
野口ダムより仰ぎ見る阿讃の山々 この奥に塩入集落がある
東山峠は、南の昼間(現三好町)と北の讃岐の七箇村(旧仲南町:現在のまんのう町)の阿讃の村をつなぐ。この峠が出来るまでは、阿波の三加茂・昼間・足代方面から阿讃国境の樫の休場を越えて、塩入集落に至っていた。そして、福良見から堀切峠を越え岸上村・五条村を通り琴平の阿波町に至る。金毘羅参りの街道でもあったため三頭越えなどとともに「金毘羅参拝阿波街道」のひとつとされる。

財田川の源流に沿ってならぶ塩入集落
またこの道は讃岐の塩を阿波へ運搬する道でもあった。阿波藩は「鎖国の国」と言われたが生活必需品の塩だけは、この道を通って阿波の奥地にまで入っていった。その拠点となった塩入集落には、うどん屋や旅人宿ができ宿場町を形成していた。

財田川の源流沿いに東山線は伸びていく。離合可能な走りやすい道である。
明治時代に入って各藩の「鎖国政策」は取り払われ、「交易自由化」が進められ阿波・讃岐間の交易も活発になる。煙草・藍などの阿波の特産物が盛んに讃岐に入るようになり、人と物の交流が増加する。
さらに財田の大久保諶之丞の四国新道建設に刺激を受けて、阿讃の両側(七箇村と昼間村)から道路改修が行われ、東山峠で結ばれることになる。これが現在の県道4号丸亀三好線のルーツである。

東山峠で阿讃が結ばれるまでの経過を追いかけてみよう。
1 1892年(M25年)に、昼間村長は、「香川県に属する分の改修」を七ケ村長に交渉している。ちなみにこの時の七箇村長は田岡泰。県境を挟んだ両村が東山峠までの新道を責任を持って建設し、東山峠でドッキングすることが計画されたようである。
そして、工事開始。しかし、当時の里道建設は「全額地元負担」で「全線に係る工費は巨額にして村力の及ぶところにあらず」であえなく中断。

6年後に、郡・県から半額補助を受けて、4ヶ年計画で工事を実施。明治39年に塩入から伸びてきた道と東山峠でドッキングさせた。
「新道建設」の際に大きな追い風となったのは、主要里道の建設 改修に対して、県や郡からの補助金が出るようになったことである。
村のリーダーとしては、新道建設の重要性を説くと共に、補助金確保のため県議会への働きかけが大切になる。

現在の男山集落
丸亀~三好線がつづら折れに集落を貫いている。認可が下りても今度は、地元負担金を準備しなければならない。これをどうするのか。「苦心惨憺一方ならざるものあり」と資料は記している。
道路建設を決議した村の負担の大きさとそのリーダーたちの心労は大きいものがあった。自分の村を通る道は自分で作るのだという自負と決意がなければ、当時の里道建設はなかった。
阿讃国境付近の道路改修は、東山越に新しい新道が建設されたことになる。その結果、それまでの主要道であった、樫の休場越がどうなっていったのかは又の機会に。
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