増田穣三がどんな教育を受けたのかを見てみましょう。
穣三の生まれは安政元年(1855年)。
安政の大獄間際で幕末に向けて時代が激流化していく時期だ。金比羅山のお膝元である天領榎井では、日柳燕石が博徒の親分としてブイブイ言わせ、後には高杉晋作などの尊皇の志士たちが琴平の地を活発に行き交う時期に当たる。
安政の大獄間際で幕末に向けて時代が激流化していく時期だ。金比羅山のお膝元である天領榎井では、日柳燕石が博徒の親分としてブイブイ言わせ、後には高杉晋作などの尊皇の志士たちが琴平の地を活発に行き交う時期に当たる。
三舟の父 日柳燕石
こんな時に幼年期を過ごした穣三が師事した人物については「日柳三舟 中村三蕉 黒木啓吾等に従うて和漢の学を修め」と3名挙げられている。
まず師事したのは、琴平の日柳三舟 (くさなぎ さんしゅう)
三舟は天領榎井(現琴平町)の日柳燕石の長男で、穣三より19歳年上にあたる。幕末、父燕石は、倉敷代官所の追手から高杉晋作を逃がした罪で4年間の獄中生活を高松で送っていた。明治維新になると新政府により出獄を許され、官軍の書記官的な役割で従軍し、鳥羽伏見の戦いに参加し、その後越後の柏崎で病死する。その期間、三舟は父を投獄者に持つ身として、医院を閉めて榎井で塾を開いたようだ。そこへ幼い日の穣三が通っていたことになる。
父燕石の死後、三舟は伝手を頼って大阪に出て行く。その後、栄達の道を歩み大阪府学務課長を務め、大阪師範学校長に就任。さらに盲唖学校愛育社を創設し、国定教科書の原型を作るなど教育面で活躍する。
三舟については、増田本家の総領で穣三の従兄弟に当たる増田一良が次のような回顧文を残している。
従兄弟の増田穣三氏が若い頃に、呉服商を営んでおり、わが妹の婚衣の呉服仕込みのために京都に同行したことがある。その際の帰路、穣三氏が幼年期に師事した大阪の日柳三船先生を訪問するのに同行した。三船先生は那珂郡榎井村の出身で維新の勤王家として知られた日柳燕石先生の長男である。当時は、大阪府参事官を勤め大阪に在住であった。
いろいろな話をしている内に、先生がかつて吾家に立ち寄ったことがあることが分かった。吾屋敷にそびえる巨木の榎に話が及び、記念に「古翠軒」という家の号を書き下された。今、わが家の居室に掲げられている大きな額がそれである。
この回顧資料からは増田家本家には榎木の巨木が邸内にそびえ立ち、周辺からの目印になっていたこと。それが戦後の昭和38年に、風もないのに倒れたことが記されている。続いて、妹の婚礼衣装の買付の京都からの帰路に、大阪参事官を務めていた日柳三舟に会いに行き歓待を受け、自宅の榎の巨木にちなんで「古翠軒」という家の号を揮毫してもらったことが回顧されている。
この回顧分から増田穣三が日柳三舟に師事していたことが裏付けられる。
穣三は幼い足で、春日から堀切峠を抜けて神野村を通って榎井にある三舟の下へ8キロの道のりを通っていたのだ。この道は10年後には、山下谷次が琴平神宮の明道黌で学ぶために通った道でもある。そして、この「通学路」は、後に穣三が村長として「里道改修」に取組み、現在の県道「丸亀ー三好線」に格上げされ、東山峠から阿波へとつながる県道に「昇格」していく。それは、まだまだ先のことである。
次に師事したのが丸亀の中村三蕉である
1817年(文化14年)生まれで明治維新を50歳前後で迎えた丸亀藩士である。上京し昌平校で学び、藩主の侍講、藩校正明館教授を勤めるなど丸亀藩で学問上の指導的な位置にあった人物である。維新後は小・中学校でも教壇に立ち、明治27年8月27日に78歳で死去している。増田穣三は、琴平の日柳三舟に学んだ後に丸亀まで通い、中村三蕉の下でさらに漢学・儒学・漢詩創作などの素養を深めたのだろう。
三人目が高松の黒木啓吾である。
この人物については、現在のところ資料が見当たらない。推察としては、まんのう町吉野の大宮神社の社家である黒木家につながる人物ではないかと思う。黒木家は江戸時代から続く漢学者の家系で、幕末期の日柳燕石らに学んだ黒木茂矩が高松藩藩校・講道館学寮教授、教部省の神道教導職、金刀比羅宮の禰宜(ねぎ)を務めるなど、この時期の讃岐の国学神学をリードした人物である。明治初期の廃物運動の中讃地区での中心人物でもある。増田穣三の幼なじみで初代の七箇村村長となる田岡泰や財田の大久保諶之丞の弟彦三郎も高松在住の黒本茂矩のもとで学んだとある。しかし、黒木啓吾について不明で今後の課題である。
増田穣三が学んだ「学問」とは、どんなものだったのか?
