香川県に、はじめて電灯を灯したのは高松電灯だった。

旧高松藩士 牛窪求馬(うしくぼ もとめ)・松本千太郎
創立者の牛窪求馬は、高松藩の家老職の生まれで、高松で最初に自転車に乗り、靴をはき、洋服を着た人と言われ「ハイカラだんな」と呼ばれた人。この求馬が高松にも電灯会社をつくろうと決心したのは、明治26年、数え年31歳の時だった。幕末生まれで増田穣三とは同じ世代に当たる。発起人となって同志をつのり、旧藩主の松平家から資金援助もあって、資本金5万円の高松電灯が発足したのは、2年後の明治28年4月。その後、配電区域を着実に拡大していく。
旧丸亀藩内でも、電灯会社設立をめざす動きが二つ動き出す。

一つは、多度津の景山甚右衛門や坂出の鎌田家を中心とするもの
もう一つは中讃の農村部の助役や村会議員の動きである。
後者の中心人物の一人が増田穣三である。設立呼びかけ人には増田穣三の他、当時の七箇村長や春日の名望家の名前も見える。郡部の地主僧を中心に「電灯会社」設立準備へ向けての動きの中心に穣三はいたようだ。
もうひとつは、坂出の鎌田家と多度津の景山家の連合体だった。そして、認可が下りたのは後者。鉄道会社や銀行を経営し「多度津の七福神」として資本力も数段上の多度津坂出連合ではなかった。譲三が集めた「中讃名望家連合」であった。
しかし、認可権は得たものの高松電灯のように、殿様の支援があった訳でなく資本も技術も経営術もない素人集団。それが外国から発電機を買い入れ発電所を作り、電線を引いて電気を供給するという仕事に取り組んでいくことになる。当然、難問続出で遅々として営業運転までに到らない。この「電力会社誕生物語」の難産の中に、増田穣三が社長として「火中の栗」を拾わざる得なくなっていくのである。
実業家 増田穣三の姿は?
しかし、認可権は得たものの高松電灯のように、殿様の支援があった訳でなく資本も技術も経営術もない素人集団。それが外国から発電機を買い入れ発電所を作り、電線を引いて電気を供給するという仕事に取り組んでいくことになる。当然、難問続出で遅々として営業運転までに到らない。この「電力会社誕生物語」の難産の中に、増田穣三が社長として「火中の栗」を拾わざる得なくなっていくのである。
実業家 増田穣三の姿は?
若き日の増田穣三は、華道・浄瑠璃・三味線・書道など文化人としての側面を強く見せていた。村会が開かれた明治23年以後は、七箇村村会議員として村長・田岡泰を補佐してきた。さらに明治27年、矢野龜五郎の退任後には、代わって助役に就任し、政治への関わりをより強めていく。
増田穣三 「讃岐人物評論」(明治37年)よりもうひとつの側面である「実業家」しての一面である。
それをうかがわせる資料が四国水力発電株式会社(四水しすい)の30年史である。これにより「実業家増田穣三」の姿を見ていきたい。
「四水」の前身である「西讃電灯株式会社」の株式募集の発起人12名に、増田穣三の名前がある。さらに、穣三の後に村長となる近石伝四郎との名前もある。電力という新規事業に、農村部の若き資産家や指導者が関わっていく姿が垣間見える。
西讃電灯設立への歩み
電灯会社設立の認可が下りると西讃電灯は金蔵寺の綾西館で創立総会を開き、定款を議定し、創業費の承認を求めた。資本金総額12万円 株金額50円 募集株数2400で、払込期限は、明治31年5月5日とされた。これを受けて明治31年9月に正式に会社が創立される。 しかし、ここからが大変であった。会社は作ったが、素人集団。経験や技術、そして信用がない。工事は進まず開業の見込みもたたず「開店休業」状態が続く。設立時の社長・副社長は県外人で直接業務に関与せず、責任の取りようもない。このような状況に対して株主の不満は高まり、明治33年10月21日 臨時株主総会において、役員の総入れ替えを行い、同時に社名を「讃岐電気株式会社」と改称した。 何が営業開始の妨げとなっていたのだろうか。株主宛の報告書を少し長いが見てみよう。
明治34(1901)年7月7日、讃岐電気株式の株主への報告書 (四水30年史よりの意訳)
我々が、前重役諸氏に代わって就任して以後、工事を進捗せしめ、発電機等が到着すれば直ちに据付ができるように準備を進めてきた。しかし、内部の整理に多くの日時費やし、事業の進捗が見られないのが現状である。
電柱が建てられない・・・・
