増田穣三銅像の台座碑文には何が書かれているの?
仲南町史を調べてみると増田穣三についての記述は何カ所かありました。銅像が建つくらいだから町誌に載るのも当たりまえかもしれません。以下町誌に載せられている台座の文章を紹介します。

増田穣三の銅像碑文(仲南町誌1319P掲載分より)
安政元年(1858 8月15日)生 昭和14年(1939年2月22日)没
春日 増田伝二郎の長男。秋峰と号す。翁姓は増田 安政5年8月15日を持って讃の琴平の東南七箇村に生る。伝次郎長広の長男にして母は近石氏なり 初め喜代太郎と称し後穣三と改む。秋峰洗耳は其に其号なり 幼にして頴悟俊敏 日柳三舟 中村三蕉 黒木啓吾等に従うて和漢の学を修め 又如松斉丹波法橋の門を叩いて立花挿花の菖奥を究め終に斯流の家元を継承し夥多の門下生を出すに至れり
明治23年 村会議員と為り
31年 名誉村長に推され又琴平榎井神野七箇一町三村道路改修組合長と為り日夜力を郷土の開発に尽くす
33年 香川県会議員に挙げられ爾後当選三回に及ぶ
此の間参事会員副議長議長等に進展して能く其職務を全うす
35年 郷村小学校敷地を買収して校舎を築き以て児童教育の根源を定め又同村基本財産たる山村三百余町歩を購入して禁養の端を開き以て副産物の増殖を図れり
45年 衆議院議員に挙げられ
大正4年再び選ばれて倍々国事に盡痙する所あり
其年十一月大礼参列の光栄を荷ふ
是より先四国縦貫鉄道期成同盟会長に推され東奔西走効績最も大なりと為す。翁の事に当るや熱実周到其の企画する所一一肯?に中る故に衆望常に翁に帰す。
今年八十にして康健壮者の如く猶花道を嗜みて目々風雅を提唱す郷党の有志百謀って翁の寿像を造り以て不朽の功労に酬いんとす 。 翁と姻戚の間に在り遂に不文を顧み字其行状を綴ると云爾
昭和十二年五月
東京 梅園良正 撰書

碑文の中にもあるように増田穣三が生前80歳の時に建てられたよ
うです。年表で示すと
うです。年表で示すと
1934 昭和9年9月 増田一良 第6代七箇村長就任1937 昭和12年 増田穣三の銅像建立(七箇村役場前)→ S18年銅像供出1938 昭和13年 山下谷次の銅像建立(村会の決議で)→ S18年銅像供出1939 昭和14年 2・22 増田穣三 高松で死去(82)七箇村村葬により手厚く葬られた。1963 昭和38年3月 増田穣三の銅像が塩入駅前に再建その際に顕彰碑は以前の物を使用。

建立を進めたのは当時の町長増田一良で、増田穣三とは従兄弟にあっるようです。最初、七箇村役場前(現在の協栄農協七箇支所)に等身大のものが建てられました。しかし、戦時中の金属供出のため撤去。そして、戦後になって、場所を変えて塩入駅前に再建。
ということでしょうか。
増田穣三について分かったことは?
第2代の七箇村長と県会議員を兼務しながら、大正時代の初めに衆議
院議員として国政にも参加した人物のようです。なかなか面白くなっ
てきました。この顕彰碑文と町誌を参考にもう少し調べてみます。
院議員として国政にも参加した人物のようです。なかなか面白くなっ
てきました。この顕彰碑文と町誌を参考にもう少し調べてみます。
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