増田穣三の従兄弟・増田一良について  

 増田穣三と深く関わる人物として挙げたい人物がもうひとりいる。増田一良(いちろ)である。
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一良は譲三より14歳年下で、増田家の本家と分家で隣同士という地縁血縁的に非常に近い関係になる。一良は、譲三の後ろ姿を見ながら育ち、成長につれて「兄と弟」のような強い絆で結ばれていく。
 例えば、若き時代の二人が熱中したものに浄瑠璃がある。当時、塩入の山戸神社大祭には阿波から人形浄瑠璃がやって来て、「鎌倉三代記」とか、「義経千本桜」などを上演していた。阿波は人形浄瑠璃が盛んで、塩入には三好郡昼間の「上村芳太夫座」と「本家阿波源之蒸座」がやって来ていた。
 その影響を受けて、春日を中心に浄瑠璃が「寄せ芝居」として流行していく。素人が集まって、農閑期に稽古をして、衣裳などは借りてきて、祭の晩や秋の取入れの終わった頃に上演する。そして見物人からの「花」(祝儀)をもらって費用にあてる。ちなみに大正15年ごろの花代は、50銭程度だったという。この寄せ芝居で若き時代の譲三や一良は、浄瑠璃を詠って好評を博していた。県会議員時代には、この時の「成果」が酒の席などでは披露され「玄人はだし」と評されている。
 仲南町誌には、次のような記述が載せられている。
明治中頃、春日地区で、増田和吉を中心に、和泉和三郎・山内民次・林浪次・大西真一・森藤茂次・近石直太(愛明と改名)・森藤金平・太保の太窪類市・西森律次たち、夜間増田和吉方に集合して歌舞伎芝居の練習に励んだ。ひとわたり習熟した後は、増田穣三・増田和吉・和泉広次・近石清平・大西又四郎たちの浄瑠璃に合わせて、地区内や近在で寄せ芝居を上演披露し、好評を得ていた。
 明治43年ごろには、淡路島から太楽の師匠を招いて本格的練習にはいり、和泉兼一・西岡藤吉・平井栄一・大西・近石段一・大西修三・楠原伊惣太・山内熊本・太山一・近藤和三郎・宇野清一・森藤太次・和泉重一・増田和三郎たちが、劇団「菊月団」を組織。増田一良・大西真一・近石直太(愛明)・本目の山下楳太たちの浄瑠璃と本目近石周次の三味線に合わせて、歌舞伎芝居を上演した。当地はもちろん、財田黒川・財田の宝光寺・財田中・吉野・長炭・岡田村から、遠く徳島県下へも招かれていた。
 その出し物は、「太閤記十役目」「傾城阿波の鳴門」「忠臣蔵七役目」「幡州肌屋敷」「仙台萩・政岡忠義の役」「伊賀越道中沼津屋形の役」などを上演して好評を博していた。                                                              (仲南町誌617P)
  若き時代の二人が浄瑠璃を共に詠い、村の人々共に演じ、娯楽を提供していた姿が伝わってくる。これ以外にも、未生流の活花や書道も一良は、譲三を師としている。

