| 随想 膝の上第4話 誕生日プレゼント | |
| 鮠沢 満 作 | |

私の誕生日を祝わなくなって久しい。 家族が私に冷たいのではない。 また家庭が破綻しているのでもない。 四十歳の誕生日を迎えたとき、 「もうこれからは誕生日を祝わないでくれ」と言ったことが発端だった。 歳を取っていくのに、何がうれしい。 そういう思いからだった。 それにそもそもこの世に生まれてきたことが、 そんなにめでたいことなのか、それさえも定かではない。 こんな皮肉なことを言うと、罰当たり、と親に叱られそうだが、 誕生日を特別の日として祝うほど意味があるとは思えない。九月十一日。これが私の誕生日である。 あの同時多発テロが起きた日と同じ日である。 私が実際にオギャーと産声を上げた九月十一日には、どんなことがあったのだろうか。 日本を含め世界ではいろんなことが起こっていたはずだ。 記録に残るもの残らないものすべて含めて。 両親にとっては、私が生まれたことがその日の最大のニュースだったのか。 それともまた食い扶持が一人増えたくらいにしか思わなかったのだろうか。 これまでの両親の私に対する愛情のかけかたからすると、前者だったらしい。 まあ、ホッとする。 というのも、この世に生まれてきても貧困の犠牲になって、 せっかく刻み始めた命の鼓動をすぐさま奪われてしまう新生児がいかに多いことか。 それを考えると、誕生日を祝うというのは、あながち無意味でないのかもしれない。 生命賛歌の観点から言えば。
今は仕事の関係で一人暮らしをしている。 周囲には猫の子一匹いない。 あえて家族らしきものを挙げるとしたら、 携帯電話を入れておくぬいぐるみ犬モーと、 毎日我が子のように育てている観葉植物十鉢くらいか。 その日も昨日という日をコピー機で焼いたような一日だった。 無味乾燥な書類の山の処理に追われ、 また、同僚の愚痴やら文句やらの処理にと、非建設的な時間を費やした。 しがない宮仕えの身だから文句は言えないが、最近とみにくだらない仕事が多すぎると思う。 やった、という成就感がない仕事にねじふせられて、 晩ご飯も食べずにそのまま布団にもぐり込んでしまいたいと思う日が続いていた。 鉛のつまったような重い身体をなだめすけせて玄関まで辿り着いた。 キーを回してアパートに入ると、ムッとした空気が身体を包み込んだ。 締め切った部屋には残暑がねっとり付着している。 それどころか、まるで随分前からアパートの主みたいな大きな顔をして居座っていた。 疲れのせいだと思うが、自然と腹が立った。 窓を開けても冷気はおろか、一吹きの風さえ入ってこない。 背広を放り出し、身体にへばりついた下着を剥がすように脱ぎ捨てると、浴室に飛び込んだ。 しばらく冷たい水に身体を閉じこめておくと、少し気持ちがしゃんとしてきた。 バスタオルを腰に巻いたまま冷蔵庫から冷えた麦茶を取り出し、グラスに注いだ。 それを一息で飲み干したとき、携帯電話が鳴った。
メールの着信音だ。モーが口元にこぼれ落ちそうな笑みを浮かべている。 久し振りの着信音を、久しく来なかった友を迎えるような気持ちで楽しんでいるようだった。 メールの送信者は分かっていた。私のメールアドレスを知っているのは三人しかいない。 妻と娘二人。 携帯電話を取り、メールを開いた。 「お誕生日おめでとう。いつも仕事お疲れ様。これからも身体に気を付けて頑張ってね」 その日はやけに疲れていたのと、 少々気分が滅入るようなことが一週間の内にいくつか続いたこともあり、 素直な気持ちで画面に「有り難う」と言った。 と、そのとき、ふと一抹の寂しさが胸を突き上げてきた。 同時に私の脳裏をかすめたものがある。 それは娘がまだ三、四歳くらいの頃の面影だった。 アルバムのページをひらひらめくるように、 そのときどきの情景が浮かび上がっては移り変わっていった。 今は二人とも成人し小さいときの面影は微塵もないが、 彼女たちがいくら歳を取っても、私の記憶のアルバムに刻み込まれた娘の姿というのは、 どういうわけか三歳くらいから小学校に上がる前までのもが圧倒的に多い。 以後、まるで私の時間が止まったかのように、彼女たちの姿は成長していない。 それは何故?
