第16話 散るということ(前編) |

目にしみる緋毛氈。 頭上を覆い尽くす桜花。 それを掻き破るように緑の滴りの中に屋島が萌え出ていた。 真っ白な懐紙の上には桜の花を取り分けたような桃色の和菓子。 野点(のだて)。 待つことしばし。 茶が運ばれてきた。 父のすることを真似し、両手をついて深く頭を下げた。 茶碗を手に取り、三回うやうやしく回す。 ほんのり甘い茶の香りが鼻孔をくすぐった。 背中で深呼吸を一つして、口元に茶碗を引き寄せようとした。 と、そのとき、いたずらな風がくしゃみをした。 桜の枝がはじかれて揺れ、追い立てられたように桜の花びらが舞った。一面の花吹雪。 夥しい花弁が一斉に流れ落ちる。 私という一個体が完全に裏返っていた。 表になった裏が、目の前に展開する光景を、必死になって咀嚼しようとしていた。 これは夢ではなくて現実なのだ、と。 桜は蝶が姿を変えたように、ひりひらと音もなく舞い落ちてきた。 そしてその一枚が私の持つ茶碗の底に伏した静謐に身を預けた。 真っ青な抹茶に浮いたひとひらのピンク。 それは小さな宇宙だった。 もうそれ以上加えるものもなければ、差し引くものもなかった。 器に構築された小さな空間に、すっぽり私自身が包含され、桜の花びらとともに浮いていた。 私の美的感性はこの一瞬にして生まれ、凝固した。 芸術が何たるか分かろうはずもないのに、私はそう感じた。 四十五年経った今でも、私はそう断言できる。 そのとき私はまだ小学三年生だった。 父は八年前に他界した。 私は母より父の影響を受けた。 ただし、芸術に対する感性の面においてである。 父は生涯、一介の貧しい百姓であった。 そして一人の芸術家を通した。 当時は、家族が食べていくのが精一杯だった。 父も母も朝早くから夜遅くまで野良に出ていた。 石川啄木ではないが、いくら働いても暮らしは楽にはならなかった。 そんな中、父の唯一の楽しみは、四季の自然に遊ぶことだった。 野の草花を愛し、歌に詠み、絵に描いた。 また、手製の花器に活けた。 金のない父の唯一の道楽が茶であった。
勝はPTAの参観日が嫌だった。 どうせ野良仕事の合間にやって来て、教室の戸をそっと小さく開けて、卑屈そうに入ってくる。 そしてあっちにもこっちにもぺこぺこ頭を下げるのだ。 勝はそんな母を見たくなかった。 自分自身がおとしめられた思いがするからだ。
二十分ほどして、木の戸がガタンと唸った。 戸は古くて重いうえ建付が悪く、歯を食いしばったみたいになかなか開かなかった。 緊張の糸がほどけ、全員の視線が後方の戸に釘付けになっていた。 入り口の戸と格闘していたのは母だった。 勝の予想にたがわず、母親はもんぺ姿のまま教室に入ってきた。 振り向きざまに一瞬目が合った。 母は戸口で躊躇していた。 勝の気持ちを読み取ったのかもしれない。 顔がやや暗い。背中も少し猫背になっている。 普段の気丈な母とは違った。 勝はあわてて視線を外すと、算数の演習問題を睨んだ。 だが頭の中は真っ白で、計算ができなかった。 「勝のかあちゃんだぞっ」 後方でくすっと笑う声が聞こえた。 勝は背中に焼け火箸を押しつけられた思いだった。 首をすっこめ嵐が過ぎるのをひたすら待っていた。 勝は放課後、近くの鴨川の土手に寝っ転がって悔し涙を流していた。 「おい もんぺだぜ」 同級生の囁きが耳の奥にこびり付いていた。 日が鎮守の森の向こうに落ちて、辺りが暮色を通り越して黒くなり始めて、 勝はようやく腰を上げた。
父と母は日がどっぷり暮れて家に帰ってきた。 二人とも農作業で疲れていた。 朝作った菜っ葉の茹でものの残りと漬け物で、冷やご飯を黙って口にかき込んでいた。 「勝、どうしたんね。そんなに怒った顔してからに」 母が箸の動きを止めて言った。 勝は箸を置いた。そして母を睨み付けた。 「おかしな子やね。寝たら直るわ」 母の言葉は思いやりのないものに聞こえた。 それでつい口走ってしまった。 「なんでもんぺで来たんや」 「もんぺのどこが悪いのや。お母さんの仕事着や。勝、それが恥ずかしいて怒っとんか」 「そや。みんなきれいが服着てきよったのに、母ちゃんだけや。あんな汚らしい格好して……」 父の平手が飛んできた。 「お父さん」 母は勝をかばった。 父は頬を押さえた勝に言った。 「人間の値打ちは服じゃない。汗水垂らして働くことや。 まじめにな。貧しくてもつつましやかに暮らせばいいんだ」 以後、父が手を振り上げることはなかった。 う~ん苦しいな、と勝が思ったとき、今でも頬に懐かしい痛みが蘇ってくる。

=== 後編に続きます_(._.)_ ===
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