小豆島恋叙情第17話

春暖 終章    鮠沢 満 作

 ドアを開け、隣の部屋に入った。そしてそこにあるソファーに、よいしょ、と座った。
いつもしていることだった。
武春の死はそんな死だった。
あっけないと言えば、あっけなかった。

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 晴美は九十九折りの山道を灯台目指して車を走らせていた。
進行方向左手に海が広がっていた。白い波が、これまた眩しいばかりの白い砂浜に打ち寄せていた。
誰もいない。貨物船が我がもの顔に通り過ぎていく。
後方に残された曳航の白い軌跡が、老爺の白髭に見える。
 所々で鶯が啼いているが、子供の鶯らしく啼き方がまだぎこちない。
晴美は久し振りに口元を緩めた。
カーブを曲がったとき、助手席に置いてあったハンドバッグが落ちそうになった。
スピードを落とし、左手でそれをぐいと押さえた。
まるで見知らぬ手がどこからともなく伸びてきて、それを奪い去るのを恐れてでもいるかのように。

 武春の墓は地蔵崎灯台と備讃瀬戸が一望できる山の縁に建っていた。
墓石はまだ新しく、故人の生前の行為を飾り立てるまで古色蒼然とはしていなかった。
歳月が流れ、やがて故人が生きていたことも、ほとんど誰の記憶にも登らなくなると、はじめて墓らしくなるのだろう。
 風が吹き上げてくる。それに乗って波の音が、途切れ途切れに運ばれてくる。
五剣山と屋島が春の霞に透かし彫りされている。

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 晴美は線香と花を供えた。
「人間ってあっけないものね。
これで本当に独りになっちゃった。言ってくれればよかったのに。
神戸に転勤したのがいけなかったのね。
まともな食事もろくすっぽ摂らずに、仕事ばかりしていたんでしょう。
それに煙草。超ヘビースモーカー。
肺も悪くなって当たり前。ときどき咳き込んでたから、おかしいとは思っていたの。
でもお互い睨み合ってたから……。妻として失格ね。母にもなれなかったし……。
いっぱいいっぱい謝ることがあるの。今さら言っても仕方ないけど、ご免ね。
私が手紙受け取ったときには、あなたはもうなにもかも覚悟ができていたのね」

 晴美は少し傾いた線香を直した。
「でも嬉しかった。あなた許してくれたもんね。
あなたは一生私を憎み続けるだろうなって思っていたの。
私もあなたの気持ちを理解しながらも背中向けていた。
我が儘で意地っ張りの武春、なんてね。
 私、救われたわ。手紙の最後の一言で」
 晴美は両の手を合わせた。
「プロポーズのとき言われたきりね。あのときの言葉、今でも宝石箱にしまってあるのよ」
 真珠の粒が頬を伝った。
「愛してる、か。やっぱりいい言葉ね。
今度は宝石箱なんかにしまわずに、ちゃんと胸に付けとくわ。
干からびないようにね」
 風が肩で切りそろえた晴美の直毛を掻き上げていった。シャンプーの甘い匂いを攪拌した。

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 鶯が啼いている。
でも小一時間くらいでは進歩がなかったようだ。
やっぱり啼き方は下手くそだった。
「私、ハンコ押さなかったよ」
  そう言うと、晴美はハンドバッグから一枚の紙を取り出した。
武春が死ぬ一週間前、手紙とともに晴美に送りつけてきた離婚届だった。
独り身になってもう一度出直せということだった。

「誰がこんなものにハンコなんか押すもんですか」
 晴美は離婚届をもうこれ以上ないくらい小さく破った。まるで罪滅ぼしのように。
 晴美は小さくなった紙片を両手に包み込むと、もう一度言った。
「ご免ね。あなたの最後の言葉、これからはちゃんとブローチにして胸に付けとくわ」
 それから晴美の髪にまとわりつこうとする気まぐれな風に、これあげるわ、と言って両手を大きく空にかざし、パッと開いた。
 紙吹雪が綿帽子になって舞った。
蘇芳色の過去が後方に飛び去っていく。癒やしがたいすべてのものが、どんどん小さくなっていく。
そして最後には空の青に吸い込まれて消えていった。

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 鶯が啼いた。やっぱり下手くそだ。でも許せる。今ならすべてを。
「無」。
武春の墓碑銘である。
生きることは、無。
しかし、無の中に有を積み上げていく行為こそ生きるということである。
 自分を灯明とせよ。
武春はそう晴美に言いたかったに違いない。
晴美は、うん、と頷き、勢いよく立ち上がった。
「私、これから清滝山へ行ってみる」

 灯台が、よくやった、と快哉を叫んでいた。
ホー法華経! 鶯が啼いた。
うん、随分うまくなった。その調子だ!