財田上ノ村戸長 大久保諶之丞に学ぶ村の経営学
明治23年4月 七箇村で23歳の田岡泰が戸長、増田穣三が村会議員としてスタートした頃、時代がこの地域の指導者に求めていたものは、何だったのだろう。前例のない時代を地図もコンパスも持たずに村の指導者として歩み出す幼なじみのふたり。
この時代、隣村の財田には新しいタイプの指導者が登場し、その言動が注目を引くようになっていた。大久保諶之丞である。明治初年の村のリーダーが直面した課題や障害、それにどう取り組んだのか、諶之丞を参考に考えてみよう。そして、春日の田岡泰や増田穣三にとって、10歳年上にあたる諶之丞の言動はどのように見えていたのだろう探ってみよう。
まずは、大久保諶之丞の年譜確認から
嘉永2年(1849) 財田村奥屋谷の素封家に生まれる幼年より陽明学を学ぶ。弟はは尽誠学舎創設者の彦三郎。慶應2年(1866) 父森冶の後妻の娘タメと結婚。(17歳)明治3年(1870) 満濃池の改修工事に参加し土木技術習得
明治5年(1872) 財田村役場に勤務(村長代行的役割)(23歳)
村内の子弟を山梨県に派遣し、養蚕業の技術を地元に根付かる。明治6年(1873) 「西讃竹槍騒動」で自分の家を襲われ焼失同年戸長(村長)に任命される明治11年(1878)猪ノ鼻峠から阿波に続く「新がけ」道を完成、すべて地元負担で建設。これが「四国新道」構想の端緒。明治12年(1879)三野豊田郡役所の勧業係となり、谷道開発・修繕に従事。コレラの全国的な流行に対し、医師の養成計画「育医講」を作り、奨学金給付。育英資金は村民120名の講から拠出。明治17年(1884) 四国新道期成同盟を結成。明治18年(1885) 吉野川からの導水を提唱、請願書提出明治19年(1886) 金刀比羅宮神事場にて四国新道開削起工式。明治20年(1887) 讃岐鉄道の請願委員の一人として書名。明治21年(1888) 愛媛県会議員就任(40歳)明治22年(1889) 讃岐鉄道開通式で、「瀬戸大橋」構想発表。明治23年(1890) 讃岐阿波新道完成。明治24年(1891) 県庁議会場で討議中、倒れ込み高松病院へ。
2月14日尿毒症を併発し死亡。
政治家としての活動期間は僅か3年です。。年譜から見えてくること
晩年、四国新道建設のための工事費工面のために注ぎ込んだ私財は、当時の金額で6500円。そのため父祖よりの蓄えと、田畑、山林のほとんどが人手に渡っていたと云います。残された家族は三度の食事にも窮したとも伝えらます。
1 大久保諶之丞は、田岡泰や増田穣三よりも一回り年長。明治維新を19歳で迎えている。2 幕末の志士と同じく陽明学を学び「学問・思想と行動の結合」という行動主義を身につけている。3 23歳の時に「西讃竹槍一揆」の一揆集団に、地主層と見なされ自分の家を焼き討ちされている。この事件の彼に与えた影響は大きかったのではないか。4 その影響からか村経営の指導的な立場に立つと、農民の生活を豊かにするためにの改善策を、真剣に考える。そして養蚕業の移植・北海道移民・講組織による医師養成等、いろいろなアイデアを実行して行く行動力と使命感がうかがえる。5 その際に、四国新道起工式でプロモートした「鍬踊り」のようにユーモアや面白さも持ち合わせており、使命感が強いだけの堅いイメージではない。それが人々を結びつけていく武器となったようだ。6 また四国新道建設推進のために、高知まで出向き、初見の高知知事の協力をとりつけるなど要人の懐に飛び込んで、味方につけていく「人たらし」の力も持っていた。7 しかし、県会議員、在職年数わずか3年。議会での質問中の殉死である。
諶之丞が議場で壮絶な死を遂げたのが明治24年(1891)。地元の財田に遺骸が帰ってくるのを、村民達は完成したばかりの四国新道沿いに出て、涙を流しながら出迎えたと伝えられる。これを、村会議員2年目の増田穣三は、どのような思いを抱きながら見守ったのであろうか。
どちらにしても、田岡泰や増田穣三は大久保諶之丞の影響を少なからず受けている。また受けざる得なかった。二人の碑文の業績には「東山道改修に尽力」という言葉が刻まれている。大久保諶之丞が四国新道と「殉死」したように、道路改修は以後の指導者の大きな課題であり「夢」となっていく。
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