塩入街道 東山越開通まで七箇村(現まんのう町)を中心に
前回は丸亀三好線(現県道4号)の建設過程を、徳島の昼間村を中心に見てきました。今回は、香川側の動きを見ていきます。

丸亀三好線の建設について、仲南町誌で確認してみます
この道は七箇村経由金毘羅参詣阿波街道とも呼ばれている。阿波の三加茂・昼間・足代方面から阿讃国境の樫の休場越又は東山越をして塩入村で合流し、一本松を経て七箇村に入り堀切峠を越え岸上村・五条村を通り琴平村の阿波町に至る金毘羅参りの街道であった。
藩政時代阿波藩は鎖国の国といわれたが生活必需品の塩だけは、この道を通って阿波に入っていた。明治時代に入って、交易の自由化にともないたばこなどの阿波の特産物が盛んに讃岐に入るようになり、また仮耕牛の行き来も盛んになった。そのため明治28年(1895)ごろから漸次道路改修が行われ、現在の県道丸亀三好線の基をなした。
阿讃国境附近の道路改修は当時としては東山越の方が便利と考えてか、この道を県道として改良したので、樫の休場越はしだいに寂れてしまった。また、堀切峠は明治三三年(一九〇〇)に改修されるまでは現在の県道より五~六mも高い所を通っていた。 (以上 仲南町誌942P)
丸亀三好線(香川県では塩入街道)の開通までを年表にしてみた。
1890(M23)年 猪ノ鼻越の四国新道の部分開通
初代七箇村村長に田岡泰(33歳)就任。
9・25 香川県が里道改修補助費取扱規定を定め工費の三分の一を補助決定。町村道改修に県の公費補助が認められ、里道改修促進され、工事申請が増加。
1892 昼間村長田村熊蔵が香川県分の新道改修を七ケ村長田岡泰に依頼。両県から工事を進め東山峠で結びつけることに合意。
1894 四国新道開通式挙行 四県知事が出席して琴平町で行う。
1895 七箇村 東山越里道改修始まる(四国新道への対抗策?)
1899 4月26日 田岡泰が七箇村長退任、
増田穣三が第二代村長に就任(41歳)増田穣三が「琴平・榎井・神野・七箇一町三村道路改修組合長と為る」
1900 堀切峠の改修終わる
1901 塩入越及び真野里道改修落成式を大井神社境内で挙行
1902 徳島県が4ヶ年継続事業として男山から東山峠への新道 建設への補助金交付決定
1906 東山峠で結合。(後の県道丸亀~三好線)開通
香川県七箇村と徳島県昼間町を車馬による交通が可能に
増田穣三 七箇村長退任 第3代 近石伝四郎村長就任
1890年に猪ノ鼻越の「四国新道」が部分開通しています
これが、財田村にもたらした経済効果は大きかったようです。
七箇村の初代村長に就任した田岡泰は、これをどう見たののでしょうか。新道を作り、人とモノが動くようになれば、その沿線にお金が落ちるようになり、経済的な発展をもたらす。ということを目にしたことでしょう。これを見て七箇村も「塩入街道」の新道化(=グレードアップ化)に取り組むことの必要性を痛感したのではないでしょうかか。
新道建設に向けて、2つの追風が吹きます。
①里道改修に県からの補助が受けれるようになったこと。②徳島県の昼間村長から「新道建設」に向けて「共同戦線」を結ぶことの提案があったこと。
これを受けて田岡泰は1895年に、まずは塩入・琴平間の改修に取りかかります。しかし、予算確保が進まず工事着手に至りません。

1899年、田岡泰が村長退任し、替わって助役の増田穣三が第2代村長に就任します。
新道建設は、幼なじみの増田穣三にバトンタッチされることになります。穣三は、七箇村だけでは荷が重すぎるのをで、沿線沿いの琴平・榎井・神野七箇の一町三村と道路改修組合を結成します。そして、その組合長に就任し、予算確保に奔走します。
ちなみに、当時は村長は村会議員の互選、そして県会議員も兼務可という「複選制」でした。もし、増田穣三が名刺を持っていたらそこには、香川県議会議員 七箇村長 七箇村議の3つの肩書きが並んでいたはずです。村長がその地域の利益代表として、県会議員として県議会等で道路建設等の補助金確保に奔走する姿が見られるようにななったのがこの時期からのことのようです。
資金のめどがつき、堀切峠の切通工事が竣工するのが1901年秋のことでした。これを、当時の新聞は次のように伝えています。

