四国新道完成後の財田の様子については、次のような記述があります。
四国縦貫の幹線道である四国新道にはしだいに人馬の通行が多くなり、ことに明治29年(1896)善通寺師団が設置されてからは日を追って交通量が増加してきた。土佐・阿波から入隊の兵士やその家族や金毘羅参りの人々は、明治38年に戸川まで乗合馬車が開通してからは馬車を利用するものが多かった。定員わずか8名の馬車でも当時は大量輸送機関であり、利用者も多く繁昌して個人営業者がつぎつぎと現われてきた。そして大正3年(1914)には5つの乗合馬車が営業していた。 (仲南町誌)
この資料から開通後の四国新道沿線沿いの十郷・財田村の活況さがうかがえる。財田町誌にも
「特に、財田の戸川集落には旅籠や乗合バス亭・水車による脱穀業などが新しく並び立ち、新たな賑わいを見せるようになった。(財田町誌682P)」
と四国新道完成後の沿線の「経済効果」を紹介しています。
視点を変えると「新道」は、現在の「バイパスあるいは高速道路」です。新道が出来たために物と人の流れが変わり、周辺には寂れていく街道や宿場も出てきます。四国新道の完成は七箇村を通る「塩入街道」にも影響を及ぼしました。
「春日を通過する塩入街道が寂れていく」という危機感をバネに「わが村にも第2の四国新道建設を!」
という思いを持つ指導者が徳島の昼間村に現れます。
讃岐山脈を越えた徳島県昼間村(現みよし町)の村長田村熊蔵は、樫の休場経由の塩入道を、車馬の通行可能な新しい道路にグレードアップする道を探っていました。その際にルートを、東山峠越で塩入に至るルートに付け替えようと考えます。
徳島県三好側からの東山峠までの「新道」開通に向けた動きを見てみましょう。
香川県仲多度郡七ケ村につながる道は険悪であった。そこで人馬の通行が円滑になるようにと、昼間村長田村熊蔵、有志三原彦三郎等が香川県に属する分の改修を七ケ村長(田岡泰)に交渉した。明治25年(1892)昼間・撫養街道分岐点より延長三百余間の改修を行った。しかし、全線に係る工費は巨額で村力の及ぶところではなかった。その後も、郡費補助をたびたび要求した。
その結果、明治30年度に金792円74銭の補助が受けられることになり、時の村長丸岡決裁はこれと同額の金額を有志の義捐に求め前の改修に接続して、延長千七百間の改修を行った。が、東山字内野まで伸張し、一時工事中止となった。
明治32年5月に内野から県境までは測量は終了したが、郡財政上着工にまでは至らなかった。その後明治35年度において再び郡費補助を得たが、今度は村の自己負担分の工費が工面できず県費補助を要求した。
その結果、明治36年度より39年度に至る四か年の継続事業として郡県の補助を得ることが出来るようになった。それを生かし道路用地は各持主の寄付によることを協定し、更に県の実測を経て里道改修工事を竣工させた。総工費22334円にて、内5262円53銭9厘の県費補助、6729円43銭3厘は郡費補助を受け、残額10142円49銭6厘は村の負担として、有志の義金又は賦役寄付に求めた。(以上 三好町誌)
明治39年になって三好町昼間から男山を経て東山峠までの新道が完成します。いままでの獣道ではなく車馬交通の便を開けたのです。
そこに至る経過を整理しておきましょう
1892年(明治25)昼間村長は田岡泰七ケ村長と話し合い「自分の村の改修は自ら行う」ことを確認します。県境を挟んだ両村が東山峠までの新道を互いに責任を持って建設し、東山峠でドッキングする約束をしたのです。そして、工事開始。しかし、当時の里道建設は「全額地元負担」でした。そのため
「全線に係る工費は巨額にして村力の及ぶところにあらず」
であえなく中断。以後は、小刻みに伸ばしていく戦略に切り替えます。5年後、郡からの半額補助を受けて内野まで延長。さらに6年後に、郡・県から半額補助を受けて、4ヶ年計画で東山峠まで伸張し、1906年(明治39年)に香川県側の七箇村塩入から伸びてきた道とドッキングさせてています。香川側の完成から16年後のことになります。
東山峠
この際に大きな追い風となったのは、主要里道の建設改修に対して、県や郡からの補助金が出るようになったことです。村の村長としては、新道建設の重要性を説くと共に、補助金確保のため県会への働きかけが大切な仕事になります。補助金が付き、認可が下りても今度は、地元負担金を準備しなければならない。これをどうするのか。
「苦心惨憺一方ならざるものあり」と資料は記します。
当時は、建設費の半分は地元負担が原則です。自分の村を通る道は自分で作るのだという自負と決意がなければ、当時の里道建設はなかったようです。
当時は、建設費の半分は地元負担が原則です。自分の村を通る道は自分で作るのだという自負と決意がなければ、当時の里道建設はなかったようです。
七箇村の田岡泰や増田穣三達、若きリーダーも、徳島側と連携をとりながらこの「自負と決意」を固め、実行に移していったのでしょう。それでは、香川県まんのう町側の「塩入街道改修」はどのように進められたのか、またを負担金はどのように集めたのかを次回は見ていくことにします。
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