明治維新の前と後を考える場合、政治的には「維新」と言う不連続面に光を当てて語られることが多い。しかし、農村部では生活・文化様式や価値観においては、江戸時代とあまり変化はない。「明治維新」が目に見える形で地方にまでやってくるのは、鉄道が敷かれ蒸気機関車が琴平まで通い出したり、旧丸亀中学本館のような西洋風の公共建築物が姿を見せるもっと後のことだ。農村部では、着ているものも、食べるものも、家も変わりなく江戸と明治初期は続いており、連続面の方が多い。
例えば、増田一良の母親の出里である羽床の宮武家は、反骨のジャーナリスト宮武外骨を世に送り出している。その外骨が明治初期に東京遊学の際に、大地主である父親が求めたのは「将来の地主層としてのつきあいに必要な漢詩・儒学・華道・茶道を身につけて帰ってくること」であったという。英語を学び洋学を身につけよという発想は、いまだない。また、この時代はには学制も整備されておらず、帝国大学もなく教育による「立身出世」という社会システムも未整備だった。田舎においては江戸時代の価値観からまだ大きく変化はしていない。
そのため地主達の師弟教育は、従来通りの「和漢の学」が中心だった。穣三も漢学・儒学に加えて漢詩、書道、華道という農村部の名望家にとって必須教養とされるものを学んだのは自然なことだった。
若き日の増田穣三が最も惹かれたのは何だったのか。
穣三の顕彰碑には、次のような部分がある。
「如松斉丹波法橋の門を叩いて立花挿花の菖奥を究め、終に斯流の家元を継承し夥多の門下生を出すに至れり」という部分だ。
華道に打ち込み、家元を継承し多くの門下生を持ったという。つまり、若き日の彼は、政治家としてよりも華道の師匠として、人生を出発させたようだ。その経緯を見ていきたい。
未生流華道の師 園田如松斉について
まんのう町宮田の西光寺(法然堂)の園田如松斉の石碑
増田穣三の華道の師匠に当たる園田如松斉の碑文が宮田の西光寺(法然堂)に残っていると聞いて行ってみた。琴平から国道32号を南に2㎞程南下すると樅ノ木峠への傾斜がきつくなる。その国道から200㍍ほど西側に西光寺はある。法然が流刑となった際に、この地までやって来たとされ地元では法然堂と呼ばれている。
園田如松斉の顕彰碑(まんのう町宮田 法然堂)
その境内の本堂の前に園田如松斉の顕彰碑は建てられていた。碑文内容は仲南町誌に掲載されている。意訳すると次のようになる。 如松斉は丹波の国、園田市左衛門の二男である。
悟譽蓬山和尚と称し、浄土宗西山派の僧侶で文久2年宮田の西光寺の第17世住職となり堂塔の修繕などを行いその功績著しかった。
明治4年2月10日、生間の豊島家の持庵に移住して本尊薬師如来の奉祭にあたった。生花を好み未生流の師範として遠近から集り来る者が多く、自庵で教授するばかりか各地方に招かれて出張指導した。その結果、広く那珂郡南部一帯に普及発展して門弟は六百余名に達した。
明治16年2月17日死去、享年76歳。
春日の増田秋峰(穣三)は、その高弟で皆伝を許された。
明治23年4月増田穣三らによって、西光寺境内にこの碑が建てられた。
