瀬戸の海には、かつては鰯(いわし)がわき出てきたようです。

鰯によって支えられた島の漁村の暮らし。

そんな様子を戦前に書かれた壺井栄の随筆で見てみましょう。

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 近年まで鰯は私の生れた村の主要産物であった。
瀬戸内海の鰯は、主にいりこにしていた。
非常に美味で、煮出しに使っても今東京あたりで買うのとは段ちがいである。
(中略)
いりこを作る家のことをいりやと云った。
鰯網が沖へ出たとなると、いりやの人たちは、
頃合いを見計らって浜のいり納屋に出て待機する。沖からよく通る声で
「河内屋焚けェ」とか、
「喜悦衛どん焚けェ」とか
それぞれのいりやへ声がかかると、女たちは釜の下へ火を入れる。
大漁の時には沖からの声にも威勢が加わり、
「みな焚けえ」と叫ぶ。
釜の下をみな焚けいう意味である。
そう聞くといりやは天手古舞いで近所隣りを総動員する。
大漁は大抵夕方であったように思う。

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私たち子供の仕事は、いり納屋の前にずらりと並んだ鰯の入った四斗樽から
タモでしゃくっては、マイラセという平たい小ざるに七分目位ずつ入れて、
釜の人たちの都合のいい場所へ並べたり、鰯の中に交っている河豚をつまみ出したり、
まためばるや小鯖や小鰺などを撰り出したりするのであった。
いりやの仕事は大抵女がした。
手ぬぐいでで頭を引きしぼり、着物のの尻端折った女たちは忙しく立ち働いた。
釜の下に松の割木が赤々と燃えさかり、
天井のランプが陽気に包まれてぼんやりした光を役げていた。
仕事が終ると、さっき選りだした雑魚をざるに入れてもらって、私は得々と家へ帰った。
これだけが私のその日のお駄貨だったのである。

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 翌朝学校へ出かける順になると、浜は一ぱいに筵が敷き並べられて、
手拭や帽笠を披った女の人たちが、朝日に背を向けて中腰になり、
馴れ切った手つきで昨夜の鰯をピらぱらとまいている。
漁の多かった時には、道路の片端にも筵が並べられ、
学校の運動場から校舎の屋根のの上までいりこが干しひろげられた。
教室の窓から、銀色に光る鰯の筵を眺めることは、
子供にとってはただそれだけの珍らしさてはなかった。
大漁であれば村は潤い夏祭りは賑わうのでった。
漁の神様戎神社にお神楽も上るであろうし、
出雲から毎年やってくるだいだい神楽もはずむのでめった。
反対に雨でも降られると、いりやの人たちは雨空よりももっと暗い顔になる。
大漁の後、よく雨に降られることがあった。
そうなると、前日の苦労がくたびれ儲けになるのだから、
陰鬱になるのももっともなことであった。
それに、私か少女期を過ごし、成年期に入った頃から鰯漁は、
だんだん下火になって行く一方であった。
不漁が続き、鰯網では立ちゆかないので転業する人が増えた。

今では鰯網漁は、島ではなくなりました。

いりこを干す光景も見えなくなりました。

秋になると港にまで押し寄せてくるカタクチイワシの群れに

遠い日の鰯漁にわいた漁村の暮らしが忍ばれます。

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絵は「わたしたちの呉 歴史絵本」から転載させていただきました。