『随想 膝の上』第11話 胸キューン話

鮠沢 満 作
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 随分昔になるが、友達から次のような話を聞かされたことがある。
そのときぐっときたことを今でも覚えている。
私の友人Tは東京の大学を卒業すると郷里に帰り、地元の大手有力銀行に勤めるようになった。
真面目で人当たりが良く、それに頭も切れたので、有り体に言えば出世街道を走っていた。
Tもそれなりに手応えを感じていた。
しかし、子供が脳性麻痺で生まれ、治療に明け暮れることになる。
最初は奥さんが主に子供の面倒を見ていたが、
いい専門医が東京にいるということで、仕事の合間を縫っては治療に通った。
次第に年休が多くなり、さらには治療費のために
自分が勤める銀行の預貯金も解約するという立場に追い込まれていった。
当然Tの評価は落ちた。
このとき上司は、Tの置かれた状況を分かっていながら、
思いやりという気持を前面には出さず、ただ業務成績が思わしくないとしたのである。
業績一点張りの地方銀行のやりそうなことだった。
企業一番、従業員は番外。
結局Tは銀行を捨て、家族を取った。
銀行での勤務は約八年だった。
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 Tはふる里を捨て奥さんの実家のある静岡へと移っていった。
世間体を憚るような人間ではなかったが、
それでも田舎に住んでいた彼には世間の目が気になったことは間違いない。
それに静岡の方が距離的にも東京に近く、通院にも便利だったことも理由の一つだ。
 静岡に移って職探しをし、市内の大きな本屋に就職した。
Tの銀行員としてのこれまでの知識、それに人柄も手伝って、
一年半ばかりで経理・営業を任されることになった。
が、給料は銀行勤めをしていたときとは比べものにならないくらい減った。
医療費もバカにならず、仕事がない日曜日には宅配便のアルバイトをやった。
 ある日、新入社員が入ってきた。
以前どこかの会社に勤めていたのを退社し、転職してきたのである。
一見してそれも納得がいった。
口が重い。
その上、身だしなみもどこか普通でない。
普通でないというのは、若い女性であれば当然気に掛けるであろうような化粧、服装、
そういったものには興味がないといった印象だったのである。
短大を出ているということだったが、どうも人付き合いが苦手のようだ。
恐らく前の会社でも口数が少なく社交性に欠けたため、
人間関係の構築がうまくいかず居場所を失ったに違いない。
聞くところによると、親の縁故で本屋に再就職してきたということだった。
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 名前は桐子。
桐子はTの下で働くようになった。
が、Tが値踏みしたとおり仕事ぶりも思わしくなかった。
言われたことはちゃんとやれるのだが、客相手となるととたんに態度が硬くなる。
口がうまく動かない。
客との受け答えがからっきしダメなのである。
しばらくすると、彼が危惧したような事態になった。
自信を失い、周囲の者ともコミュニケーションが取れなくなり、まさに四面楚歌。
 Tはある夕方、仕事がひけるのを見計らって桐子をいっぱい飲み屋に誘った。
ひょっとすると彼の誘いを断るかな、とも思った。
なにせ相手は固い鎧を全身にまとったこちこち女。
それに誘った先が、飲み助が集まる小汚い焼鳥屋である。
彼は騒がしい方が周囲のことを気にせずに、本音で話ができると考えたのである。
 桐子はカウンターに俯き加減で黙って座っていた。
ジョッキーのビールにもさらに並べられた焼き鳥にもなかなか手を出そうとしない。
 Tは単刀直入に切り出した。
「俺は本音でしか物を言わない。
桐子さんに言っておきたい。
自分に自信が持てないんだろう。
周囲のことを気にして、自分の欠点ばかり見える。
だからそれを直そう直そうと焦って、かえって泥沼に入っていく。
そして結局は自分にまた失望。
でもね、自分のいいところを出せばいいんだ。
他人がどう思おうが関係ない。
自分のいいところだ。分かる? 
