会ってたんでしょう」
「あるときまでずっと一緒に暮らしておりました」
「恥ずかしいと思ったことは」
「それはあります。
でも起こってしまったことはどうしようもありません。
もう諦めています」
「私はそうはいきません」
突然怒りだした紀子に、時江はどう返事していいのか分からない。
「はあ。でもそう言われましても」
「それで主人は私と別れると言ったんですか」
「別れる?」
時江は突如笑い出した。
「何が可笑しいんですか」
「紀子さんて言いましたわね。何か勘違いしていらっしゃるようですけど」
「私、主人がてっきり時江さんと浮気しているものとばっかり思って」
「この手紙読んだらそう思うのも当然ですよね」
紀子と時江は二人して呵呵と笑ってしまった。
少し行ったところに幼稚園があったが、そのすぐ裏手だった。
紀子は気後れしながらもベルを鳴らした。
ややあって中から腰の曲がった年寄りが戸を開けた。母親らしい。
「三枝時江さんおいでになりますでしょうか」
「時江ですか。時江は今仕事にでとりますわ」
「いつ頃お帰りになりますか」
「そやな。三時くらいかのう」
紀子は時計を見た。
まだ二時少し前である。
さてそれまでどうやって時間つぶしをしたものか。
紀子が思案しているとそれを察したのか、
「すぐそこの製麺所ですわい。
行ったらええ。
親戚の手伝いで仕事も暇やけん心配いらん。
あんた時江のお友達ですかいな」
「ええまあ」
ここは言葉を濁すしかない。
母親は紀子を娘の友達と信じて疑わない。
親切に道順を教えてくれた。
途中、隧道があった。
長い隧道ではないが、隧道を一歩一歩進むごと光から遠ざかるような気持ちに襲われた。
隧道に自分の靴音が反響する。
固い靴音は紀子の苦しい胸の内をそのまま反響しているようだった。
今ならまだ間に合う。
引き返そうと思えば引き返せる。
光の過去を暴いてどうなるというのだ。
故人への愛情と尊敬を失うばかりか、自分自身だって傷付く。
それでも紀子は確かめたかった。
隧道を抜けると海だった。
隧道で丘を一つ越したせいか、風はなかった。
紀子は防波堤に腰を降ろして休んだ。
島が砂州で陸続きになっている。
かつては紀子も光もあのように心がつながっていた。
なのに一通の手紙が……。
時江の母親は紀子の訪問の目的さえ訊こうとしなかった。
島では人を疑ったり妬んだりする風習に乏しいのか。
紀子はよそ者だ。
そのよそ者がのこのこ島にやってきて他人の安逸な生活を乱そうとしている。
自分ながら厭なことをしようとしている思った。
人柄の良さそうな時江の母親の顔が、瞼の裏にちらついて痛かった。
簾のように垂れ下がった素麺が、遠くからだと流れ落ちる滝のように見える。
素麺を天日干ししていた。
塩気を含んだ海風が素麺の乾燥に適しているのだろう。
紀子は素麺の間をかいくぐって、納屋のようなところに行った。
そこが素麺の作業場らしい。
老夫婦と若い女が一人いた。
時江は遠目からもきれいだった。
紀子はどちらかといえば都会的な顔立ちであるが、時江はそれとは対照的にすべてがゆったりとした線で包まれ、一緒にいると気持ちが和みそうであった。
「ごめんください」
紀子は思いきって声を掛けた。
時江が気が付いてこちらに振り返った。
応対に出てきたのも時江である。
紀子は時江を目の前にして、不思議な感覚に襲われた。
時江は自分を全面に押し出してくるタイプではないと直感した。
その物腰から、おおよそ光と道ならぬ恋に身を投じるような情熱的な女には思えなかった。
しかし、光はどうか。
紀子のような繊細で感受性の強い女より、控えめで少し離れたところから黙って見守ってくれる女の方が気が楽だったのではないか。
肩肘張らずに自分をさらけ出すことができた。
違うだろうか。
時江はそういう類の女だった。
「何かご用でしょうか」
時江はパリッとスーツに身を包んだ紀子をやや警戒しながら眺めている。
「私、大島紀子と申します」
紀子ははっきり名前を名乗った。
「大島紀子さんですか」
紀子の予想に反して時江の反応が鈍い。
大島と聞いて少しは動揺するかと思ったが、時江にはピンとこないようだ。
顔色からしても偽っているふうでもない。
「素麺の注文は承っておりますか」
時江は紀子を完全に客人と思いこんでいる。
紀子は肩すかしを食らった。
しかしまだ分からない。
「実は少し込み入った話があってまいりました」
「素麺ではなく、込み入った話ですか」
ここではじめて時江は浮かぬ顔になった。
やはりね。

「出られますか。ここではちょっと何ですので」
時江は中の年寄りに一声掛けて出てきた。
二人は海岸近くの空き地にやってきた。
「お話というのはあの人のことですか」
時江の方が先に切り出してきた。
その方が手間が省けて早い。
「そうです。いつからの関係ですか」
「いつからと言われても」
「はっきり言ってください」
「かれこれ二十七年近くになります」
「二十七年?」
「どうかしましたか」
どうも話が噛み合わない。
「大島光という名前を聞いて何かピンときませんか」
少し驚かせてやりたくなった。
「大島光! 光ちゃんがどうかしたんですか」
ほらやっぱりそうじゃない。
知っているんなら最初からそう言えばいいのに。
それに光ちゃんだなんて随分なれなれしい。
「私、大島光の妻です」
「光ちゃんの奥さんですか。
これはどうも失礼しました。
私てっきり素麺を受け取りに来たお客さんだとばっかり思って」
時江は頭を深々と下げて丁寧な挨拶をした。
またしてもどこか変だ。
「主人とはどこで」
「どこでと言いますと」
「よく会ってたんでしょう」
「あるときまでずっと一緒に暮らしておりました」
「恥ずかしいと思ったことは」
「それはあります。
でも起こってしまったことはどうしようもありません。
もう諦めています」
「私はそうはいきません」
突然怒りだした紀子に、時江はどう返事していいのか分からない。
「はあ。でもそう言われましても」
「それで主人は私と別れると言ったんですか」
「別れる?」
時江は突如笑い出した。
「何が可笑しいんですか」
「紀子さんて言いましたわね。何か勘違いしていらっしゃるようですけど」
「私、主人がてっきり時江さんと浮気しているものとばっかり思って」
「この手紙読んだらそう思うのも当然ですよね」
紀子と時江は二人して呵呵と笑ってしまった。


コメント