エッセイ「想 遠」(小豆島発 夢工房通信)


第9話 渡し船

文………鮠沢 満     写真……「瀬戸の島から」
 
車を使い始めたのはつい五年ほど前のことで、それまでは自転車を使っていた。
東京とか大阪のような大都市に住んでいる人を除けば、
この話を聞くと、へえ今時変わってるね、と言われそうだ。
実はこれ私のことなんです。でも誤解しないでください。
私は変人でもそこら辺りを徘徊している変態性高気圧でもありません。
自転車に乗って小学生や幼稚園児を狙ったり、
物干し竿に吊してある女性物の下着を物色したりする趣味は持ち合わせていない。

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 要は、現代文明に飼い慣らされたくなかっただけのこと。
そう言えばちょっぴり格好良く聞こえるが、本当は自分のトレーニングのためだった。
自転車はいいトレーニングになる。
毎日、通勤に使っていた。
だから脚力には自信があった。

 ところがつい五年ほど前、仕事が変わって、どうしても車を運転しなければならなくなった。
自転車では仕事ができない。
すると給料がもらえなくなる。
えらいこっちゃ、死活問題じゃ。
で、仕方なく車に乗り始めたという次第。
自転車でのトレーニングができないので、脚力を落とさないため毎朝四時半から走ることに。
そんなおまけまで付いた。

 車に乗り始めて、やっぱり駄目だと思ったのは、
確かに早くて便利だが、周囲のものを楽しむことができなくなったということ。
自転車だといつでも道ばたに止めて、四季の草花を観賞できた。
本当は歩くのが一番いい。
時間はかかるが、それだけいろんなものに気が付く。
特に私は花が好きなので、自転車はまさにトレーニングも兼ねた最適の乗り物だった。
私たちは、スピードが増すほど逆に細かなことに気が付かなくなったり、
周囲のことに配慮ができなくなっているのではないか。

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 土庄町小江(おえ)に沖之島という小さな島がある。
県道からほんの目と鼻の先。
泳いでも行ける距離だ。
小さな島だが、それでも現在民家が十数戸ある。
ではその人たちはどうしているのか?
 渡し船。
 今時渡し船?
そこに住んでいる人たちにしてみれば、至極不便かもしれないが、無責任な言い方だが、
私のように島外から来ている一時的な住民にしてみれば、へえ渡し船、すごいじゃん、となる。

 情緒。
日本人は情緒を大事にした。
 つまりは「空白の部分に存在する価値」を重んじたということ。
大都市東京にして、江戸情緒なんていう言葉もあるくらいだ。

   秋来ぬと
  目にはさやかに見えねども
  風の音にぞ驚かれぬる
        古今集169番 藤原 敏行

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 こんな一句が頭に昇ってきた。
すべて言わなくても相手の心が分かる。
以心伝心(以心妊娠ではありませんぞ)とか、一でもって十を知るというやつ。
それに行間を読む。
こういったものも、一種の情緒にどこか通じるもの。


 沖之島への渡しは往復百円。
この百円にあなたはどれほどの価値を見出すか。
安い? それとも高い? 
その判断は、一度乗ってからにしましょうか。
いくばくかの情緒がありますから。

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「いくらだ」
 男は不機嫌に言った。
顔はコートの襟に隠れてよく見えなかった。
「往復百円」
 船頭が言った。
「どうして、往復と決めつける」
「経験でさ」
「ふん」
 男は鼻を鳴らした。
 最終便。男は女を連れて船に乗った。
 年老いた船頭は、若い者には道理はきかねえ、そんな顔をして黙って艪を漕いだ。
 北風がぴゅーと泣いた。

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 冬、小江の港では、「げた」という舌びらめを一夜干しにする風景が見られる。
寒風に揺らぐげた。
どうしたことか、私の中ではこのげた干しの風景と沖之島への渡しが絡み付いて仕方ない。
これも情緒というやつだろうか。
空白の部分に私は何を見ているのだろう。