電柱は、明治32年4月より讃岐鉄道多度津停車場に到着しており、丸亀市や多度津町の市街地において電柱工事に着手し、引続き市外での建設を行い、次に琴平町や善通寺村にも伸張していくつもりである。市外工事は、田野に建設することになるが土地所有者から電柱建設の承諾は得ている。しかし、不動産登記法により地上設定の登記を行わなければならない。これには、該当書類の手続きや押印に時間がかかり大幅な遅れとなり、市外への電柱工事は進んでいない。このため予定通り、市街地内での建設と同時に土地登記を行い、その後に田野に建柱し架線工事を終え、各戸に電燈器具の取附引込を行う手順となる。予定からすれば、今秋には架線工事を完了させるはずだったのに未だ終わっていない。このため工員等を増員しても早期完成を図るべきだと冷評する人もいるが、それは皮相な見方で我社の方針を知らないからである。
また、本社建築についても直ちに着手しないことについて悪評がある。
これもまた我社の方針を知らない者の言である。建築物についてはわずか5,6000円で落成を見ることができる。しかし、機械室に至っては外國より機械据付の設計図及ボートゲージ等が到着しなければ地形杭打煉瓦積工事に着手することができない。従って機械室の建設着手を待たずに、付属建物に着手すれは手直しが必要になる可能性が大である。
発電機械の一部は、請負者が外国に発注しており、遠からず到着の見込みであるが、前重役時代の時のように機械は到着するが株金振込が遅々として進まず、機械の引き取りができない可能性も残る。
そうなれば、請負者も融通の道がなく手附金の損失となる。機械は、他の会社に廻される不幸の再演を恐れる。そのため全額支払いとせず分割支払いにしていたが、内部整理のために日時は空しく過ぎ、第2回振込期日を3月末と定めたところ第79銀行の破綻となった。我社は別に関係する所ではなかったが経済界不振の状況のため銀行は警戒を強め貸出を躊躇し、第2回株金振込も完結できない状態となり、工期完成を延長せざる得なくなった。
発電機械の図面がなければ、大きさが分からず家屋をつくれない
その間に、外国より発電機械の図面が到着すれば、直ちに機械室内杭打工事に着手し引き続き煉瓦積を行い、同家屋の起築に着手する。そして、諸機械到着を待って据付工事の準備を行い、一方においては市内の架線工事を行っていきたい。しかし、郊外の田野の架線が出来なければ、雨露に曝して痛みを早めることになりかねない。そのため世評の如何を顧みず架線工事を後にして、来月末日より電燈需要の申込を受付け、各戸の電燈器具取付工事を開始し、秋以後に住宅への架線引込工事に移りたいと考えている。
以上、述べてきたように工事遅延の理由と、また、今後の運営方針についてご理解頂きたい。
そして、来年4月高松市で開かれる関西府県連合共進会期前には送電を開始したい。そうすれば電燈需要数の増加を見込める。機械発注の請負者に対しても、すでに外国の機械製造所と仮契約をしていることを挙げて、電報で至急調整を促し、来年2月完成、3月中には逓信大臣の免許を受け4月1日より開業を目指したい。
株主諸君には、これらの事情を充分了解してりて当會社の被るべき風評を退け株金振込についても遅延することなく振り込み願いたい。また振込にあたって遅れる者があれば共済の策をとるなどの方策も採りたい。早く工事を落成させ、萬歳歓呼の間に試運転の好成績を告け、早く幾分の利益配当を得て、本会社の声價を挙くることに勉められんことを
以上のような要因が重なり、営業開始が延び延びになり、会社に対しての「非常の悪評」「冷評」が噴出している状況がうかがえる。
この株主総会で約束した「明治35年4月1日営業開始」も守れず、営業開始への見通しがつかないまま渋谷武雄社長は病気辞職。これが明治35年8月のことである。
代わって、取締役から社長に就任することになったのが穣三である。
この局面打開に彼の政治力を期待しての社長就任と言うことではなかったかと推察する。しかし、会社の置かれた状況から見て「据えられた社長」的存在だけに留まることは許されなかった。
社長就任3年後の明治37年に出版された「明治37年出版 讃岐人物評論 讃岐紳士の半面」には、「讃岐電気社長・県参事会員 」の肩書きで増田穣三が紹介されている。