おそらくは娘と私が肌の温もりを躊躇なく体感できた時期だったからではなかろうか。 人間も動物、無意識のうちに我が子の温もりを肌で しっかり確かめておきたい時期があるに違いない。 家族としての集団性をより強く感じられるのもこの時期をおいて他にない。 だから一番懐かしく感じられるのだろう。 私は子供が親の身近にいると感じられるのは、小学校六年生くらいまでかな、と思う。 中学校に通い出すと、子供たちはクラブ活動に友達との付き合いにと、 土・日曜日はほとんど家にいなくなる。 一家団欒という言葉は、この頃から次第に遠くなっていく。 私自身を振り返ってもそうだった。 仕事と地域の活動と、ほとんど家を空けていた。 だから娘たちとはいわゆるすれ違いで、ろくすっぽ顔を合わせる機会もなかった。 高校になると、それがより顕著になる。 子供たちは自分たちの小社会に属し、大人との交わりを疎遠にしたがる。 私の場合は、これは私の当初からの考えだったのだが、 娘が高校を卒業すると東京の大学に進学させた。 いつまでも親のそばにおいて甘えさせたくなかったからである。 彼女たちが東京に出発するとき、飛行場でそれぞれに見送った。 そのとき、ああ、もうこの子と一緒に暮らすこともなくなってしまうんだな、と思った。 「同じ屋根の下にいるということ」は、取りも直さず家族を構成する根幹ともいうべき要素だ。 それが失われた。 少なくとも私はそう思った。 東京にやらせるというのは私が仕組んだことであったはずなのに、 一抹の寂しさを覚えたのは、自然界の動物たちが子供を独り立ちさせるために断腸の思いで追っ払う、あの感覚をまさに自分自身が味わっていたからではないのか。 親子が肌を温めながら暮らせるのは、本当に短い期間なのである。
胸の中に湧いた何とも言えない感情の渦は少しの間消えなかった。 「お誕生日おめでとう」、か。 これまで祝ってもらわなかった誕生日が、大挙して一度に押し寄せてきたみたいだった。 感激が雪崩現象を起こしていた。 誕生日を気に掛けてくれる人間がいるということ。 それだけで十分過ぎるほど幸せなことなんだ。 「メール有り難う。頑張るよ。君たちも頑張るように」そう返信した。
携帯の画面を閉じたとき、もう少しで忘れるところだったものを思い出した。 私は鞄の中から一枚のCDを取り出した。 仕事が引けて部屋を出ようとしたとき、 ある同僚が 「今日、誕生日でしょう。これつまらないものですが、私からのプレゼントです」と 手渡してくれたものだった。 改めて見ると、「ショパン、ピアノ協奏曲第2番」と書いてある。 じ~んときた。 電気を消して真っ暗な中で音を一つ一つ追っていった。 身体の細胞一つ一つにピアノの音がしみ込んできた。 私はショパンが大好きだった。 その甘美な色調の海に浮かび、流木のようにぷかぷかと漂っていた。 疲れもいつしか消えていた。 三十分ばかりの演奏が終わった。 目が潤んでいた。
演奏も素晴らしかった。 この曲を私の誕生日に選んでくれた同僚の温かい気持も嬉しかった。 が、それ以上に私の気持ちを動かせたものは、 やはりさっき感じた「誰かが自分のことを気に掛けてくれている」という簡単な事実だった。 普段何気なくやり過ごしているが、実はこれほど身体の芯から温まるものはないのかもしれない。 些細でつまらなく思えるもの、モノトーンもしくは無色透明なために気にも留められないものが、 意外や桁違いな幸せを運んでくるものだったりする。 一本のメールを受け取ったとき、私の心を動かせたものは、まさにそれだったに違いない。 こんな誕生日なら、毎年祝ってもらってもいいかな。 いかんいかん。 歳を取るとすぐ調子に乗り、ずうずうしくなるのが中年おやじの悪いところだ。 いや~冥王星に届くくらいの反省じゃ。 同時多発テロが起きた日と同じ九月十一日、私は五十四歳を迎えた。 久しぶりに心満ちた誕生日になった。
