『随想 膝の上』
    
4時半に起きて、毎朝走る男
トレーニングマシンで汗を流し、胸を「洗濯板」にすることに執念を持つ男
毎週の道場通いを欠かさず「武闘家」であり続けようとする男
しかし、かつてはザックにシュラフを詰め込んで、世界の美術館めぐりをしたという。
そして、今も出勤の前には、ワープロに向かい文章を毎日紡ぎ出している。

小説「小豆島恋叙情」の作者の鮠沢満氏は、そんな男です。
彼が書きためたものを「密かに独占入手」!(^^)!
今回は、小豆島を舞台にしたものではありません。
でも島に暮らし、島に生きているからこそ生まれてきたものだと思えます。
そんな訳で(*^_^*)随想「膝の上」を、紹介していこうと思います。

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1 膝の上     鮠沢 満作


普段何気ないことが、実はとても大切ということに気が付かないことが多い。
それは膝の上にある。
膝の上というと、まさに間近である。
でも、それがじっと辛抱強くのっかっているのが見えない。
無くなっても分からない。
膝の上にのっかっているのは、「幸せ君」。
彼は大声でしゃべったり、気づいてほしいと手を振ったりしない。
ただいつも恥ずかしそうに微笑んでいるだけ。
どんなときも知らんぷりして背中を向けたりしない。
晴れの日も、雨の日も、風の日も、そして雪の日も。
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 私は迫り来る影から一粒の種を守ろうとしていた。
デジタル時計がコツコツコツと切り目を入れるようにはっきりと時を刻んでいく。
反対に記憶は過去へとコマ送りされる。
由美の顔が突然大写しになった。
いつものように完璧な歯を見せて笑っている。
背後は海。
青空を引きはがしてそのまま貼り付けたように真っ青だ。
瞳の奥まで青に染まってしまいそうだ。

由美はサンダルを脱ぐと、真っ白な砂浜に素足で立った。
そして軽やかにワルツを踊って見せた。
白いワンピースの襞がゆらゆら揺れ、強い日差しに眩しく輝いた。
波乗りしてきた風が、からかい半分に髪を掬い上げると、流線型の風の形が描かれた。
すーっと柑橘系のシャンプーの匂いがした。
 寸分の狂いもない。
 しかしそれが甘い考えだとしらされた。
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 突然、由美が「怖い」と叫んで、顔を覆うようにしてその場にしゃがみ込んだ。
 気を引こうとするときに由美がよく使ういつもの冗談だろう。
 私はくすくす笑っていた。
 しかし何かがおかしい。由美の顔が恐怖に引きつっている。
 何か不吉なものを覚え由美に走り寄ろうとしたが、何者かが強い力で押し返してくる。
 由美の躯が砂に沈み始めた。白いワンピースの裾が、砂浜に襞の数を増やしていく。
 もう胴体の半分まで埋まってしまった。
 這いつくばって手を伸ばし、やっとのことで由美の手を取った。
 そしてぐいと引っ張った。
 だが由美の手がボコっと鈍い音を立てて抜けた。
「お願い、助けて」
 由美の阿鼻叫喚の悲鳴が波の背に降り注ぐ。
  もう一方の手を差し出す由美。
 それをつかもうとする私。
 もう由美の顔の半分が砂に消えかかろうとしていた。
 さっきあれほど美しかった髪が、邪悪な蛇の胴体のようにとぐろを巻いていた。
 ゆっくり由美は砂に呑まれて消えた。
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 「由美」
私は狂ったように砂を掘り返した。
爪が剥がれ、血が滲む。
それでも掘り続けた。
辛うじて指の先に一本の髪が引っ掛かった。
慎重にそれをたぐる。
やがてもつれた髪の束が出てきた。
それを鷲づかみにし、力任せに引っ張り上げた。
  ズルッと何かぬめった音が足下で聞こえた。
 尻餅をついて後方に倒れた私がつかんでいたものは、肉のそげた由美の骸骨だった。
 茫然とするしかなかった。
 白い砂浜が何か凶暴な牙を忍ばせているように思えた。
砂浜だけではない。
押し寄せる波も邪悪なものを含んでいたし、吹き付ける風にもナイフの凶暴性が臭っていた。
 私は由美を守れなかった。
  カチャッ。
 デジタル時計がまた一つ、現在を過去に葬送するための刻み目を入れた。
それは姿を変え、私の背に十字架を残した。
背中がたわみ、きしむほど重い十字架。
私は膝の上にあるごく普通の「ささやかな幸福」さえ見えなかったのだ。

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 空気のように透明で、実際には存在するのに目に見えないもの。
もしかすると、そういったものに本当に大切なものが隠されているのかもしれない。
なぜって? 
大切なものはそう簡単には見えないから。
あなただってそうでしょう。
大切なものは、紙に包んだり箱に入れたりするでしょう。
それに鍵だってかける。
膝の上の「幸せ君」も同じ。
目の前にいるのに見えない。
ときには足を止め、その場にしゃがみ込んで、
それからじっくりと膝小僧を眺めて見るのもいい。
きっと天使のように微笑んでいる「幸せ君」が見えてくるはず。
一言「有り難う」と言ってみても罰は当たらない。
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