三好町男山の徳泉寺について

徳泉寺 男山2
男山の徳泉寺
まんのう町塩入から県道4号(丸亀ー三好線)を財田川源流に沿って原付バイクを走らせる。15分ほどで東山峠に出る。ここから三好町の昼間方面に下っていく。二本栗キャンプ場の上の分岐を右にたどると東山の男山集落へと入っていく。

徳泉寺 男山1
徳泉寺
集落の中に新築中の銅板葺の赤い本堂が見えてくる。徳泉寺だ。
今日は、このお寺についての報告。 
 この男山の地に、美馬の安楽寺で修行した僧が「奥の院」と呼ばれる坊を構えたのが天正十八年(1580)のこと。安楽寺は興正寺派の阿波・讃岐における布教センターの役割を果たし、多くの僧侶を阿讃の村々に送り出し、各地に「道場」を立ち上げていく。そのひとつが徳泉寺になる。阿讃の里のお寺は、どこもそんな歴史を持つ。 
 しかし、この道場は一度は「挫折」する。それを再興し、お寺にグレードアップさせたのが教順である。
教順の先祖は讃岐の落人と伝えられ、次のような話が残っている。
教順の祖先は、讃岐の宇足郡山田の城主後藤左衛門太郎氏正。氏正が瀧の宮の城主蔵人に敗れ、阿波三好郡太刀野山に隠れ住んだ。讃岐からの落武者氏正の孫の重次の二男が教順であり、文禄二年(1592)田野々に生まれ、6歳から讃岐金倉の念宗寺で学んだという。
 その後、教順の母方の伯母が東山の大西庄屋に嫁いでおり、その家に三年ほど寄寓していた。そして、庄屋甚左衛門(教順の従兄)の理解と協力を得て、男山の「奥の坊」再建に着手することになる。 教順30歳 元和7年(1621年)のことであった。
徳泉寺 男山6
徳泉寺
教順は博学多才で徳高く、自宗他宗にかかわらず人々の世話をしたので帰依する人が増えた。
 お寺といえば本堂や鐘楼があって、きちんと伽藍がととのっているものを想像する。しかし、この時代の真宗寺院は、「道場」と呼ばれていた。ちっぽけな掘建て小屋のようなものを作って、そこに阿弥陀仏の画像や南無阿弥陀仏と記した六字名号と呼ばれる掛け軸を掛けただけの施設だった。
蓮如筆六字名号】 真宗大谷派 長命寺 上杉謙信の位牌を安置する真宗大谷派の名刹 創建弘安・正応年中 山形県米沢市
六字名号

そこへ農民たちが集まってきて念佛を唱える。大半が農民だから文字が書けない、読めない、そのような人たちにわかりやすく教えるには口で語っていくしかない。そのためには広いところではなく、狭いところに集まって一生懸命話して、それを聞く。このように道場といわれるものが各地に作られる。「道場」の責任者の一人が教順であった。この道場が発展してお寺になっていく。

浄土真宗の道場(飛騨の嘉念(かねん)房の復元図)

教順が男山で道場を立ち上げていた時期は、美馬の安楽寺が教線ラインを、吉野川流域や阿讃の山々を越えて中讃地域へ伸ばしていた時期でもあった。安楽寺の支援を受けながら教順は、寺院への脱皮を図ろうとする。そのためには本尊を安置し、寺号を手に入れる必要がある。そこで東山の有力者である男山の喜兵衛、葛韻の四郎兵衛、内野の甚太夫、石本の孫右衛門、増川の弥兵衛の五人に協力を依頼。彼らの支援を取り付けた上で、教順は動き出す。
  ちなみに本号免許や法宝物の下付については、本山への礼金や冥加金の納入が必要でした。西本願寺の場合、「公本定法録 上」(「大谷本願寺通紀」)には、その「相場」が次のように記されている。
木仏御礼      5両2分
木仏寺号御礼
開山(親鸞)絵像下付 24両2分
永代飛檐御礼 両1分
寛永十五年(1638)男山の喜兵衛(後の大谷)と利右衛門(後の市場)の二人が奉加帳を回して、38両を集める。これを資金に寛永18年(1641)に上洛し、本願寺に木仏と寺号の徳泉寺を願い出た。さらに、木仏と寺号が免許されると翌年再び上洛して、本尊仏に本願寺聖人良知上人の裏判をもらい受ける。本尊仏は長さ二尺、総金泥弥陀九重座、仏師左近の作であり、裏判は寛永十八年である。

阿弥陀如来像(絵像本尊)
 正式に寺院として認められた徳泉寺は、東山における文教センターの役割を担っていく。
代々の住職は布教のかたわら寺子屋教育に従事し、維新当時の住職山西家信も子ども達に読み書きを教えていた。
 明治十三年(1880)に小学校として使用されるのを契機に草葺きを瓦葺きに替えた。維新後、教順の子孫である11代山西宗嫌が都合で讃岐観音寺へ移った。後には、伯父甥の関係から長尾良雄が来て12代となった。

徳泉寺 男山4
徳泉寺
 昭和六十三年に本堂屋根の葺き替えと一緒に内陣の改装、仏画・仏壇の彩色、鐘楼の屋根・白亜の改修を行った。そして、現在平成26年には、本堂の建替工事が進んでいる。讃岐の落ち武者の子孫が、ここにあった道場をお寺に成長させて500年の歳月が流れようとしている。
 参考文献 三好町史 民俗編299P