堀切峠から南方の阿讃の山脈を見上げる
里道塩入線開通までわずか
明治33年(1900)11月17日『香川新報』
仲多度郡琴平、榎井両地を起点とし神野七箇両村を経て徳島県三好郡昼間村に至り撫養街道に接続の入里道延長約八里の改修は去る29年2月を以て起工せし。右延長里程中本県に属する里程は四里十六丁にして此の中山間工事と称すへき里程 約二里あり。加ふるに国境に於て四十尺余の切下けあり 神野七箇の村界にても数十尺の開繋ケ所ありて総工費は六万余円の予算にて着手せしものなるか。爾来工事継続し山間部の残工事は来る26日頃を以て終了すへく 又神野村五条より琴平阿波町と東の方榎井村宇旗岡に至り県道に接続すへき間の工事は、目下専ら施工中にて来月中旬頃迄には竣了の予定なり。右両所竣功せは開通に至る事なるか此の里道改修に當りては専ら盡力させしは増田、田岡の諸氏にて沿道村民の寄附又少からさりしなり。
総工費は香川側が6万円余り、徳島側22334円 合計で約8万円。大久保諶之丞発案の四国新道全体の額からすれば1/7程度です。しかし、工事区間から考えれば、決して見劣りがするものではありません。最後に「開通に至る事なるか此の里道改修に當りては専ら盡力させしは増田、田岡の諸氏」と田岡泰前村長と増田穣三町長に賛辞の声を送っています。
さらに「沿道村民の寄附又少からさりしなり」と結んでいる。
「寄付」という形で地元負担金を負担したのは、どんな人たちだったのでしょうか。『香川新報』に、「木杯と賞状」と見出しのついた次のような記事があります。

塩入越里道改修費への寄付一覧 明治33年11月10日
仲多度郡塩入越里道改修費中へ左記名下の金額寄付せし兼により今回木杯1個又は賞状を下付さる。
仲多度郡七箇村 馬場和次郎(75円)
十郷村 大西貞次郎(40円)
七箇村 石川広次(40円)
葛原宇三郎(30円)
山本喜之次(30円)
葛原倉蔵(25円)
増田伝次(25円)
山崎岩次(21円50銭)
大西三蔵(20円)
近石歌次(12円)
山内万藏(12円)
東淵才次(11円10銭)
近石藤太(11円)、川原岩次(同)
近石米次(10円80銭)
増田慶次(12円40銭)
以下10円
近石直七 久保弥平、森藤和多次、原田時次、大東又八 横田綾次、垂水村浄楽寺(各10円)其他同郡榎井村 中条亀三(9円)、外69名へは賞状。
こうして1901年(明治34年)6月9日に 「七箇村塩入越及び真野里道」(丸亀三好線)の落成式が神野村の大井神社境内で行われます。

この席に「道路改修組合長」を勤めていた増田穣三は、どんな思いで出席していたのだろうか。11年前に田岡泰村長が昼間村長が約束した「新道を東山峠で結合しよう」という約束を果たしたことになります。
この香川県側の動きを受けて、徳島県も動き出します。
補助金交付を決定し、1902年から男山~東山峠への区間が「四カ年継続事業」として認定されます。そして4年後の1906年に昼間と東山峠区間が完成します。こうして車馬が通行できる新道が七箇村と昼間村を結ぶことになります。猪ノ鼻峠を越える四国新道の開通から16年後のことでした。沿線の人たちは、新たな時代の始まりと思ったのではないでしょうか。
補助金交付を決定し、1902年から男山~東山峠への区間が「四カ年継続事業」として認定されます。そして4年後の1906年に昼間と東山峠区間が完成します。こうして車馬が通行できる新道が七箇村と昼間村を結ぶことになります。猪ノ鼻峠を越える四国新道の開通から16年後のことでした。沿線の人たちは、新たな時代の始まりと思ったのではないでしょうか。

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