「入って電気会社の事務を統ぶるに及び、水責火責は厭わねど能く電気責の痛苦に堪えうる否やと唱ふる者あるも、義気重忠を凌駕するのは先生の耐忍また阿古屋と角逐するの勇気あるべきや必」
と「実業家としてのお手並み拝見」的な内容である。さてそれでは、増田穣三の実業家としての「手腕ぶり」を見てみよう。
明治35年8月の株主総会への増田穣三社長の報告書
当会社事業は、株式不況の現状に加えて軽便電燈の出願があり、大きな影響を受け、営業開始が累々延期を重ね今日に至っている。もはやこれ以上の延期ができない所まで来ている。そのための対応として、工事の速成を計るために請負者才賀藤吉氏を通じて、技師工學士梶平治氏を渡米させる交渉に当たらせ本年9月中旬には諸機械の到着する予定となった。そして、10月の琴平大祭までに開業できる目論見である。開業期日が判然としないため電灯申込者が、現在の所は少いようであるが丸亀の兵営郵便局や昼間の電動力を使用する事業所等とは着々と交渉を進めつつある。
また、一般需要者に対しても大々的に募集計画を周知しており、その結果坂出町などでは電線延長を申請する動きもあり、開業の暁には香川の地方電燈會社の中では、優に覇たるものになるとと信じている。乞ふ株主諸君開業期間の遅延を咎めさらんことを
社長に就任した穣三は、技術者を渡米させると共に、善通寺師団等の大口需用者の確保を進め、琴平大祭の十月初旬には「開業せん目論見」であった。しかし、「障害百出」と設計変更に伴う認可申請のやり直しで、半年遅れの明治36年3月15日になって、初めて多度津の町に電灯を灯すことが出来た。送電営業開始は、それから4ヶ月後の7月30日であった。計画から8年、会社設立後5年の歳月を経ての難産ぶりであった。開業に向けて足踏み状態にあった電力事業を、営業運転にまで導いたという評価は出来るだろう。
讃岐電灯開業1年目の営業成績(1904年)
収入が支出の三倍を超える大赤字である。これを受けて、増田穣三社長は次のように報告している。
明治37年7月 株主総会における増田穣三社長の報告
明治37年7月 株主総会における増田穣三社長の報告
営業開始以来いまだ日が浅く、受電所の設備などが未だ完成に至っていないため、師団聯隊等の多数の需用に応ずることできていない。わずかに丸亀・多度津の区域内において零細の申込を受けながら480餘個の点灯数に達しているにすぎない。そして、今後は加入者が増加することが望めるが、現在の発電能力では、すぐに需要をまかないきれなくなることが予想される。設備の不完全が営業の不況を招いている。
誠に遺憾であるが資本欠乏の状態でかろうじて開業にたどりついた現状では、漸進企画の途上にあり、やむを得ないと云はざる得ない。来年初夏の頃、工事全部の完成になれば我社の営業は近き将来において、一大盛況を呈すであろう。期して待つ可きなり
営業開始から1年で、点灯受容者は480ヶ餘に伸び悩み、収入は支出の1/4程度。繰越赤字は80000円を超える状態である。
しかし、現時点の苦境よりも未来を見つめよとし「当会社の営業は近き将来に於て一大盛況を呈す可きや。期して待つ可きなり」と大幅な欠損にもかかわらず、決して悲観せず大いに望を将来に託すべしという言葉で締めている。
増田穣三の方針は「未来のためへの積極的投資」であった。
増田穣三の方針は「未来のためへの積極的投資」であった。
例えば、日露開戦を機に善通寺第11師団兵営の照明電灯化が決定し、灯数約千灯が讃岐電気に発注されることになると、お国のためにと採算度外視で対応し短期間で完成させている。さらに、明治38年には琴平への送電開始され、電力供給不足になると150キロワット発電機を増設し、210キロワット体制に設備投資を積極的に行った。
讃岐電灯経営戦略上の対立
しかし、日露戦後の景気悪化のため契約数が伸びず、新設備投資が経営を圧迫するようになると、増田穣三の経営に対する不安と不満が起きてくる。 設立以来の赤字総額は8万円を越えていたようだ。
「投資拡大路線」の継続か、欠損金を精算して新体制でのやり直しかをめぐる経営上の対立が激しくなっていった。
1つは、1906年1月に讃岐電気社長を辞任。2つ目は、3月には七箇村長を退任
3つ目は、1907年9月の県会議員選挙に出馬せず
こうして、約4年間の増田穣三の「讃岐電気社長」時代は終わる。
増田穣三が去った後の電力会社は?
