誰が言ったか重ね岩。誰が造ったか重ね岩。
とにかく人間業とは思えない。
とてつもなくでかい岩の上に、これまたとてつもなくでかい岩が載っているのだ。
おまけにその両側は直角の断崖絶壁ときている。
命知らずの男どもが何十人かかっても、岩を重ねるのは無理。
重機を用いても、果たして……。
じゃあ誰が? 何の目的で?
重ね岩がある小瀬の住人に訊けば、その由来が分かるだろうが、あえてそうしない方が夢があっていい。
夢づくりプロデューサーである私としては、あれこれ想像力に任せる方が楽しいと思うのだが。
そもそもこの重ね岩には、語るべき思い出がある。
大学を卒業してすぐ小豆島に出稼ぎに来たことはすでに話したが、
その頃、私は野良仕事の手伝いのため、土、日曜日にはよく家に帰っていた。
フェリーから眺める小豆島の山々の美しさに、当時も今と同じように心を奪われていた。
赴任して一ヶ月くらいしてのこと、その日も朝起きると、
朝ご飯も食べずに崩れかけの官舎を飛び出し、フェリーに駆け込んだ。
フェリーは土庄港を出発し、小瀬の沖に差しかかった。
と、そのとき、ムムムムッ、何じゃあれは?
見上げる視線の先に異様なものがある。それも山のてっぺんに。
私はキャビンを飛び出し、デッキに走っていった。
隣で居眠りこいてたお婆ちゃんが、挙動不審の私に吃驚仰天して目を丸くしていた。
私は腰の抜けた婆さんをよそに、その異様なものに釘付けになっていた。
見れば見るほど凄い。
それはまさに巨大なアポロチョコだった。
坂出と高松の境に大越半島というのがある。
五色台の歴史民族資料館からまっすぐ北に降りてきた先に、
大槌、小槌というまさにアポロチョコそっくりの島が並んでいる。
トウガンとボトウという兄弟の竜が、島になったという言い伝えがある小島である。
まさかそいつが物見遊山のついでに、ここまで足を伸してきたというんじゃないだろうな。
フェリーの右手を見た。
しかし大槌と小槌は三角帽子を海に突き出し、暢気に日向ぼっこを始めようとしていた。
「もう一度言うが、ありゃいったいなんじゃ」
以来、私の中にアポロチョコが住み着いた。
いつかその正体を確かめてやるぞ。
しかし、三年間勤務したのに、そのアポロチョコの正体を突き止めることなく転勤になってしまった。
慚愧の念に堪えない。(何を大袈裟な!)
官舎を引き払ってフェリーに乗り込んだときも、
「俺はきっと帰ってくるぞ。そのときお前の正体を暴いてやる」と、
デッキの手すりに凭れて独りごちていた。
しかしそれは負け惜しみだったかもしれない。
というのも、転勤先で仕事に忙殺される自分の姿が見えていたからである。
日々の生活に追われ、やがてアポロチョコのことも、(いやアポロチョコだけでなく小豆島のことも)
やがて忘れてしまうに違いなかった。
それが人生とはいえ、なにか忸怩たるものを拭い去ることができないままの離島となった。
「人間はときとして思わぬ力を発揮することがある。
そういうことが昔、実際に起こったんだ。
その証拠が重ね岩だ」
私はそう言って自分を納得させていた。
そうすることが去りゆく小豆島へのせめてもの思い入れの証であり、
また、たとえ一時であれ摩訶不思議な気分にさせてくれた重ね岩への感謝の気持ちと思えたからである。
二十分ほどすると、さすがのアポロチョコもその威容を失い、ただの小さな黒い点になってしまった。
山のてっぺんにチョコんと載っかった、そのどことなく憶病そうな姿に、
私は訳もなく切なくなって、涙が溢れてしまった。
「さようなら、愛しのアポロチョコ。それと、素敵な思い出をいっぱいくれた小豆島。有り難う」
真っ青な空と真っ青な海。
貼り合わせてあった色紙を、はがして二枚にしたようだ。
フェリーが白い航跡を残しながら通り過ぎていく。
その後ろ姿に引かれるように群れ飛ぶカモメ。
美幸はまたしても臆病になっていた。
素直に卓也の胸に飛び込むことができない。
「おんぶ」
「えっ?」
脈絡のない言葉に、美幸は卓也の方を見た。
泣きべそをかいたような卓也の横顔があった。
卓也は
「あれだよ」
と、重ね岩を指さした。
両側がすっぱり切り落とされた山の稜線。
見るからに身がすくむ。
巨大な岩が、「通せんぼう」の形で居座っている。
「何故こんなところに、こんなに大きな岩が?」誰もがそう訊いたに違いない。
「君を幸せにできるという保証はない」
卓也は美幸を正面から見つめ、改まったように言った。
先ほど見せた物怖じした表情はすでに消えていた。むしろ自信にあふれた卓也がいた。
「わたし、一度だめだったでしょう。だからどうしても怖くなるの」
「過去の亡霊は捨てろ。俺は、あそこの重ね岩みたいに、君を背負って歩きたい。
苦楽を共にするなら、美幸、君としたい」
卓也は美幸を胸に引き寄せた。
往路と復路のフェリーが沖合正面で重なった。
美幸は卓也の心臓の鼓動を聞いた。
ドク、ドク、ドク。
太く、強く打っていた。
その鼓動の強さに、美幸は心安らぐものを感じ、未来を重ねてみた。
「二人一緒なら、何だってできそうな気がする」
美幸は頬を胸にうずめたまま、重ね岩を見た。
〈そうね。どっちがおんぶされる方か分からないけど……〉
小豆島には甲乙つけがたい風景が随所にある。
重ね岩もその一つで、そこから眺める景色も掛け値なしに最高。
すぐ下が海。
のどかにフェリーとか漁船が行き交う様に、瀬戸の内海の優しさが伝わってくる。
それに足下が断崖絶壁のため、他のどこにもないスリルを味わうことができる。
高所恐怖症の私なんぞは、手摺りもなにもない山の稜線沿いを歩いたときには、
もう意識が遠のいてしまったほどだ。
しかしその冒険を差し引いても、余りあるものがある。
胸の奥まできれいさっぱり掃除ができる。
「う~ん、気分爽快」
この一言に尽きる。
特に夕日のシーンはお薦め。
ドラえもんの頭みたいなでっかい夕日が海に沈んでいくのだ。
(私個人としては、伊木末から眺める夕日が、ちょっぴり寂寥感があって好きだけど……
ドラえもんの頭もつい撫でたくなって捨てがたい)
私は今年三十年振りにして、ようやく「アポロチョコの正体」を突き止めることができた。
それは紺碧の空と紺碧の海に抱かれた、でっかい「夢の卵」だった。
しかし、誰が? 何の目的で?
その答えは必要ない。
なぜなら夢の卵だ。
夢に講釈はいらない。
人間はときとして、思わぬ力を発揮することがある。
そのとき「夢の卵」は孵化する。
それで十分じゃないかね、明智君?
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