原付バイクで旧琴南町下福家をフィールドワーク中に見つけたのが

谷を越えた勝浦方面に大きな建物を発見

旧長善寺(まんのう町勝浦)
石垣と白壁に囲まれた要塞のような印象。そして屋根が茅葺き?
早速行ってみることにします。
長善寺は十五世紀の開基といわれる由緒ある寺である。勝浦本村の中央の山辺に、城郭を想わせる高い石垣を築き、自亜の上壁に囲まれた境内に、総茅葺の本堂の偉容が見られる。石垣の下に近づくとその中央に数十段の石段があり、上を仰ぐと茅葺の鐘楼が頭上に立っている。
正面の階段を上ると・・茅葺きの鐘楼がありました。
長善寺鐘楼 鐘がない!
しかし、つり下がっているのは大きな石材です。鐘はどこへ行ったのでしょうか?
この鐘楼は、簡素であるが四天柱は八角で珍しく、足元にふんばりがある。軒の出がやや浅いが、腰貫、飛貫、頭貫があり、台輪木鼻付、組物出三斗、中備平三斗、軒一軒角半繁垂木、妻飾り木連格子である。万延元(1860)年の棟札があるが、様式的には十八世紀末ころのものである(「香川県の近世社寺建築調査報告書」)
本堂は、痛みがひどくなっています。
旧長善寺本堂
本堂は桁行14mもある大型の仏堂で、茅葺の大屋根は独特の風格を持っている。正面中央間に大虹梁を架けて間口を五間とし、前面に一間の向拝がつく。内部は内陣、左右の余間及び外陣からなる。外陣は奥行四間と広く、内陣・余間境筋に計四本の角柱が建つのみで大虹梁を架けて内部柱を省略している。建立年代は、宝暦六子(1756)年という記録があり、絵様や蟇股などの形式からも、十八世紀中ころの建立と思われる。なお、来迎壁裏面に寛政五年の記のある法要定式、縁板裏面に安政六年の修理時の墨書がある。後世の修理も少なくほとんど当初のままを残し、保存のよい総茅葺本堂として極めて価値が高い(「香川県の近世社寺建築調査報告書」
長善寺は、勝浦地区の政治・文化・宗教センターとして機能してきたお寺のようです。
この寺の由緒には、勝浦を拓いた勝浦権右衛門の三男が出家して南都興福寺に台密を学び、帰って天台宗寺院を開いたとします。その後、永正3(1506)年に、了道が浄土真宗に改宗したとします。長善寺は、阿波美馬の安楽寺の末寺でした。本山の安楽寺は、三好氏の保護を受けて、阿讃山脈を越えた讃岐方面に教線を伸ばしていきます。それは三好氏の丸亀平野への進出と重なります。三好氏が長尾氏などの讃岐国衆を従えた所では、安楽寺に対して「布教の自由」が認められます。そこへ安楽寺で鍛えられた僧侶がやってきて、人々の心をつかんでいきます。村々に「道場」が開かれ、それが後には浄土宗興正寺派の寺院に成長して行きます。長善寺や尊光寺、寶光寺などの大きなお寺も安楽寺の末寺でした。そういう意味では16世紀初頭の永世の錯乱後の三好氏の讃岐進出は、阿波人の入植と、浄土真宗興正寺派の教線拡大ということをもたらしたことは以前にお話ししました。
この寺は、中世からの開発によって多くの土地を所有していたようです。
勝浦地区の水田は、野田小屋や勝浦に横井を作って水をひくことから始まりました。
潅漑施設を作り、独占的に占有します。野田小星川の横井は、長楽寺が開設したので寺横井、勝浦川横井を酒屋(庄屋の佐野家)松井と呼んでいます。藩政時代には、長善寺と佐野家で村の田畑の三分の一を所有しています。
勝浦地区の水田は、野田小屋や勝浦に横井を作って水をひくことから始まりました。
潅漑施設を作り、独占的に占有します。野田小星川の横井は、長楽寺が開設したので寺横井、勝浦川横井を酒屋(庄屋の佐野家)松井と呼んでいます。藩政時代には、長善寺と佐野家で村の田畑の三分の一を所有しています。
長善寺の檀家は千戸を超え、その半分は阿波の門徒と言われました。茅葺き屋根の葺き替えの時には、多くの門徒が藁を担いでやってきたといいます。もともとは阿波にあった寺院が、勝浦に進出してきたことがうかがえます。
昭和の初期までは「永代経」や、「報恩講」の法要には多勢の參拝者が阿波からもやってきて、植木市や露天の出店などでにぎわい、また「のそき芝居」などもあって門前市をなす盛況だったようです。確かに勝浦は、真鈴峠や二双越えによって人とモノが移動する阿讃交流の道の上にありました。峠を越えた交流の舞台が長楽寺だったようです。
長善寺から50mぐらい下の道路上に観音堂があります。長善寺にあった阿弥陀像を、政所(庄屋)佐野家が譲り受けてお堂を建てて祀ったものとされます。それから地元民の信仰の場として受け継がれてきました。今も新たなお堂を建て地区の集会場として維持されています。
長善寺の下にあるのが庄屋佐野家です。
勝浦五郎左衛門明久は、もともとは阿波三好家一族の者でした。それが故あって、この地に来て住みつき勝浦家の養子となります。。その曽孫次郎左衛門高甚は、曽祖父の里方の姓をとり佐野に改姓します。そして、寛永十九(1642)年、高松藩に召し出され祐筆役となり、禄百石を得ます。助右衛門の死後、その子は幼年で跡目相続ができず退官して勝浦村に帰ってきます。その子・次郎左衛門高家は、浪人身分でしたが、元禄15(1702)年に政所役を仰せ付けられます。そして明治になるまで、政所や庄屋を代々務めます。(佐野家系図)
天保六(1835)年2月26日の冬、藩主松平頼恕公は、阿讃国境視察と、大川山参拝のために高松を出発して七箇村を経て28日には大川権現に参詣しました。その日は勝浦村庄屋佐野佐蔵宅で宿泊し、翌二十九日には川東村円勝寺で御昼休みをして、焼尾で御芝立の後、羽床村を通り、二月一日帰城されている。焼尾付近では鷹狩が行われ、近在の猟師も召し出されて手伝っています。名目は鷹狩りですが、実際の目的は讃岐と阿波との境の警備などの視察であったようです。このための道の修理とか準備に召し出された村民は、川東村だけでも1404人にものぼったことが庄屋文書に記録されていることは、別の機会にお話ししました。
「生きることはすばらしいしかし いつまでも生きられないことを知ったときそれはさらにすばらしい」
この言葉を繰り返しながら境内で「哲学」(?)しました。
境内は綺麗に手入れされています。
庫裡には人も住まわれている気配。
それと、あの鐘はどこに・・
現在の長善寺
旧勝浦小学校前に突然現れた新寺。
これは本勝浦にあった長善寺が「移転」してきたものなのです。
そして、鐘もここへ移されているようです。
その後、本堂や鐘楼も撤去されていまは更地になっています。
その後、本堂や鐘楼も撤去されていまは更地になっています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
改訂版 2025/09/01
参考文献 切畑の多かった村 勝浦 琴南町誌 949P
改訂版 2025/09/01
参考文献 切畑の多かった村 勝浦 琴南町誌 949P







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