 その一良に大きな影響を与えた師が大久保彦三郎である。

 大久保彦三郎は、安政6年(1859年)生で、増田穣三より1歳年下になる。讃岐国三野郡財田上村戸川に富農階層の次男として生まれた。現在の尽誠学園の創設者でもある。兄は「四国新道」を作った大久保諶之丞になる。
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まず大久保彦三郎が歩んだ「学びの道」をたどってみたい。
 明治初年期は、尋常小学校が整備されていない。そのため江戸時代と同じように寺小屋で読み書きを学んだ後、富裕層クラスの師弟は周辺の知識人の塾の門を叩く。この辺りは、増田穣三が琴平の日柳三舟のもとに通ったのと同じだ。
 大久保彦三郎は、十郷村山脇の香川甚平の塾まで歩いて通った。
香川甚平は、藩政改革に大きな実績を上げて著名になっていた備中の儒者山田方谷の徳業を称えていたという。さらに、明治9年(1876)9月からは、高松の黒本茂矩の下で漢学及び国学を学ぶ。黒本茂矩は、古野村(現まんのう町)大宮神社の社家に生れ、明治2年33歳で高松藩校講道館皇学寮教授になり、田村神社の禰宜をしながら高松で私塾を開いていた。 明治初期の讃岐における著名人である。ちなみに増田穣三と幼なじみで初代七箇村長を務めた田岡泰も、ここの門下生であった。田岡泰は、この時期に整備されていく師範学校に進んだが、彦三郎は、儒学・国学・仏教方面をより深く学ぶため京都へ上り、さらに東京で終生の師三島中洲出会い漢学等を修める。しかし、学半ばにして病にかかり保養のため郷里財田村に帰郷する。当時、兄の諶之丞は戸長として、財田村のために尽力していた最中だ。その姿を見ながら彼はかたわら塾を開く。 
 病が一服した明治17(1884)年3月1日には、正式に「忠誠塾」を開設する。
設立目的を述べた「教旨」によると、「国家有用の真士」を作ることであり、そのための手段は主として「儒教・漢学を通じての忠誠心涵養」に求めるとある。対象は小学校を卒業上級志向者で、中学校の代用学校の役割をもったものであったようだ。 
開塾されたばかりの「忠誠舎」の門を、叩いたのが増田一良である。
 彦三郎25歳、一良11歳の師弟の出会いとなる。
忠誠舎は、漢文だけではなく、新聞体、西洋訳書、新著書その他「有益書」を選択して教えたり、体操、詩歌吟舞、学術演説、討論等も教授する新しいタイプの教育機関を目指した。
 明治20年には彦三郎は「忠誠塾」の発展を願い、拠点を京都に移し「尽誠舎」と改名する。忠誠塾の一期生である一良も、これを追いかけて京都に上り、尽誠舎に入学する。師である彦三郎を慕い仰ぐ気持ちが伝わってくる。こうして、一良は忠誠塾の一期生、尽誠舎でも第一期生としての誇りを持つと同時に、大久保彦三郎の薫陶を深く受ける。母校に対する愛情は深く、終生変わらぬものがあったようだ。
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尽誠の同窓会にて 中央に座るのが増田一良 
 一良に遅れて2年後(M22年)に入学してくるのが山下谷次である。
 山下谷次は、まんのう町帆山出身で、後に「実業教育の魁」として衆議院議員に当選し活躍する。この時期、彼は同郷出身者を訪ね、勉学の熱意を訴え支援を仰いだがかなわず、貧困の中にあった。谷次を援助したのが彦三郎である。彦三郎は、尽誠舎への入学を認めると共に、舎内への寄宿を許した。そして、谷次に学力が充分備わっているのを確かめると、半年で卒業させ、さらに大抜擢し学舎の幹事兼講師として採用している。 
この時期は、一良の京都遊学時代と重なるようである。
ふたりは京都尽誠舎で、「師弟の関係」にあった可能性がある。
後に谷次は、香川選挙区から衆議院議員に立候補し当選する。
その原動力の一つに、現職の県会議員増田一良や、元衆議院議員の増田穣三など「増田家」に連なる人々の支援があったのではないだろうか。       参考資料 福崎信行「わが国実業教育の魁 山下谷次伝」
 