九月十一日。これが私の誕生日である。
あの同時多発テロが起きた日と同じ日である。
私が実際にオギャーと産声を上げた九月十一日には、どんなことがあったのだろうか。
日本を含め世界ではいろんなことが起こっていたはずだ。
記録に残るもの残らないものすべて含めて。
両親にとっては、私が生まれたことがその日の最大のニュースだったのか。
それともまた食い扶持が一人増えたくらいにしか思わなかったのだろうか。
これまでの両親の私に対する愛情のかけかたからすると、前者だったらしい。
まあ、ホッとする。
というのも、この世に生まれてきても貧困の犠牲になって、
せっかく刻み始めた命の鼓動をすぐさま奪われてしまう新生児がいかに多いことか。
それを考えると、誕生日を祝うというのは、あながち無意味でないのかもしれない。
生命賛歌の観点から言えば。
今は仕事の関係で一人暮らしをしている。
周囲には猫の子一匹いない。
あえて家族らしきものを挙げるとしたら、
携帯電話を入れておくぬいぐるみ犬モーと、
毎日我が子のように育てている観葉植物十鉢くらいか。
その日も昨日という日をコピー機で焼いたような一日だった。
無味乾燥な書類の山の処理に追われ、
また、同僚の愚痴やら文句やらの処理にと、非建設的な時間を費やした。
しがない宮仕えの身だから文句は言えないが、最近とみにくだらない仕事が多すぎると思う。
やった、という成就感がない仕事にねじふせられて、
晩ご飯も食べずにそのまま布団にもぐり込んでしまいたいと思う日が続いていた。
鉛のつまったような重い身体をなだめすけせて玄関まで辿り着いた。
キーを回してアパートに入ると、ムッとした空気が身体を包み込んだ。
締め切った部屋には残暑がねっとり付着している。
それどころか、まるで随分前からアパートの主みたいな大きな顔をして居座っていた。
疲れのせいだと思うが、自然と腹が立った。
窓を開けても冷気はおろか、一吹きの風さえ入ってこない。
背広を放り出し、身体にへばりついた下着を剥がすように脱ぎ捨てると、浴室に飛び込んだ。
しばらく冷たい水に身体を閉じこめておくと、少し気持ちがしゃんとしてきた。
バスタオルを腰に巻いたまま冷蔵庫から冷えた麦茶を取り出し、グラスに注いだ。
それを一息で飲み干したとき、携帯電話が鳴った。
メールの着信音だ。モーが口元にこぼれ落ちそうな笑みを浮かべている。
久し振りの着信音を、久しく来なかった友を迎えるような気持ちで楽しんでいるようだった。
メールの送信者は分かっていた。私のメールアドレスを知っているのは三人しかいない。
妻と娘二人。
携帯電話を取り、メールを開いた。
「お誕生日おめでとう。いつも仕事お疲れ様。これからも身体に気を付けて頑張ってね」
その日はやけに疲れていたのと、
少々気分が滅入るようなことが一週間の内にいくつか続いたこともあり、
素直な気持ちで画面に「有り難う」と言った。
と、そのとき、ふと一抹の寂しさが胸を突き上げてきた。
同時に私の脳裏をかすめたものがある。
それは娘がまだ三、四歳くらいの頃の面影だった。
アルバムのページをひらひらめくるように、
そのときどきの情景が浮かび上がっては移り変わっていった。
今は二人とも成人し小さいときの面影は微塵もないが、
彼女たちがいくら歳を取っても、私の記憶のアルバムに刻み込まれた娘の姿というのは、
どういうわけか三歳くらいから小学校に上がる前までのもが圧倒的に多い。
以後、まるで私の時間が止まったかのように、彼女たちの姿は成長していない。
それは何故?
