まんのう町吉野の「大堀」とは?

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 まんのう町の吉野字大堀(長田うどんの交差点を満濃池方面に500㍍行ったところ)の県道の東に小さな堀が残っている。説明板には「王堀」と呼ばれ「中世の豪族の館跡」と書かれている。いったいどんな「王堀」なのか、資料に当たりながら実相を見てみよう。
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絵図上の野々井出水にあたる部分だけが残っている

 この堀については
「那珂郡吉野上村場所免内王堀大手佐古外内共田地絵図」
という長い名前がつけられた資料が「讃岐国女木島岸本家文書」の中に残されている。
 絵図からは、堀、土塁、用水井手、道路、道路の一部としての飛石、畦畔、石垣、橋、社祠、立木、輪郭の形状が見て取れる。文字部分は、墨書で絵図名称と方位名を、朱書で構造物と地形の名称と規模が書かれている。
 「大堀」の内側の水田については
「此田地内畝六反四畝六歩」
と面積が示される。そして、堀の外周と内周の「竪長」と、堀の「幅」について数値が記入される。以上から100㍍×60㍍が館の面積となる。また、絵図が書かれた当時は、用水管理池としても使用されていたようで、水量を調整する堰が描かれている。
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周囲との位置関係を絵図に書かれた文字資料から見ておこう。
①「五毛往来」「五毛」は、満濃池の南東隅にある地名。
②「巳午ノ間満濃池当り」 南南東の方角には、満濃池がある。
③「南」角丸長方形の堀は、二つの対角線が南北方向の線上にのっている。これは、堀の長軸方向が那珂郡条理地割の方位であるN-301Wにのっているため。
④「未方真野村一向宗光教寺」 「光教寺」は、真野字吉井に現存 。同寺は、中世の「文明年中」の建立という由来をもつ。
⑥「西酉方金毘羅社当り」 西の方角には、金毘羅社がある。
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⑦「戌方八幡宮」「八幡宮」は、満濃町大字吉野字八幡にある「八幡神社」が相当。 方角は、およそ北西方向。
⑧北方面は「丑ノ方当新名氏屋敷当几三丁」「黒木玄碩屋敷几八丁」「新名氏屋敷」の2つの屋敷は、当時吉野に存在した屋敷。
「黒木玄碩屋敷」は、大宮神社付近。
以上からこの絵図が「大堀」のかつての姿を写したものであることが分かる。
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⑧「黒木玄碩屋敷」は、この人物の生没年がこの絵図の作成時期をきめる有力証拠になる。が、詳細は不明。しかし「新名」や「黒木」の苗字を有する人物が江戸時代に大庄屋、社人といた。ここから本絵図が江戸時代に作成されただろうことが推測できる。
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 航空写真で見てみると・・・・
 今は王堀の中央を県道が走り、倉庫が建てられるなどこの地に立っても当時の様子を偲ぶことは難しい。しかし、上空からの航空写真で見てみると長方形の大きな堀跡が読み取れる。堀跡の西・北・東の細長い田地や円弧を描く畦畔として残されている。南辺は幅が狭くなっており、南西隅は宅地のために旧状は失われている。土塁は、東辺・南辺の畑や、西辺の草地や畦道がそのなごりを示している。北辺はその痕跡はうかがえない。四周する土塁の内側の田地の畦畔の位置は、絵図のそれと大体一致しており、旧状を保っている。
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 この堀については、「王堀」「大堀」と呼ばれ、次のような伝承も伝わっている。
 神櫛別命の裔で、那珂郡神野郷を本拠とする豪族の酒部黒麿は、「移りて良野の大堀と云処に居住」した。酒部黒麿の居宅の場所は、「王堀」または「王屋敷」と称していた。王屋敷の東南には「冠塚」「御衣塚」があり、東方には「御殿が岡」があった。
この伝承は、この堀が古代以来の由緒をもつことを物語っている。

 もうひとつの視点としては、近年の中世城館跡の調査研究の成果から考えられる推察である。
中世の武士集団は、まず平地に立地し、方形か長方形の堀と土居をともなう居館を造営し防御性を高める。そして、麓の居館と最寄りの山城とでセットとなる根小屋式城郭の、居館に相当するものであったのではないか。
理文先生のお城がっこう】歴史編 御家人の館

 そういう視点でみるならここから3㎞北には、土器川を挟んで長尾山山上に西長尾城がある。県下有数の山城との関係なども想像してみるのも楽しい。
 H16年に県道拡幅の際に一部の調査が行われた結果、普通の農民の住居とは思えない太い柱をもつ建物が出てきている。そして14世紀前半の鎌倉時代で廃墟となっているようである。戦国時代の建物群は今のところ見つかっていない。
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 つまり、戦国期を迎える前に周辺勢力との武力抗争で滅び去った武家の居館とも考えられる。滅ぼしたのは長尾氏なのか??? あくまで推理推測である。
 どちらにせよ、この絵図は「田地絵図」という農業的要素よりも、同地の軍事的な価値を記した「館跡絵図」の性格が強い。四国新聞2016年9月14日版「古からのメッセージ」では「大堀城跡」として紹介されたいた。

参考資料
 野中寛文  吉野上村の田地絵図は館跡絵図     香川県立文書館紀要3号