増田穣三が去った後の電力会社は?
今までの欠損を、資本金を切り崩すことによって精算する道を選ぶ。
会社は明治40年5月、12万円の資本金の内の84000円を「減少」して、いままでの損失を補填。残りの36000円を資本金とした。この結果、出資者たちは収支額の約2/3を失うことになった。損害を受けた大口株主として、
会社は明治40年5月、12万円の資本金の内の84000円を「減少」して、いままでの損失を補填。残りの36000円を資本金とした。この結果、出資者たちは収支額の約2/3を失うことになった。損害を受けた大口株主として、
「安藤氏に於て8萬六千圓餘、長谷川氏に於て二萬二千円餘、増田穣三氏に於て千圓餘の損失となるも本社の革新を図る主旨により茲に至りたるものなれば、会社か前者に對する功労の偉大なるを認む」
と、新社長景山甚右衛門は株主総会で謝罪している。
電灯会社設立に向けて、中讃の資産家に投資を呼びかけるなど当初から中心メンバーとして関わってきた穣三が失ったものは投資額の1000円という金額を遙かに超えて大きかった。戦前の地方の名望家達は、ネットワークを形成しており色々な情報・話題が飛び交う。「資本減少」という荒治療は、この電力会社の設立を当初より進めてきた増田穣三への信用を大きく傷つける結果となった。穣三自身も責任を痛感していた。それが、村長や県会議員からも身を退くという形になったのではないか。
多度津の景山甚右衛門を社長に迎えて会社は「資本減少」という「荒治療」と同時に、役員の更迭を行なって、景山甚右衛門を社長に、武田熊造を副社長に迎え、地元多度津の有力者による重役陣体制を作った。その上で、この年の8月の臨時総会で、114000円(2280株)の増資を行った。この増資の引受人は「前項新株式は全部景山甚右衛門、武田熊造、武田定次郎、合田房太郎、磯田岩5郎の5氏に於て引受くるものとす」とされた。結果から見れば後に「四国有数の優良企業」に成長するこの電力会社は、出資者も経営者も多度津関係者で固められることになる。
この後の技術革新で水力発電で電気を生み出し、高圧送電技術の進歩を受けて遠距離送電が可能になる。新社長の景山甚右衛門は、いち早くこの技術を取り入れ社名も「四国水力電気株式会社」(四水)と改名し、後の四国電力に発展していく。増田穣三が、社長を務めたのはその前史にあたる。
少年期に「和漢の学」を学び、華道や書道に楽しんだ少年が明治を迎えて、村の指導者として成長して村長職に就く。そこから県会議員や議長にまで成長していく。そして、道路や電気などの当時の最需要インフラ整備に関わっていくことになる。明治という時代は、若き人材を走らせながら育てていく時代なのだと改めて思う。
さて、譲三は村長と県会議員から身を引き、電力事業からも遠ざかる。45歳である。
どこへ向かおうとするのか。
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