 尽誠舎卒業後の一良の足取りは、上京し駒場農林学校に進学するまではたどれるが、そこから先が今のところ分からない。資料がそろっていないのだ。今後の課題としたい。 

一良の政治家としてのスタート

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一良は明治35年に29歳で七筒村会議員に当選する。これが政治家としてのスタートになる。当時、七箇村長は増田穣三である。譲三は県会副議長も兼務しており、明治34年からは多度津に設立されていた「讃岐電気株式会社」の社長も務めていた。そのため多忙で高松に家を借り、春日の本宅を空けることが多くなっていた。そのような中で、譲三が帰宅すると一良は隣の譲三宅を訪ね、いろいろな情報のやりとりを行う一方、二人で浄瑠璃や活花を楽しむ姿がよく見られたという。
 譲三が衆議院議員になり上京することが多くなると、その「国家老」的役割を果たしていたのは一良であったと思われる。例えば、土讃線誘致合戦の一コマについて一良は、次のような回顧を行っている。 
1917(大正6年) 12月に「塩入線鉄道期成同盟会」をつくり貴衆両院へ請願書提出した。仲多度多度郡に於ては郡会議員を実業会員として発足し、徳島県関係方面との連絡を取る必要ありとして会長堀家嘉造、副会長三谷九八、松浦英治、重田熊次郎、増田一良(本人)と出発の際、加治寿衛吉氏加わり一行六名塩入越を為し徳島県昼間村に至り村長に面談。共に足代村長を訪い相携えて箸蔵寺に至る。住職大いに悦び昼食の饗応を受け小憩、此の寺を辞し吉野川を渡り、池田町に至り嶋田町長と会談を為し、徳島県諸氏と別れ猪の鼻峠を越え琴平町に帰着、夕食を共にし別れる。
 此の旨、在京増田代議士に之通告す。
  土讃線の琴平ー池田ルート誘致のために徳島への誘致工作を、郡議会議員が行った際のことである。わずか一日で、塩入から東山峠を越え昼間ー箸蔵寺ー池田と訪問し、夕方には琴平に帰っている。百年前の人たちの健脚ぶりに驚かされる。
 同時に「此の旨、在京、増田(譲三)代議士に之通告する」とし、頻繁な連絡が取られていたことが推察される。
 また情報を分析して有利と思われる新規事業には二人で共に投資を度々行っている。その幾つかをあげてみると
1903(M36)年 八重山銀行設立(黒川橋東詰)社長に一郎就任。
1911年 讃岐電気軌道株式会社のが設立発起人に、増田一良・増田穣三・長谷川忠恕・景山甚右衛門・掘家虎造の名前がる。
1921年 七箇・十郷村に初めて電力を供給した塩入水力電気株式会設立社設立も、一良・譲三が中心となって行っている。 
このようにふたりは、政治的にも経済的にも緊密な関係を維持しつつ諸事に対応していたことが窺える。

村議から県会議員、そして村長へ

一良は明治35年(1902)に29歳で七筒村会議員となり、翌年には、仲多度郡会議員も兼務する。しかし、村長職には年上の従兄弟増田正一が就任しており、一良が村長に就くのはずっと後になる。
 そのためか、譲三が衆議院議員に転出した後の県議会への出馬の機会を伺う。最初の挑戦は、大正4年9月であった。この時は、5月の衆議院選挙で増田穣三が再選されるも、その直後に大浦事件が発覚し、譲三が刑事訴追されるという逆境の中での選挙となり、結果は次点であった。
 2回目は、4年後の大正8年(1919)9月である。この時は「譲三の後継者」と、土讃線誘致運動の中心人物としての実績を前面に出し、初当選を果たす。

 一良は、雅号を春峰と称し、琴古流尺八は悟竹と号して、譲三と共に浄瑠璃は玄人の域に達していた。「春と秋」の二人で浄瑠璃を楽しむ姿が、譲三の晩年にもよく見られたという。
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春日の一良の家の客間には「老木の木」と題された文書と写真が掲げられている。

昭和39年一良が91歳の時に書き残したものである。
全文を紹介する。 
 老木の木       昭和39年6月増田一良撰
吾が邸内の北隅に数百年を経たると思われる榎木の老木あり。周囲2丈余。其根東西に張り出すこと四間余。緑濃く繁茂空を掩い樹勢旺盛にして其枝広く四方に延び、特に北方の枝先地に垂れ、吾幼少の頃、枝先より登り遊びたることあり。
 6年前その枝が倒れ折れ垣塀二間を破壊し、裏の畑地に横たわる。その木にて基盤3面を取り、余りは木を挽いて板と為す。其後南方に出たる枝折れ、続いて北の方、東の方の枝も折れ、西向の枝のみ生残り居りしが。昭和38年風も無きに東方の折れ株が朽ち落ちると間もなく生き残りの西方の枝(周囲1丈一寸)の付け根より6丈ほどの處にて西北と西南とに分岐し居りしが大音響と共に付け根の處より裂け折れ、西南の枝は向こうの部屋の屋根の棟木と母屋を折り枝先向庭の地に付き、西方の枝は垣塀の屋根を壊し藪際の畑地にその枝先を付け茲に長く家の目標となりし老木も遂に其終わりとなる。
付記
  往年増田穣三氏若かりし時、呉服商を営み居りしを以てわが妹の婚衣買い求め為、呉服仕込みの京都行に同行。帰途穣三氏が曾て師事したる大阪の日柳三船先生訪問にも同行。三船先生は元那珂郡榎井村の出身にして維新の際勤王家として素名を知られたる日柳燕石先生の男にして大阪府参事官をつとめ大阪に住せり。種々談を重ねるうち先生曾て吾家に来りしことあり。巨木榎に及び其時古翠軒という家の号を書き与えらる。今吾居室に掲げある大きな額が夫れである。
 一良は戦後、村長職を退いた後も春日の地に留まり、晩年は県下最年長者として悠々自適の老後を送り104歳の長寿を全うした。

