文………鮠沢 満 写真……「瀬戸の島から」
『小豆島恋叙情』の中で、『迷い恋』という作品を書いたが、
もう一度違った角度から触れておきたい。
小豆島の観光事業は低迷している。
昭和四十七年頃だったと思うが、新幹線が岡山まで開通した。
そこで岡山に来たついでに小豆島にでもということで、観光客がわんさと押し寄せた。
鹿島の海岸にも、若い水着姿の男女が甲羅干しをする姿が見られたそうである。
とにかく老いも若きも小豆島へ渡ってきたのだ。
未曾有の観光ブームであったらしい。
私が五十一年に赴任したときも、まだ観光ブームは続いていた。
私は最初の二年間は土庄町吉ヶ浦の官舎に住んでいた。
夏には二十五センチくらいの巨大ムカデが出現する、それはすごいアパートだった。
最後の一年は双子浦の独身寮に移り住んだ。
この独身寮のすぐ前横に瀟洒なホテルがあった。
ホテル東洋荘。
それが名前である。
前にはプライベートビーチがある高価なホテルだった。
通勤で前を通るたび、転勤して小豆島観光に来たら一度泊ろう、と思っていた。
二度目の赴任を命じられとき、まず私が行ったところが二つある。
一つが吉ヶ浦のアパート、もう一つが双子浦の独身寮。
吉ヶ浦のアパートはまだ存在していた。
これは奇蹟だった。
私が酒を飲んであれほど破壊の限りを尽くしたのに、まだあるのだ。
まさにダイハード。
双子浦の独身寮は老朽化したので、昨年の三月をもって閉めてしまった。
うん残念。また思い出の場所が消えた。
しかし、もう一つショックなことがあった。
ホテル東洋荘。
昔の瀟洒な姿はなかった。
いつ営業を止めたのか、まさに幽霊屋敷となっていたのだ。
ホテル前のビーチに押し寄せる波だけが、昔と同じように憧憬を運んできては、また引き返していた。
銀波園もそうだった。
私の行く先々で、私の懐かしい思い出は潰されていった。
飲み屋も消えていた。
スナックも、焼き肉屋も。
代わりにパチンコ屋と巨大ショッピングモールがあった。
土庄町が『迷路の町』という触れ込みで町に遺る迷路を観光化しようと、新たな切り口で宣伝に乗り出した。
自由律俳句の奇才、尾崎放哉の俳句を染めた暖簾も店先に出ることとなった。
しかし、と私は言いたい。
観光もいいが、じっくり小豆島を考えることも大事。
気になるのは、島内に住む人たちが、自分たちの島の良さをどれくらい理解しているかということ。
慣れすぎて、ただの退屈な島。
そうなってはいまいか。
若い人は島を去っていく。
学校がないから、店がないから、仕事がないから、と。
残るのは年寄り。
年寄りはどんどん天寿を全うして物故者となる。
当然、島の人口は細っていく。
島が衰退する。
だからといって、私に秘策があるわけでもない。
まさに迷路に入ってしまった。
海賊の攻撃から身を守るため、海から吹き付ける強風を避けるため作られた迷路の町。
もう海賊はいない。
それに建具もしっかりして、ちょっとやそっとの風にはびくともしない。
名前と先人の魂だけが残り、迷路を彷徨っているというのか。
それとも迷路の町興しも一時の思いつきで、
やっぱりな、そう言われつつ押し寄せる消費社会の荒波に飲まれて消えていくのだろうか。
つい先日、「瀬戸の島から」氏と近くのうどん屋へ出かけた。
迷路を通った。
う~ん、やっぱりいいね。
二人の顔にはそう書いてあった。
質屋の崩れかかった土塀。
その中に倒壊寸前の家屋。
蔦に巻かれながらも、しっかり遺っているのだ。
土塀に触れながら「瀬戸の島から」氏が、
「立派なもんや。こんなの遺さにゃ」
それに対して私。
「日本は古いものを切り捨てて、新しいものに鞍替えした。情けない」
実際そうである。
古いものは、価値がない。
だから新しいのに取り換える。
今の日本は、この流儀だ。
あったとしても、美観地区とか文化保存地区とかいうもっともらしい名前を付けて、特別に遺しているに過ぎない。パリ、ロンドンといった大都市でも、街の外観を損ねることを恐れ、修復には許可がいる。
個人の所有だからと、勝手に外観を変えることを許していない。
屋根にしてもしかり。みな統一を保つために、同じ色。
中は、勝手にどうぞリフォームを、だ。
そのことに対して、人々も文句はない。
おらが街を守るためなら、そういう気持があるからだ。
それはひとえに自分たちの伝統文化を理解しているからに他ならない。
誤解しないでほしい。
これはパリ、ロンドン、ローマといった大都市に限ったことではなく、
ヨーロッパならどこに行っても見受けられる、日常の風物詩なのだ。
なくなって、しまった! 保存じゃ! これでは遅い。
迷路の町が町興しどころか、本当に路頭に迷わないよう、一町民としてそう切に願う。
「おい見ろよ、俺たちの町が壊されていく」
「いいじゃん、新しくなるんだったら」
「でも色も、形も、匂いも、全部変わってしまうんだぞ」
「新しくなるんだったら、それでいいじゃん。古くて、寒くって、カビ臭い町のどこがいいのよ」
「空の色だって変わるんだぞ。星の瞬きだって、温度だって。きっと人間だって変わる」
「それがどうしたというの。ピカピカの新しいのがいいじゃん。車だって新車がいいでしょう。それと同じよ」
「おい待てよ。恋だって変わるかもしれない」
男が言った。
「変わったら変わったでいいじゃん。変わったら、次の新しい男見つけるから」
女が本音を言った。
「所詮は、使い捨てかよ」
狭い路地を歩いていると、ふと昔の懐かしい風景に出逢いそうになる。
会いたい人に会えそうな気がする。
例えば土塀の角を曲がると、昔の「青い自分」が気を付けをして立っている。
好きだった彼女が日傘を持って、にっこり笑っている。
どうしても言えなかった最後の一言。
「あなたが大好き」
今ならきっと言える、この迷路の町でなら。
細い路地をあなたと手をつないで歩きたい。
何故って?
一人で歩くには広すぎて、二人では狭すぎるもの。
じゃあ、どうやって歩く?
ふふふ。
「それはね、もっと顔をこっちに寄せて。そしたら耳打ちしてあげる」
ふふふ。
「さあ、迷わないように私の手を取って。
ううん。この際、二人で迷いましょう」
コメント