第19話 プラットフォーム
鮠沢 満 作
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 私は急いでタラップを降りた。
フェリーが予定より五分遅れて接岸したからだ。
あと三分少々で列車が出発する。プラットフォームは二番線。
が、この二番線がくせもので、一番線、三番線、
そしてそれに続く四番線以降のプラットフォームは、
刈りたての頭みたいに横一列にきちと揃っているのに、
この二番線だけどいうわけか一番線と二番線に押し出されたように奥まったところにある。
ヨーロッパの駅ではこういったことはさほど珍しいことではないが、
数年前に立て直したばかりの新駅舎ということを考えると、
どうしてかな、と納得がいかない。
なぜわざわざ二番線だけ輪から弾き出したように奥まったところに作ったのだろうか。
出発時間が迫っているためか、目指す二番線は普段以上に遠い。
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 秋の夕暮れは本当につるべ落とし。
さっきフェリーからぼた餅のようにでかい夕陽を見たばかりなのに、
駅構内はすっかり闇の皮膜に包まれている。
雨よけの屋根に取り付けられた蛍光灯から吐き出される白っぽい光にも暗さが忍び込み、
行き交う人が亡霊のように現れては消えてゆく。
腕時計に目をやる。
ぎりぎり間に合いそうだ。
プラットフォームの中ほどに自販機があった。
その前に黒い人影が見える。
小さい。縮こまってるようだ。
私は小走りに通り過ぎようとした。
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「あの~」
遠慮がちな女の声がした。
私は一瞬逡巡したが、立ち止まり、声の方に振り向いた。
小さな黒い影の正体は老女だった。
手に何か持っている。
眼窩に沈んだ目が憶病そうに私の反応をうかがっている。
「どうかしましたか」
「ええ。これなんですが……」
 老女は何か差し出した。
それは缶コーヒーだった。
まさか私にくれるというのではあるまい。
「これがどうか」
「これ、固くて開かないんです」
老女の小さな手から缶コーヒーを受け取った。
熱い缶コーヒーの温もりが手の中に広がった。
私は造作なくプルトップを引き上げた。
「さあどうぞ」
 老女の顔に笑顔が咲いた。
「ありがとうございます。今日は寒くて……」
老女は感極まったように言うと、何度も何度も頭を下げた。
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 私が飛び乗ると、列車は錘が外されたように構内を滑り出した。
車窓を街の灯りがなぞって飛んでいく。
老女も背後の闇に紛れ、過去の時間の一部となって消えていった。
なのに老女の残像が頭を離れない。
私が考えていたのは、母のことだった。
母もあの老女と同じように、缶コーヒーのプルトップを開けられずに四苦八苦しているのだろうか。
よく考えると、もうその年齢だ。
プルトップさえ開けられなくなった母。
最近忙しさにかまけてそんな母のことを忘れていた。
プラットフォームのベンチにぽつりと座り、
缶コーヒーの温もりで手を温める老女の姿が、老いた母と重なった。
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 プラットフォーム。
再開の喜びと別れの悲しみを綴る場所。
そして帰る場所を持たない人間に最も孤独を押しつける場所。
胸の奥に小さな痛みが走った。
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