小豆島恋叙情第11話 空谷の跫音 後編        鮠沢 満 作


亮介は男を待っていた。
見張り始めてもうかれこれ三十分は経つ。
ようやく男が鞄を提げて表玄関から出てきた。
真っ直ぐ駅には向かわず盛り場の方へ歩いていく。
一杯ひっかけて帰るのだろう。
男は焼鳥屋に入っていった。
亮介もそれに従った。
男の名前は黒原正和。
M商事会社の課長という肩書きである。
黒原はカウンター中ほどの席につくと、まず生ビールを頼んだ。
亮介はコの字になったカウンターの隅の席に陣取った。
ちょうど黒原の顔がよく見える位置だ。
黒原は運ばれてきたビールを一気に半分ほど飲み干した。
おしぼりで額の汗を拭き、またジョッキーを傾けた。
焼き鳥が焼ける前に大ジョッキーが空になった。
黒原はお代わりを注文すると、
「いい女だ」
と主人に言った。

主人は焼き鳥を焦がさないように丁寧にひっくり返しながら、
「また部下の女の子ですかい。黒原さんも好きですね」
と、軽く話を合わすように返した。
「書類ばかりじゃ面白くもねえ。
 若い女にでもちょっかい出さないと欲求不満になる」
「そんなにいい女ですか」
「いい女だ。竹下景子ばりのな」
「人妻にはちょっかい出さない方がいいんじゃないですか」
「人妻だからいいんだ」
「でもこの頃ただでさえセクハラとかで結構うるさいですからね。
 こちとらアルバイトの女の子にも気を遣うくらいですからね」
「そんなこと言ってちゃ何にもできやしない。
 この前なんか何食わぬ顔して胸に触ってやったけど、むしろ喜んでたくらいだ。
 女ってやつは分からねえ」
 亮介は黒原に対する怒りが湧き上がってくるのをビールでぐっと飲み下した。

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二人とも酒が入っていて、理性的に話ができる状態ではなかった。
特に黒原はかなり酒癖が悪く、酔うと絡む。
亮介は黒原を呼び止めた。
「俺に何か用か」
 黒原が横柄に言った。
「黒原さん、部下にセクハラするのはやめてください」
 黒原がぎっと睨んできた。
「セクハラだと。お前誰だ」
「三枝時江の夫です」
「三枝時江?」
「あなたずっと家内にセクハラしてるそうじゃないですか。止めないと訴えますよ」
「訴える。やれるもんならやってみろ。
 セクハラがどうしたというんだ。
 そのうちお前の女房は俺がじっくり味見してやるから安心しな」
 亮介はカッとなり黒原に組み付いていた。
 二人は揉み合い、そしてどちらからともなく殴り合っていた。
 気が付いたら黒原が路上に血を流して倒れていた。
 亮介の手にはビール瓶が握られていた。

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「私たち三人幼馴染みなの」
「主人が小豆島に住んでたなんて知らなかったわ」
「光ちゃん小学校六年のとき高松の学校に転校したの。
 私たち三人とても仲がよかった。
 光ちゃんが転校してもお互い連絡を取り合って、結構行き来してたの。
 その後、亮介は光ちゃんと同じ高松の高校に進学した。
 だからまた昔みたいな付き合いが始まった」
「そうだったの」
「あの人……私のためにあんな馬鹿なことして」
 時江は目頭を手拭いで押さえた。

 事件当日、黒原は亮介に殴られ意識不明のまま病院に運ばれたが、間もなくして死亡した。
死因は頭部挫傷。
三枝亮介は傷害致死罪で懲役五年の実刑を受けた。
情状酌量の余地があり、刑は軽減されたが執行猶予は付かなかった。
「服役するとき籍抜いちゃったの」
「あなたの意志?」
「ううんあの人。一旦言い出したらきかないの」
「それで時江さんはこっちに帰ってきたというわけ」
「小豆島でゆっくり考えたかったの。人生って何だろうって。
 だって実にあっけないんだもん。そうでしょう」
 紀子は光の事故死を思った。
 確かにあっけなかった。
「光は亮介さんにときどき面会に行っていたんですね」
「そうだと思います。光ちゃん優しいから」
「それで二人でいろいろ話した」
「光ちゃんがあの人を説得したんだと思うんです。
 あの人光ちゃんの言うことだけは素直に聞くんです」
「それであの手紙になった」
「多分」
「で、どうするつもり」
「男って勝手。
 離婚のときも一人でさっさと決めちゃって、それで今度だって一方的にこんなもの寄こして」
「亮介さんの服役はいつ終わるの」
「今月の二十三日」
「えっ! それじゃああと一週間じゃないの」
「こんな大事なこと、一週間で結論出せるわけないのに。本当に馬鹿なんだから」
「時江さんね、実はこの手紙三ヶ月ほど前に書かれたと思うの」
「三ヶ月前? それどういうことですか」
 紀子は仔細を時江に話した。

