『随想 膝の上』第6話 金木犀
鮠沢 満 作
イメージ 1
 窓を開けると、甘い香りが部屋になだれ込んできた。
 カーテンが少し風に揺らいでいる。
 香りの正体は裏庭の大きな金木犀。
 毎年、秋口になると甘い匂いを放つ。
 本当のことを言うと、私は金木犀に限らず匂いのややきついものを苦手としている。
 あるときバスの中で吐きそうになった経験がある。
 初めてパリに行って、路線バスに乗ったときのことである。
 途中から乗り込んできた中年の女性が、たまたま私の隣に座った。
 その女性は香水を付けていた。その匂いのせいだった。
 その女性を弁護するために言っておくが、決してどぎつい香水の匂いではなかった。
 ほのかに匂ってくる程度の香水だったが、日本の田舎で生まれ育った私は、
 そもそも香水というものに馴染みがなかった。
イメージ 2 
 百姓である私の母は、当然のことながら香水を身にまとうことをしなかった。
 母は香水よりむしろ土の匂いがした。
 太陽をいっぱい吸い込んだ、少し煙ったような土の匂い。
 パリでのカルチャーショックの先鋒は香水だった。
 今はもう慣れっこになってそういこともない。
 何度も海外に出ていると、鼻だけでなく体中の器官が自然とその土地の色、
 匂い、形に慣らされていく。
 それに香水は欧米の文化的側面の一つであると、頭の中でも十分に理解し受け容れているからである。
イメージ 3
 香水については他にまだある。
海外経験をするまでは、欧米人は概して体臭がきつい、
だから体臭を消すために香水とかオーデコロンをふりかけるのだ、
というまことしやかな定説を私自身が信じていた節がある。
それは日本人が欧米人のことを深く理解していないがために起こる妄想の類に等しい。
しかし、今はそういう偏見もない。
欧米人の体臭がきついというが、欧米人にしてみれば、彼らとはまったく異なる生活、
それもときとして彼らの目には不衛生に映るかもしれない生活を送っている東洋人の体臭こそきつい。そう思っているかもしれない。
お互い様である。
これは私たちが無知であったり、
他国及びそこに住む人々に無関心で浅学であったりすることから来る偏見である。
この種の偏見は少し努力すれば改善される。
香水を使うのは、耳にピアスをしたり、爪にマニキュアをするのと同じで、
一種の身だしなみの一つである。
そう考えれば、ことさら奇異でも何でもない。
 イメージ 4
しかし、つい先日経験したことは、頭でいくら理解してもそれでカバーできるものではなかった。
何十年か振りに香水の匂いで吐きそうになったのである。
家に帰る列車の中、仕事で完全に疲労困憊していた私は、座席に沈み込むように座っていた。
するとどこからともなくそれは匂ってきた。
最初は鼻先をかすめる程度だった。
が、匂いは次第にきつくなっていった。
出発時間数分前というときには、もうその車輌に充満していたのだ。
それに仕事を終え帰宅する乗客で随分と混んでいた。
人いきれと香水の匂いがコラボレーションして、とうとう私の中枢神経を刺激してしまった。
昔の弱点が蘇ったのである。
頭はずんやり重く、胃の周辺が軽く蠕動し始めていた。
今回はノートルダム寺院もセーヌ川も見えない。
嗅覚がやられても視覚で慰めるものがあれば救いなのだが……。
イメージ 5
 私は吐き気を我慢しながら人並みの隙間から匂いの震源地を探した。
当然、女性をターゲットにした。
しかし、分からなかった。
携帯電話でメールを打つ人、雑誌に目を通す人、疲れで居眠りする人と様々だったが、
どうもその服装からして香水の主とは思えなかった。
そのとき他の乗客はどうだったか。
観察してみると、みな迷惑しているだろうが、平然としている。
私のように気分を悪くしている人間など一人もいなかった。
 う~ん、私の神経が過敏なのだろうか。
 香水のことを頭からはじき出すために、意識を窓外に転じた。
漆黒に近い闇が茫々と広がっている。
汽車は田園地帯を走っていた。
家の灯りがちらちらたき火のように、ぼーっと浮かび上がる。
その先には里山の稜線が、うっすらと空と境界線を分かち合っている。
イメージ 6 
列車は高松を出て約二十分後、無人駅に停車した。
人並みがごっそり剥がれたように車外に吐き出された。
私の前に立っていた大半の乗客もそこで降りた。
そのとき、すーっと一筋のきつい香水の匂いが鼻孔を刺して動いた。
私はその後を視線で追った。
なんと震源地は男だった。
それも若い、ちゃらちゃらとした男。(おっと失礼。ちゃらちゃらかどうか中身までは分からない)
破れたジーンズにぶかぶかのTシャツ。
股下短いジーンズから、絵柄の派手なパンツが、今晩は、と舌を出していた。
「ああ~」
 吐息が私の隣のご婦人から漏れた。
彼女は大きく深呼吸をしていた。
なるほど、男は彼女の右隣に座っていたのだ。
私は彼女の吐息に苦笑し、そして何よりも安堵した。
いや、本当に安心したのだ。
私と同じことを考えている人間がいたこと、それがどれほど私の心を軽くしたことか。
パリのセーヌにノートルダム大聖堂。
ルーブルにオルセー美術館。パリには香水が似合う。
私も結構大人になったものだ。 
イメージ 7