第12話 すっぱいみかん(後編)
鮠沢 満 作
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 眠っていると思っていた父親がじっとこちらを見ていた。
どんより濁っているが、直線的な視線である。
意思が宿っている目だ。
これまでに何度も見てきた。
だから道夫にはよく分かった。
「どうした親父。季節外れの蚊でもいるんか」
わざととぼけて訊いた。
病室で訊くような質問ではなかった。
心がくすんで、暗澹の底に滑り落ちていくようだった。
父親の乾いた唇が少し動いた。
しかし、声にはならなかった。
邪険にもできず顔を唇に近づけた。
それがせめてもの思いやりだった。
ひび割れた唇に終焉の兆しが浮き始めているのを、弥が上にも感じないではおれなかった。
あんなに筋肉隆々だった父親が、今では骨と皮に近い。
父親の青春がどんどん遠くなっていく。
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「ミカン」
 かすかではあるが今度は声になった。
声は嗄れていた。
乾いているのだ。
声が。
「駄目だよ。医者に止められてる。水分を控えるよう言われているだろう」
道夫は会話を切りたかった。
「その紙包みの中に入っている」
父親はミカンにこだわった。
直線的な視線を道夫から外さず、舌で唇を舐めた。
ねばつく唾液が薄く糸を引いた。
父親の意図するところは明らかだった。
道夫は急須に残っていた茶を少しだけ湯飲みに注ぎ、口に含まそうとした。
しかし父親は顔をそむけ、拒否した。
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「道夫、ミカン」
父親はなおも食い下がった。
声は何億光年もの彼方から落ちてきたような虚ろさがあった。
目には恨みに似た光があった。
道夫は迷った。
天井に目をやり黒ずんだ斑点を数えてみた。
この病室で、これまで何人がこの黒ずんだ斑点を数えただろう。
退院までの日数、それとも死までの日数? 
ますます気持ちが沈んでいった。
そして答えはやっぱり、ノーだった。
道夫は頭を振った。
「この親不孝者が」
 非難の言葉が今度は輪郭をはっきり留めた。
「そう、俺は親不孝な倅だよ」
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 その二日後、父親は死んだ。
 ミカン一つをあれほどほしがった父親。
 なのにそれをくれてやらなかった倅。
 以降、道夫はミカンが食べられなくなった。
 酸っぱいミカン。
 ふとした折に、その酸っぱさが間歇泉のように吹き出し、
 胸にしみ渡ることがある。
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 人は思い出には生きられない。
誰かがそう言った。
思い出は時間と共に薄れていくものだから、と。
でも逆に、時間の経過に抗うように鮮明になっていくものもある。
それは自分が歳を取ることによって、当時分からなかったことが、
突然霞が晴れたみたいに鮮明に見えてくるからである。
そのとき胸の内にくぐもっていたものが飛散し、
新たなる法悦感を与えてくれたりする。
もしくは虚飾が剥げ落ち、地肌が露呈して愕然とすることもある。
人はみな毎日を賭け事に生きている。
右に転ぶか左に転ぶか分からない。
どんなに賢明な考えの持ち主でも、
ふとしたきっかけから幼児が犯すような過ちに走ることがあるし、
のろまで影の薄い人が、起死回生の逆転ホームランを放つことだってある。
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 見下ろすと、坂手の家並みが肩を寄せ合ってかたまっていた。
古ぼけた町並み。
じっと息をつめたような空気。
すべてのものが色彩を失い、セピア色に塗り込められていく町。
でもそこに細々と息づくものがある。
陶器の背中がかすかに動いていた。
豆の皮剥きをする老夫婦が、橙色のミカンの間に見え隠れした。
これからは思い出に花を咲かすことが楽しみになり、
新しい冒険を嬉々とした表情で語ることもなくなる。
たとえ心の天秤を振らすことがあっても、
それは手の平にちょこんと載るくらいほんの小さなことに違いない。
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 私は失礼とは思ったが、一個ミカンを枝からもいだ。
光沢のあるつやつやとしたオレンジ色を確かめると、そっと鼻先に近づけてみた。
苦さを含んだ甘美な香りがあった。
日曜日。
午後のひととき。
秋色の風。
父親の憔悴した顔。
「親父、さあ取れたてのミカンだ。今度こそ食べていいよ」
 オレンジ色が目にしみ、ミカンが網膜の上で崩れていった。