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 大島光さん(32)は、深夜帰宅途中、飲酒運転の車にはねられ死亡。
加害者、加藤雄三(26)はスナックでビール大瓶二本と焼酎を五杯ほど飲んでいた。
事故当時、加藤はほとんど酩酊状態で、青信号を横断中の大島さんに気が付かず、そのまま信号無視で走行、大島さんを轢いたと見られている。

「そんな。光ちゃんが……ねえ嘘でしょう」
「私も嘘であってほしい。そう何度願ったことでしょう。でも真実なの」
「そうですか。人生ってあっけないもんですね」
 時江もショックだったらしい。
「ほんとうに」
「紀子さん、突然ですけれどこれからお寺に参りませんか」
 紀子には時江の提案の意図が分かりかねた。
「お寺に、ですか」
「そう。光ちゃんの供養をしましょう」
 それを聞いて、紀子も納得した。


 小豆島霊場第八十一番、恵門ノ瀧。
開山は弘法大師。
恵門嶽中腹岩盤の洞窟を利用して伽藍を構え、岩窟が諸仏龕となっている小豆島霊場屈指の寺の一つである。
伽藍に覆い被さるように切り立つ懸崖は、善人を引き揚げ、
悪人を奈落の底に突き落とすかのように峻厳そのもので、
近寄るだけでこの世のしがらみと煩悩を削ぎ落としてくれそうな気がする。

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 紀子と時江は岩窟内の本尊の前に正座していた。
闇に浮かぶロウソクの火。
その奥から厄除けの不動明王像がこちらを睨んでいる。
岩からしみ出るような静けさに身を置いていると、紀子も時江もまるで自分たちが仏様の体内に包含されているような気持ちになった。
苦しみが和らぎ、怯懦が勇気に、そして猜疑が信頼へと変わっていくような気がした。

 二人とも仏にすがる思いで祈っていた。
特に紀子は、一時でも光を疑った自分の浅はかな心を打ち据えられたような心苦しさを感じていた。
夫を信じられなかった良心の呵責は紀子に大きくのしかかっていた。
紀子は自分が犯した背信の贖罪と光の魂の安息を祈った。

 長い間手を合わせていると、一時離れかけた光の心がまた紀子のそばに戻ってきた。
時江も同じで、亮介の優しさが再び時江の胸の内に蘇ってきた。
いつしか二人の顔には言いしれぬ僥倖が現れていた。
この世は無常。
いくら努力しても手に入らないものもある。
いくら尽くしても報われないときもある。
しかし、幸せとは自分が幸せと思う心を持つこと。
紀子も時江もようやくそのことが分かり始めていた。
「時江さん、主人もきっとそう思っているはずよ」

時江は指輪を取り出した。
ロウソクの炎が銀色の輪を淡く縁取る。
いぶし銀のように輝くリングの輪は回り続ける永遠の象徴であり、自分が幸せと思える心を持つことを表しているように思えた。
時江はしばらく指輪の重さを指先で確かめるようにしていた。
時江の顔から迷いが消えた。
彼女は指輪をゆっくりと左薬指に入れた。
「私、あの人を迎えに行きます」
「そうよ。それが一番いいことよ」
「光ちゃんに感謝しなくっちゃ」
時江がそう言ったとき、紀子は肩に温かいものを感じた。
光の両手がそっと両肩に添えられていたに違いない。
「あなた、有り難う」
 紀子は心の中で合掌した。

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