碑文裏側には、建立発起人の名前が並んでいるが、その先頭にあるのは増田秋峰(穣三)である。その次には、穣三の幼なじみの田岡泰の名がある。3番目は佐文の法照寺5代住職三好霊順である。
この碑文が建てられたのは明治22年、如松斉没後7回忌の年に当たる。この年、初めて七箇村会が開かれ、増田穣三も田岡泰も議員に共に33歳で選出される。そして、議員互選で村長に選ばれたのは田岡泰であった。
この碑文の発起人の筆頭に増田穣三の名前があると言うことは、どういうことを意味するのか。
それは、年若い穣三が如松斉亡き後の門下を束ね指導し、その実績を背景に名実共に後継者となっていたことが推察される。
未生流(みしょう)華道とは、どんな流派だったのか。
未生流は、文化文政時代に未生齋一甫(通称:山村山碩(さんせき)によって創流され、大坂を中心に幕末から明治にかけて広がった華道の新しい流だという。
その目指すものは、陰陽五行説・老荘思想・仏教の宗教的観念を根本的思想おき、挿花を通じ自己の悟りを開くという精神的に極めて高い境地を目指した。また、直角二等辺三角形に役枝を配する明快な花形に込められた理論と哲学は、新しく「華道」と呼ぶにふさわしい道を開こうとするもので、明治という新しい時代にマッチした教えだと受けいれられた。
未生流を、中讃地域に最初に持ち込んだのが如松斉だった。
そういう意味では如松斉は、西讃地域の華道の新潮流の先頭にいた人物と言えよう。その流れの中に若き増田穣三は飛び込んでいき、若き後継者に成長していく。幼年期に身につけた儒学・漢学・漢詩の素養を花を活けるという手段で一つの世界を表現し、作り上げていくという作為がピッタリと来たのかもしれない。
未生流(みしょう)華道の作品
なぜ園田如松斉の後を、若い穣三が継ぐことになったのか?
仲南町誌(584P)には、晩年の如松斉が穣三に対して、強い思い入れを持っていたことを伝える次のような記述がある。
「園田如松斉は病伏中も若き高弟増田穣三に対して、腹の上に花台を置いて指導し皆伝を許可。」とあり、
死を目前にその腹の上に花台を置いて、臨終の際まで指導を行い経験の少ない穣三に皆伝を許可したと伝えられる。
穣三顕彰碑文には「(園田如松斉の)家元を継承し、夥多の門下生を出すに至れり」と刻まれている。後継者候補として、彼よりも年上で経験豊富な人物は何人もいたと思われるが穣三が選ばれたのはどうしてか? それは、若き穣三の中に、多くの門下生をまとめ上げ、指導していく寛容力や人間的な魅力があると如松斉は見抜いたのではないか。
秋峰とは増田穣三の号 佐文の尾﨑伝次に出された免状
いずれにせよ27歳で後継者となった穣三は一門を束ね、指導していく責務を果たしていく。それが新たな人間関係を結んだり接待術・交流・交渉力などを養うことにつながり、後の政治家としての素養ともなる。
この時期の周囲の穣三に対してのイメージは、「増田家分家の若旦那」「未生流華道の先生」「歌舞伎芝居の浄瑠璃太夫」という所ではなかったか。
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tono202
がしました