第16話 散るということ(後編) |
子供に質素な生活の中に喜びを見出す術を教えること。
それも直接手取り足取り教えるのではなく、日々の生活の中でさりげなく。
決して押しつけがましくではなく、苦楽を共にしながらさりげなく、ね。
たくさんのお金を遺すことは?
それも大事。
でも、傲慢であっては駄目。
愛情いっぱい育てることは?
確かに愛情も大事。
でも厳しさのない愛情は、子供を根腐れさせてしまう。
人を育てるというのは実にむずかしい。
本音を出さずして、本音を伝えなければいけない。

土庄港に『二十四の瞳』の像がある。
まさに教育とは何かを考えさせる像だ。
これまで多くの女優さんたちが大石先生役を演じたが、
果たして誰が像の大石先生に一番よく似ているのだろう。
私個人としては、やはり高峰秀子さんであってほしい。
映画の中で見る高峰さんには、教師に求められる教養、優しさ、それと品位というものが漂っていた。
教育というのは、まさに人間の「品格」を教えるものではないか。

今はロールモーデル(Role model)となる大人が少なくなった。
子供たちに、清く、正しく、素直に生きろ、と言っても時代錯誤の感がある。
そんな生き方してちゃ、学校ではやっていけないよ、と返ってくる。
親も、やられたらやり返せ、と教える。
ついでにもう一つ。
楽していい結果出せよ。
それがスマートな生き方だ。
そう言ってはばからない。
あるどこかのテレビコマーシャルに、「幸せになりたいけど、頑張りたくない」というのがあった。
これを聞いたら、大石先生は何と返答しただろうか。

「敬虔な生き方をしなさい」
一通の手紙が三十三年前に届いた。
差出人は父。
昭和五十一年、小豆島は台風の上陸で未曾有の豪雨に見舞われた。
三日間で、約一、三〇〇ミリの降雨。
その結果、小豆島はほぼ全土が壊滅し、
また、あろうことか生徒が生き埋めになって死んだ。
私はただ悔しかった。
運命を憎んだ。
あってはならない、と。
父はそのことに対し、手紙でもって一言
「敬虔な生き方をしなさい」と私を戒めた。
しかし、未だに父の教えどおり敬虔には生きていない。
もしかすると、一介の貧しい百姓で一生を終えた父を、
私は生涯乗り越えることができないのでは、そう思うことがよくある。
人生に対峙する心構え、教養、品格等すべてにおいて。

春になると、散りゆく桜の下で味わった野点を思い出す。
それは小学生の私には苦かったが、大人になった今でも、
違った意味でやはりその味は変わらない。
小豆島で見る桜は、春暖の海をバックにことのほか映える。
どこに行っても海が見えるというのは、心が落ち着く。

今年は地蔵崎灯台下の公園に出かけてみた。
そこにはまだ小さい桜の木があり、小ぶりの枝いっぱいに花が付いていた。
いつの日にか大きく成長し、やがて潮風に花吹雪を散らす日が来るのだろう。
遠くに屋島が見えた。
ふと父の顔が浮かんだ。
『善く生きてこそ善く死ぬことができる』
ソクラテスの言葉である。
そして父の言葉。
『敬虔な生き方をしなさい』

果たしてどう生きよう。
今日を、明日を。
人間、散り際のことも考えておかなければいけない。
今日を、明日を。
人間、散り際のことも考えておかなければいけない。
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