エッセイ「想 遠」(小豆島発 夢工房通信)

第1話 刹那の寺

             ?H5>文:鮠沢 満     (^o^) 写真:「瀬戸の島から」
記念すべき第一話は、人生の先輩であり、私の芸術的素養の生みの親であり、
そして何より血のつながりが最も濃い人物を書こうと決めていた。
私の父である。
が、ちょっとしたハプニングで、親父の出番は後回しになってしまった。
その日は梅雨が明け切らないへんてこな天気で、
曇ったり、晴れたり、小雨が舞ったりと、めまぐるしく変わった。
しかし久し振りに過ごす小豆島での日曜日。
官舎に閉じこもっているのが勿体なく、出かけることにした。

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 そそくさと着替えを済ませると、小豆島霊場第七十六番奥の院三暁庵に出かけた。
ここは弘法大師が巡錫の途中、衣を洗われた際、
池の水があまりに少ないので井戸を掘られたとの言い伝えがある。
名前に庵が付されているとおり、ごく小さい大師堂と通夜堂があるだけの、
訪れる人とて滅多にない山寺である。

 しかしなぜそんなところへ?
もしかして紫陽花が残っているかもしれない。
そんな淡い期待を胸に出かけたのである。
車を降りると、期待を裏切らず、紫陽花が散り際の最後の花を梅雨の滴に濡らしていた。
遠くから見ると、うっすらけぶった霧に浮かんだ紫の雪洞のようであった。
境内には私以外誰もいなかった。
私一人のために最後の花を散らさず待っていてくれたことに、
何だかとても得をしたような気分になった。
 
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 その幸せな気分にひたったまま、第七十七番札所歓喜寺、第七十番長勝寺と回った。
長勝寺の掘り割りに架かる小さな石橋を渡るとすぐ正面が本堂だった。
賽銭を投げ、祈った。
本堂左に「子さずけ地蔵」があるというので、
そちらに向かうと、一人の女が手を合わせていた。
体つきと着ているものからしてまだ若い。
年の頃は三十前か。彼女を包む空気がピーンと張りつめていた。
邪魔するのも悪いと思い、私は踵を返すと、本堂右の大蘇鉄の方に歩いていった。

「あなたどちらから来たんね」
私は肝を潰した。
人影もないのに突然声がしたからである。
きょろきょろしていると、本堂から住職が顔を出した。
「土庄ですけど」
「ならあの子頼めんかい」
そう言うと、住職は先ほど「子さずけ地蔵」の前で一心に祈っていた女を指さした。
「瑠璃堂(第六十九番)まであの子乗せてやって。
 わざわざ神奈川県から来たんだってよ」
住職は女に声をかけた。
女は遍路杖をつきながらのろのろやって来た。
足取りが重い。
それに遠目ではあるがどこか翳りがある。

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「じゃあ行きますか」
 私の誘いにもちょっと頷くだけで、言葉は返してこない。
顔もこちらに向けない。
どうも私を信用していないらしい。
それも尤もな話である。
いくら寺で会ったからといって、初対面の見知らぬ男に、
乗せてやってくれ、と頼む住職の方がおかしい。
寺参りする人間がみな善人とは限らない。

 女は黙って後部座席に座っていた。
車に乗せてもらったのに、祐作に話しかけてこようともしない。
空気が固い。ひんやりとした気流のようなものさえ肌に貼り付いてくる。
果たして女は本当に後部座席にいるのだろうか?
祐作はバックミラーで女の様子を見ようとしたが、
それをしてはいけないと、第六感が告げていた。 
冷気を吐き出すクーラーの唸り音と、女がときどきもらす長い息だけが、
現実の断片として車内に浮遊していた。

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 車は長浜の海岸線を走っていた。
鈍色の海がのっぺりと広がっている。
屈折した光の関係か、豊島の手前で蘇芳色に変わろうとしていた。

「あのー」
女が小鳥のような小さな声を出した。
祐作はバックミラーで初めて女の顔を真正面から見た。
化粧気はまったくなかった。透き通るような真っ白な肌をしている。
それがかえって翳りを濃くしていた。その翳りを差し引いても、目を見張る美人だった。
「何でしょうか」
 対向車にしっかり視線を釘付けにしたまま訊いた。
「私、行く先々の寺で……」
女はそこで言葉を切った。
女の目は濡れているに違いなかった。
やはり第六感が当たった。

 瑠璃堂でも女は全身が抜け落ちて影だけになるほど一心に祈っていた。
撫で肩の後ろ姿が悲愴でさえあった。
まだ若いのに遍路とは。
私は彼女が今晩泊まる大黒屋旅館へと車を走らせた。
途中、何故か三暁庵で見た紫陽花をふと思い出してしまった。
無意識に女と重ね合わせたのかもしれない。
雪洞のように浮かんでいた紫の房。
散り際の切なさを帯びた美しさがあった。

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 私は、はっと、胸を打たれた。
女はドアを閉めようとするとき、少しはにかんだように言った。
「私、行く先々の寺で心を置いてきたんです。
 それでいいんだって。
 今日は有り難うございました。
 お陰で一つ温かい心を戴きました。
 これを切り分けながらもう少し寺を回ってみます」

 女はドアを閉めた。
私は車を出した。
三暁庵の紫陽花も数日内には散るだろう。