おそらくは娘と私が肌の温もりを躊躇なく体感できた時期だったからではなかろうか。
人間も動物、無意識のうちに我が子の温もりを肌で
しっかり確かめておきたい時期があるに違いない。
家族としての集団性をより強く感じられるのもこの時期をおいて他にない。
だから一番懐かしく感じられるのだろう。
私は子供が親の身近にいると感じられるのは、小学校六年生くらいまでかな、と思う。
中学校に通い出すと、子供たちはクラブ活動に友達との付き合いにと、
土・日曜日はほとんど家にいなくなる。
一家団欒という言葉は、この頃から次第に遠くなっていく。
私自身を振り返ってもそうだった。
仕事と地域の活動と、ほとんど家を空けていた。
だから娘たちとはいわゆるすれ違いで、ろくすっぽ顔を合わせる機会もなかった。
高校になると、それがより顕著になる。
子供たちは自分たちの小社会に属し、大人との交わりを疎遠にしたがる。
私の場合は、これは私の当初からの考えだったのだが、
娘が高校を卒業すると東京の大学に進学させた。
いつまでも親のそばにおいて甘えさせたくなかったからである。
彼女たちが東京に出発するとき、飛行場でそれぞれに見送った。
そのとき、ああ、もうこの子と一緒に暮らすこともなくなってしまうんだな、と思った。
「同じ屋根の下にいるということ」は、取りも直さず家族を構成する根幹ともいうべき要素だ。
それが失われた。
少なくとも私はそう思った。
東京にやらせるというのは私が仕組んだことであったはずなのに、
一抹の寂しさを覚えたのは、自然界の動物たちが子供を独り立ちさせるために断腸の思いで追っ払う、あの感覚をまさに自分自身が味わっていたからではないのか。
親子が肌を温めながら暮らせるのは、本当に短い期間なのである。
胸の中に湧いた何とも言えない感情の渦は少しの間消えなかった。
「お誕生日おめでとう」、か。
これまで祝ってもらわなかった誕生日が、大挙して一度に押し寄せてきたみたいだった。
感激が雪崩現象を起こしていた。
誕生日を気に掛けてくれる人間がいるということ。
それだけで十分過ぎるほど幸せなことなんだ。
「メール有り難う。頑張るよ。君たちも頑張るように」そう返信した。
携帯の画面を閉じたとき、もう少しで忘れるところだったものを思い出した。
私は鞄の中から一枚のCDを取り出した。
仕事が引けて部屋を出ようとしたとき、
ある同僚が
「今日、誕生日でしょう。これつまらないものですが、私からのプレゼントです」と
手渡してくれたものだった。
改めて見ると、「ショパン、ピアノ協奏曲第2番」と書いてある。
じ~んときた。
電気を消して真っ暗な中で音を一つ一つ追っていった。
身体の細胞一つ一つにピアノの音がしみ込んできた。
私はショパンが大好きだった。
その甘美な色調の海に浮かび、流木のようにぷかぷかと漂っていた。
疲れもいつしか消えていた。
三十分ばかりの演奏が終わった。
目が潤んでいた。
演奏も素晴らしかった。
この曲を私の誕生日に選んでくれた同僚の温かい気持も嬉しかった。
が、それ以上に私の気持ちを動かせたものは、
やはりさっき感じた「誰かが自分のことを気に掛けてくれている」という簡単な事実だった。
普段何気なくやり過ごしているが、実はこれほど身体の芯から温まるものはないのかもしれない。
些細でつまらなく思えるもの、モノトーンもしくは無色透明なために気にも留められないものが、
意外や桁違いな幸せを運んでくるものだったりする。
一本のメールを受け取ったとき、私の心を動かせたものは、まさにそれだったに違いない。
こんな誕生日なら、毎年祝ってもらってもいいかな。
いかんいかん。
歳を取るとすぐ調子に乗り、ずうずうしくなるのが中年おやじの悪いところだ。
いや~冥王星に届くくらいの反省じゃ。
同時多発テロが起きた日と同じ九月十一日、私は五十四歳を迎えた。
久しぶりに心満ちた誕生日になった。
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