田岡泰について

春日出身の国会議員 増田穣三をめぐって「町誌の森」歩きが続く。
その森の中で田岡泰という人物に出会った。仲南町誌(1320P)に増田穣三に続いて、次のように紹介されている。
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田岡 泰の墓(春光寺 まんのう町春日)
田岡 泰 七箇村初代村長
安政五年(一八五八)九月八日
大正一五年(一九二六)一〇月一〇日  (64歳)
春日、田岡照治郎の長男。梅里と号し、   
明治元年から明治四年まで三野郡上麻村の森啓吾に漢学を学び、
明治五年から明治七年まで高松の黒木茂矩に皇漢学を学んだ。
明治八年 県立成章学校(後の香川師範学校)に入学
明治10年から一年間大阪の藤沢南岳に師事して帰郷。(20歳?)
明治一二年七箇村黄葉学校の教員兼併区監視、
明治一三年高篠学校の教員を勤め、
明治一八年から明治21年まで那珂、多度、併合会議員に選ばれた。
明治二二年三月には榎井村私立養蚕伝習所に入所して養蚕伝習受講
明治二三年四月一日から明治三一年まで七箇村の初代村長に選出。
明治三一年四月二五目から明治三二年三月七日まで県会議員、
明治三二年九月三〇日から明治三六年九月二九日まで郡会議員。
この間七箇村外三カ村連合村会議員にも選ばれた。
明治三十三年十月二十一日 西讃電灯の臨時株主総会において、監査役に就任。
村長在任中は地方行政に数多くの功績を残されたが、なかでも塩入新道の開通には特に力を入れて現在の県道丸亀三好線(一〇九号線)の基をつくった。後年、広島村長、吉原村長にも選ばれ、これらの功績により勲七等瑞宝章を賜り、晩年は丸亀で余生を楽しまれた。
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                  田岡泰の墓標
 春日のお寺の墓地で田岡泰の墓を偶然に見つけた。この墓に漢文で刻まれた碑文を意訳したのが上記記述になるようだ。
ここからは、興味深いことがいくつか分かる
 まず生まれが安政5年9月であり、増田穣三より1ヶ月遅く生まれた幼なじみであるという点である。同じ春日に、同じ富農の家に生まれた二人の生き方は、互いに交わり七箇村で糸を紡いでいくように進んでいく。この墓碑には、穣三の碑文にはなかった教育歴が載せられている。
①上麻村(高瀬町)の森啓吾(漢学) 
②高松の黒木茂矩(皇漢学)
③香川師範学校(普通学)
④大阪の藤沢南岳(儒学)20歳で帰郷
  和漢の学をベースに師範教育も受けている。さらに、当時、数千人の門人を擁した大坂の泊園書院への遊学経験もある。20歳で帰郷後は、七箇村の教員を務め、さらに榎井村私立養蚕伝習所に入り、養蚕技術の指導をめざすなど、地域にとっては近代教育を受けた若きリーダーとして地歩を固めていったようである。
 明治初年は高等教育が整備されておらず、農村の富裕層の師弟は、いち早く整備された師範学校に進んだ者が多い。卒業後、教員として地域に馴染み、その後に村の指導者に成長・転身していくというパターンである。田岡泰も、その典型と言えよう。

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                  田岡泰の墓標
 明治23年大日本帝国憲法施行 → 国会開設 → 県・市町村地方議会の開設  という政治的な流れの中で,初めての村会議員選出が行われると田岡泰も増田穣三も選出されている。そして議員の互選により初代七箇村長に選出されたのは、田岡泰であった。
   増田穣三ともに32歳のことである。若きリーダーの登場である。彼らによって「村にやってきた明治維新」は、姿を整えられていくことになる。