自分に関して一番自信が持てるもの、それを精一杯出すんだよ。
そしたらもう一人の引っ込み思案だった桐子さんがにっこり微笑む。
例えば、他人を恨まない、羨望しない、貶めない。これだけで十分さ。
実を言うと、これができないやつがこの世の中にはわんさといる。
うわべを繕ってなかなか本音を出さない。
いつも警戒心を解かない。
隙あらば自分のいいように他人を利用する。
そういう連中さ。
でも桐子さん、君は純粋だ。
心がきれいだ。
だから悩むんだ。
逆説的な言い方かもしれないが、そんな君を自慢したらいいんだよ。
もっと誉めてやったらいいんだよ。
 さあ、へこんでないで飲んで食べて。ここの焼き鳥、最高だよ」
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 この言葉に桐子の態度が変わった。
頬が心なしか緩んだのだ。
それからは仕事のことだけでなく、個人的なことも少しずつ話すようになった。
心に余裕が生まれたのか、周囲の人間ともうまく波長を合わせることができるようになった。
彼はひとまず安心した。
しかし、事件が起こったのはそれから一ヶ月くらいしてからである。
梅雨に入って鬱陶しい日々が続いていた。
軽い昼食を済ませて店に戻ると、ほっとする間もなく午後の仕事が始まった。
桐子は新刊本の入れ替えをしていた。
そこに少しインテリ風の男性客がやってきた。
彼はメガネをすこしずらしながら本を探しているようだった。
視線があちこち飛ぶ。
少し神経質だ。
それに苦虫をかみつぶしたような顔。
哲学者のような面相に、Tは彼が店に入ってきたときから嫌なものを感じていた。
 桐子がへまをしなければいいが……。
 彼の不安は的中した。
 その哲学者男は、探している本が見つからなかった。
つかつかと桐子に近づいていくと、何を思ったのか桐子の背中に手を置いた。
桐子は仕事に気を取られていたので、突然背中を触られて不意打ちを食らった状態になった。
 キャー。
 桐子は思わず悲鳴を上げ、そして
「何するんです、この変態が」
 と、その哲学者男に向かって叫んでいた。
桐子の目には恐怖心が宿っていた。
しかし、普段のおどおどした桐子からは想像もつかないくらいはっきりとした口調だった。
当然、悲鳴も罵声も店員だけでなくそこにいた客にも聞こえた。
みんなの視線がその哲学者男に注がれたことは言うまでもない。
 哲学者男は自分が痴漢に勘違いされたことにとまどっていたが、すぐに
「俺はただ探している本がどこにあるのか訊きたかっただけだ。
それなのにこいつは大声を出して、それに俺を痴漢扱いしやがった。
この店は従業員にどういう教育をしているんだ」
 と、逆に息巻いて形勢を立て直してきた。
 Tはすぐさま二人の間に割って入り、
「責任者のTと申します。
とんだ失礼をしました。何分店に出てまだ間がないもので、
これからご迷惑にならないようよく教育をいたしますので、今日のところはご勘弁のほどを」
 Tはひたすら平身低頭の姿勢を保ち続け、嵐が収まるのを待った。
哲学者男はTの取りなしに少し不満だったが、桐子にも頭を下げさせたので、一応事は収束した。
後で訊くと、むかしストーカーに狙われたことがあって、
それ以来男性に対して神経過敏になっていると説明された。
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 それから桐子の状態が悪くなった。
またしても自分の弱点が表面化した状態になり、Tがいくら助言を与えても軌道修正はできなかった。桐子は責任感が強く、自分の失態が許せなかったのだ。
 結局、本屋を辞めることになった。
 Tは桐子のために送別会を開くことにした。
同僚が数人集まる小さな送別会だったが、その当日の朝、出勤しようとすると、
玄関で奥さんが、
「あなたこれ」
 と言って封筒をTに差し出した。
「何だ」
「今晩、送別会でしょう。桐子さんだったかしら。彼女を精一杯励ましてあげて」
 Tは頭をゴツンと殴られたような衝撃を受けた。
感激の衝撃だった。
家計は決して楽ではなかった。
子供の治療費に精一杯の生活で、飲み会に回す金銭的余裕があるわけではない。
それなのに黙って夫のために封筒を差し出す妻。
 Tの頭をよぎったのは、かつて勤めていた銀行だった。
上司の感情に乏しい顔が浮かんだ。
俺は上司には恵まれなかったが、それよりもっと大事なものが見つかったぜ。
禍転じて福と成す。
まさにこれだな。
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 その夜、Tは桐子のために最大の慰労をしてやった。
送別会の別れ際、桐子が言った。
「素敵な男性に巡り会えたこと、感謝しています。一生忘れません。
初恋ってこんなのを言うんでしょうね。
もう終わったけど」
「前に向いて歩いてくれ。胸を張って。自分のいいとこを信じてな」
 Tの目頭は酒の酔いでもないのに、熱くなっていた。
 Tは今でも日曜日には運送会社でアルバイトをしている。 
写真は小豆島小部(こべ)のある民家の庭先の光景です。