 
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前川知事が県下最長寿者・増田一良を訪問

 増田一良の年譜

1858 安政5年    増田譲三と田岡泰が七箇村春日に生る。
1873 明治6年  7月22日 増田一良(いちろ)生  
1884 明治17年3月 大久保彦三郎により財田上ノ村に開設されたばかりの忠誠塾入塾。
1887 明治20年大久保彦三郎が京都に開設した尽誠舎入学     
   その後、駒場農林学校に進学。(卒業後の経歴が不明)
1890 明治23年6月 七箇村役場(旧東小学校)開庁
1897 明治30年 春日地区で、増田穣三等の浄瑠璃に合わせて寄せ芝居を上演披露し好評。
1899 明治32年3月 第5回県会議員 増田穣三が初当選(41歳)
        4月 増田穣三第二代七箇村長に就任(41歳)
1902 明治35年3月 増田一良(29歳)が七筒村会議員となる。
           以後20年間村議を務める。
1903 明治36年9月 増田一良、仲多度郡会議員に当選。
           以後大正8年まで連続四期当選
1903 明治36年 黒川橋の東に八重山銀行設立。社長に増田一郎就任。副社長:大西豊照(帆山)ほか七名の重役格と業務執行者森川直太郎によって営業
1906 明治39年3月 増田穣三 七箇村村長退任 
          9月 第3回県会議員選挙に増田穣三出馬せず
1911 明治44年9月 讃岐電気軌道株式会社が設立。
    発起人に、仲多度郡の増田一良・増田穣三・長谷川忠恕・景山甚右衛門・掘家虎造の名前あり。
                3月 増田正一が七箇村村議に選出され、助役に就任。
1912 明治45年5月 第11回衆議院議員選挙で増田穣三初当選。
1914 大正3年 7月 七箇村長に増田正一就任(譲三・一良の従兄弟)
1915 大正4年 3月衆議院議員総選挙で白川友一と共に増田穣三再選。
   5月 白川友一代議員と大浦内相が収賄で高松高裁へ告訴され「大浦事件」へ
   9月 第9回県会議員選挙に増田一良初出馬するも428票で次点。1917 大正6年12月 塩入線鉄道速成会総会で土讃線の速成を貴衆両院へ請願書提出。
1919 大正8年 9月 県会議員選挙で増田一良初当選(46歳)
1920 大正9年 4月 土讃鉄道工事起工祝賀会開催(琴平)
1921 大正10年 増田一良 穣三らと共に塩入水力電気株式会社設立。
1923 大正12年5月 土讃線琴平-讃岐財田間が開通 琴平駅が移転。
1924 大正13年5月 山下谷次 香川選挙区より衆議院議員初当選
1926 大正15年   七箇村会議員選挙実施 増田一良は2位当選
1934 昭和9年 9月 増田一良 第6代七箇村長就任
1935 昭和10年11月 土讃線全面開通(三縄~豊永間が開業)
1937 昭和12年増田一良村長の呼びかけで生前に増田穣三の銅像建立
1938 昭和13年   山下谷次の銅像建立(十郷村会の決議で大口に)
1939 昭和14年2月 増田穣三 高松で死去(82) 七箇村村葬。
1943 昭和18年2月 増田一良が第9代目村長に再度就任。
1963 昭和38年3月 増田穣三の銅像が塩入駅前に再建される。
1977 昭和52年9月12日 増田一良104歳で永眠。